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女性医師への差別は今もなお……医療とともに社会は進歩したのか? コナン・ドイル、時代を越えた問いかけ

2020年10月06日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 医師の人格形成や患者に対する想像力を養うことを目的に編み出された、医療人文学。この学問の視点から、読者が医療について考えるきっかけとなる小説を集めたアンソロジー、それが本書『医療短編小説集』だ。19世期から現代までの英米文学を中心とした収録作14編で扱うテーマはさまざま。損なわれた医師・医療と暴力・看護・患者・女性医師・最期・災害という7つのカテゴリーに分けられ、医療小説を書くイメージのない意外な作家の作品も収録されている。


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 たとえば、名探偵シャーロック・ホームズの生みの親として知られるコナン・ドイル。専業作家になる前に開業医をしていたドイルは、1894年に『ラウンド・ザ・レッド・ランプ』という医学短編集を発表している。その中の一編「ホイランドの医者たち」が、本書では「女性医師」のカテゴリーで収録されている。


 ドクター・ジェイムズ・リプリーは開業医だった父親の跡を継ぎ、競争相手のいない田舎の村の医療市場を独占していた。ところがある日、商売敵が現れる。女性医師ドクター・ヴェリンダー・スミスがやって来て、村の外れで新たに病院を開いたのだ。物語の舞台である19世紀イギリスの医療現場は男性中心主義で、女性医師なんてもってのほか。勇敢さや不屈さが求められる医者は男性がなるべき職業だとされ、リプリーもそう信じて疑わなかった。ところが、偏見は見事に覆される。


 最新の医療器具を駆使して、どんな疾患も次々と治していくドクター・ヴェリンダー・スミス。腕前が評判を呼び、彼女の病院は大盛況。自分の病院の患者たちがどんどん離れていったリプリーの面目は丸潰れで、女性医師を否定どころか憎悪するまでになる。だがやがて、転機が訪れる。往診に向かう途中に馬車から投げ出されて脚を骨折してしまい、憎きライバルであるスミスの診察を受けることになったリプリー。毎日顔を合わせて彼女と話してみると、その勤勉さと学識の豊かさに感心させられ、女性が医師になることを快く思っていなかった自分の愚かさに気づく。いつしかスミスに恋心を抱くようになったリプリーは、彼女へ思いを告白しようとするのだが……。


 そんな恋の行方と共に本作で気になるのが、男尊女卑というテーマの古びなさだ。医学部入試での女性差別が発覚するような今の日本で、この作品を昔話として読めるかというとそんなことはない。医療技術の進歩と同じくらいに、社会は進歩したのだろうかと考えさせられる。


 20世紀アメリカ文学を代表する作家のひとり、ジャック・ロンドン。彼は多作の人だった。40歳で他界するまでに長編小説20作を刊行し、さらに短編は200作にも及ぶ。作品のジャンルは幅広く、冒険物やSFや動物にボクシングに、さらには医療も含まれていた。ロンドンが書いた医療小説「センパー・イデム」の本書におけるカテゴリーは、名前からして不穏な「医療と暴力」である。


 外科医のビックネルは、有能だが情緒というものを持ち合わせていない人間だ。患者たちがどんな人間なのかなんてどうでもいい。彼らの症状にのみ興味がある。治療し甲斐のある酷い状態であればあるほど、ビックネルにとって価値が高かった。だから自殺に失敗して重傷を負った男センパー・イデムを大手術の末に助けようと、完治してしまえばもはや用済み。最後に彼を診察した時に、確実に死に至る自殺の方法を教える始末だった。


 本書の監修者である石塚久郎は巻末の解説で、〈医療も文学である〉と語る。〈患者が話す病歴は小さな自伝であり、医師はその物語を事後的に解釈し、問診や身体を診察することでその解釈を裏づけ、自らの解釈を「診断」として新たな医学の物語に書き換え患者に差し戻す〉という診療の過程においては、患者=題材で医師=作家と見ることもできる。この視点で「センパー・イデム」を読んでいくと、ビックネルの行為は医師として明らかにアウトだが、文学的にはそう断言できない気がしてくる。再び自殺行為へと導く医師=作家の診察は、患者=題材に忠実だと受け取ることもできるからだ。とはいえ、ハッピーエンドの方が望ましくはないかとも思うわけで、医療と文学の両面から倫理について考えさせられる。


〈脈拍 一二〇 呼吸数 二五 体温 三六・七―三六・九―三六・八 所見――書くことはたくさんあった〉


 「看護」に分類されているF・スコット・フィッツジェラルド「アルコール依存症の患者」は、アルコール依存症患者の〈彼〉が抱える苦しみについて看護を担当する〈彼女〉の視点から描いた短編だ。酒を取り上げようとしてもみ合った時に感じた、患者の現世への執着の無さ。〈鋭いが、よそよそしく、困惑した視線〉から読み取れる、死への意思。彼が見つめる先にある、〈誰かの身体のなかに入り込む前の死〉。患者を細かく分析して病理=物語を見つけて、上司へ報告するために言語化しようと試みる〈彼女〉。ここでは世話をするだけでなく、患者のよき批評家でもあるという看護師の新たな一面が見えてくる。


 こうなると「最期」にカテゴリーされているリチャード・セルツァー「ある寓話」で、死についても考えたくなる。危篤状態の患者を見守る医師。もはや苦しみを和らげることしかできない状態の彼は、文学に置き換えるとどんな役割を果たしているのか。そもそも医師は、死をどう解釈するのが医学的に文学的に適切なのか。小説を通して考える医療は奥が深くて、思考実験を死ぬまで繰り返したくなる。


(文=藤井勉)