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日本学術会議への"政治介入"は「令和の滝川事件」? 憲法が「学問の自由」を保障する理由

2020年10月03日 08:41  弁護士ドットコム

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政府への政策提言をおこなうなど、「学者の国会」との異名を持つ国の特別機関「日本学術会議」が推薦した新会員候補者の一部について、菅義偉首相が任命しなかった問題で、SNSでは「令和の滝川事件」と指摘する声が上がっている。


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滝川事件とは、1933年、京都帝国大学法学部の滝川(瀧川)幸辰(ゆきとき)教授がおこなった講演やその著書が自由主義的であるなどとして、当時の鳩山一郎文部大臣が滝川教授の休職を決定したことから始まった思想弾圧だ。



この国の決定に対して、学問の自由や大学の自治を侵害などとして、法学部は抗議、教官全員が辞表を提出し、学生やほかの大学、メディアを巻き込んだ政治事件となった。



明治憲法に「学問の自由」を保障する規定は存在せず、そうした中に起きた滝川事件は学問に対する政治介入の歴史として知られる。戦後は滝川事件などへの反省から、憲法23条で「学問の自由」が定められた。滝川事件とは一体、どのようなものだったのだろうか。(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)



●明治憲法にはなかった「学問の自由」

現在の憲法23条は、「学問の自由は、これを保障する」と定めている。戦後日本を代表する憲法学者、芦部信喜の『憲法』(岩波書店/第7版)によると、明治憲法だけでなく、海外の憲法でも「学問の自由」を独自の条項で保障する例は多くないという。



なぜ、日本国憲法は「学問の自由」をわざわざ定めたのか。



明治憲法時代に起きた滝川事件や天皇機関説事件(1935年)への反省があったと『憲法』では指摘されている。天皇機関説事件とは、憲法学者の美濃部達吉の著書が発禁処分とされ、公職も追放されたもの。国家を法的に一つの法人とし、天皇はその最高機関として位置付ける天皇機関説は、政党政治に正当性を与える学説で、美濃部はその主な論者だった。



こうしたことから、現在の憲法23条は「学問の自由ないし学説の内容が、直接に国家権力によって侵害された歴史を踏まえて、とくに規定されたものである」という(『憲法』)。



なお、明治憲法の範となったプロイセン憲法において、学問の自由は保障されていた。『図解でわかる憲法』(伊藤真監修、高野泰衡著/日本実業出版社/2008年)によると、明治憲法下でも「明治初期から大正にかけて学問の自由と大学自治、とくに大学の人事に関して教授会の同意がなければ教授の任免を行なえないという慣習が確立」していったが、昭和に入り軍国主義が台頭してくると、これらが大きく侵害されていったという。



●影を落とす「司法官赤化」と「帝国大学教授赤化」

滝川事件のきっかけは、滝川が前年10月に中央大学法学部でおこなった講演にあった。その年末、文部省を訪れていた京大の小西重直総長は、滝川が不穏当な講演をおこなったとして、小山松吉司法大臣から鳩山文部大臣に注意があったと告げられる。その際、講演内容や普段の講義について調査してほしいとも依頼された。



大臣が気にするほどの講演は、どのような内容だったのか。



タイトルは「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」で、トルストイの人道主義的立場を紹介しつつ、共感を示したものだったという。しかし、その中に「犯罪は国家の組織が悪いから生ずるのであって、刑罰を加えるは矛盾である。犯罪は国家に対する制裁だ」という趣旨の発言があったとされ、これが問題視された(『滝川幸辰』伊藤孝夫著/ミネルヴァ書房/2003年)。



『滝川事件』(松尾尊兌著/岩波現代文庫/2005年)によると、問題視された部分はトルストイの刑法観だったが、滝川の話しぶりもあって、聴衆は滝川の刑法観だと誤解したという。



ちょうどこの年には、「司法官赤化事件」も起きていた。これは東京地裁の判事や書記らが共産党の活動家であるとして逮捕され、治安維持法違反に問われた事件だった。一部の政治家や右翼活動家は、「司法官赤化」は「帝国大学教授赤化」が原因であるとして、批判を強めていたことも重なった。



●「一時の政策で教授の進退が左右されれば、学問の発達は阻害」

1933年2月、衆議院では「赤化教授」問題が取り上げられた。その中で、滝川の著書『刑法読本』も槍玉に挙げられていた。翌月には、衆議院で「思想対策に関する決議」が可決され、これにもとづいて政府は「危険思想」の取り締まりや「善導」に邁進していくことになる。



以後、一気に事件は動いていった。前出の『滝川幸辰』によると、同年4月、内務省は滝川の著書『刑法読本』と『刑法講義』を発禁処分とした。文部省は京大に対して、滝川への辞職勧告などを要求、小西総長はこれを拒否。5月、鳩山文部大臣は「この種の思想問題のためなら学校閉鎖も辞さない」という談話を発表して、衝撃を与えた。



実際に鳩山文部大臣は小西総長と面会し、「文部省としては滝川にどうしても辞めてもらわなければ困る。このことは閣議決定済みであり、休職を命じるつもりである」と言って処分を迫った。小西総長は実行すれば、重大事件となると述べたという。



京大法学部教授会は「もし一時の政策により教授の進退が左右されれば、学問の真の発達は阻害される」として抗議の決議書を文部省に伝達した。文部省はこれを一蹴。教授会は、最悪の場合は総辞職を辞さないという方針を固めた。



●「文部大臣が監督下の大学教授を任免できないことは不都合」

そして5月24日、小西総長は鳩山文部大臣に対して、滝川への辞職勧告はできないとする最終的な拒否をおこなった。緊張が高まる中、学生らを中心に抗議活動は広まった。しかし、5月25日、首相官邸で文官高等分限委員会が開かれ、滝川の思想は「マルクス主義」であるとした。



総長の具状(詳しく述べること)なしに、教授の進退を決定することは帝国大学の職員人事規定に反しないかという疑問もあったが、「官制の精神からして文部大臣が監督下の大学教授を任免できないことは不都合」として、委員一致で可決した(『滝川幸辰』)。



5月26日、首相官邸での閣議決定を経て、滝川の休職が発令された。



その後、京大法学部教官は全員辞表を提出し、学生らも抵抗したが、覆ることはなく、6月に小西総長は辞任した。後任の総長が滝川を含めた6人の教授らの辞表を文部省に提出し、多くの教員が京大を去ることになった。



●滝川事件「大きな戦場準備のための小手調べ」

京大での学生たちの運動は、東京、東北と三帝大に広まったものの、夏休みに入って沈静化していった。滝川事件は当時の若者たちにインパクトを与えた。1935年に東京帝国大学を卒業した経済学者の藤本武は『私たちの瀧川事件』(東大編集委員会編/新潮社/1985年)で、次のように述懐している。



「当時の学生大衆は満州事変をきっかけに、迫りくる戦争の足音に大きな危機感をいだいていた。瀧川罷免という思想弾圧が、さらに大きな戦争準備のための小手調べであることを鋭く本能的に嗅ぎとっていた」



滝川事件の起きた1933年は、折しもドイツでヒトラーが政権を獲得して、独裁政治へと踏み出した年でもあった。その3年後、日本でも二・二六事件が発生し、軍部大臣現役武官制が復活。1937年には日華事変が発生、戦争へと突き進んでいった。



滝川は戦後、京大法学部長、総長を歴任することになる。1962年に亡くなったが、絶筆となったのは「文相の拒否権」とする一文で、文部大臣が教官人事のかぎを握ることに反対する一方、教授会が自覚的に人事に取り組むことを求めたものだったという(『日本の法学者』日本評論社/1974年)。