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高3のときに"強かった父"が亡くなった…自死遺族・菅沼舞さんが語る「自殺対策」に必要なネットワーク作り

2020年09月16日 11:02  弁護士ドットコム

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自殺対策と言っても、さまざまな方法がある。希死念慮(死にたいという願い)を持っている人や自殺未遂の当事者へのアプローチももちろんだが、遺族の支援も欠かせない。


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昨年、自殺対策基本法の趣旨を踏まえ、自殺対策について、効果的な調査研究をすることや、国や地方自治体、民間団体の連携強化を目的とした「自殺対策の総合的かつ効果的な実施に資するための調査研究及びその成果の活用等の推進に関する法律」が成立した。



この法律に基づいて、厚生労働大臣は「指定調査研究等法人」に一般社団法人「いのち支える自殺対策推進センター」(清水康之代表理事)を指定した。同センターでは、今年9月から「自死遺族等支援室」が新設された。



同室長で、自死遺児でもある菅沼舞さんに聞いた。



●高校3年のときにお父さんが亡くなった

――菅沼さんは高校時代、お父さんが自殺されたということですが、悲報はどう聞いたのですか?



菅沼: 高校3年だった2003年7月7日、学校で授業を受けていたとき、所属するバスケットボール部の顧問に呼ばれて、「お父さんが亡くなったから家に帰りなさい」と言われました。初めは何を言っているのだろうと思いました。学校から自宅まで、自転車で帰る途中、いろいろ考えました。「お父さんが亡くなったのは嘘かな?」とか、父はそれまでに何度も事故に遭っていたので「事故かな?」と思ったりしました。途中から、自転車をこがずに押して、帰りました。家に近づくにつれ現実を受け入れないといけないのが怖かったのです。



当時、父は母とすでに離婚していました。私は、母と弟と一緒に住んでいました。父は妹と暮らしていたんです。父が会社を起業後に、それまで専業主婦だった母は、慣れない仕事での過労が続き、パニック症候群と鬱を発症しました。治療中の母のことが心配だったため、私は母側につきました。中学時代から仕事が忙しく、父が家に帰らないことも多くなっていたため、離婚調停では、母に頼まれ、父に落ち度があることを証言もしました。その証言をしたことが、私の中で負い目になり、父とはだんだん疎遠になっていました。



帰宅後、母方の祖母の家に行くことになったのですが、すでに親戚が集まっていました。母は「ごめんなさい」と泣いていました。そこで父が自殺したことを知らされました。第一発見者は、父が経営する会社の人でした。駐車場で車が目張りをされていたために、おかしいと思ったようです。父が最後に持っていたのは一冊のノートと2千円でした。



父方の祖母が喪主をつとめたものの、人前に立てる状態ではなかったので、私が親族代表としてあいさつをしました。泣きながら話しました。葬儀会場には500人も参列していました。出棺のとき、母が「私も連れて行って」と叫んでいたことを覚えています。



――お父さんの思い出は?



菅沼: 小さいころは、"強い人"というイメージでした。小学4年生のゴールデンウィークに家族旅行をしましたが、父はお腹が痛かったのに、我慢していました。最終的には救急車で運ばれました。盲腸を我慢していたようです。カッコつけだなと思うこともありました。「大人になる儀式だ」と言って、中洲(福岡市)でコース料理を食べさせてくれたこともあります。



1995年ごろ、父は有限会社を設立しました。「世界を駆けめぐる会社にしたい」と言っていました。のちに株式会社になり、経営は順調でした。しかし、その後、バブル崩壊のあおりを受けて、大きな取引先が倒産して、会社経営がうまくいかなくなったようです。自身の生命保険を会社にかけていたようで、遺書にも「この保険で社員の給料を補って」と書かれていました。



実は、自殺の予兆を父方の祖母は感じていました。亡くなる3カ月前に、自殺未遂をしていたからです。このときに、先の遺書を書いているのですが、その中には「親より早く死ぬ不幸者をお許しください。子どもたちのことをよろしくお願いします」とあったのです。このときは死にきれなかったようです。亡くなる1週間前、父から連絡があり、「ご飯を食べに行こう」と言われました。予定があると言って断り、お小遣いだけもらいました。まさか、その後、自殺するとは思いませんでした。





――高校3年のときということは、その後の進路にも影響がありましたか?



菅沼: 7月から8月にかけては、部活の全国大会がありました。バスケ部のキャプテンでしたが、顧問は参加できないと思っていたようです。しかし、最終的には参加して、全国優勝しました。定時制の大会ですが、連覇を果たしました。バスケの練習をしていたほうが気が紛れました。



いったんは、父が自殺したことを考えず、自分の生活を優先しました。その後、10月に大学受験がありました。進路が決まったあと、母の知人から、遺児の支援活動をおこなっている一般財団法人「あしなが育英会」を教えてもらい、奨学金の採用面接を受けました。このときは、たんたんと父が自殺したことを伝えました。



●大学の雰囲気に馴染めず、あしなが育英会の活動をはじめる

――大学生活や「あしなが育英会」での活動を教えてください。



菅沼: 入学したのが、いわゆる"お嬢様大学"で、雰囲気が合いませんでした。一生懸命に勉強して、大学へ行けば、自分は救われると思っていたんですが、何も変わりませんでした。むしろ余計に大変でした。一人暮らしをしながら、生活費と学費を稼がないといけなかったからです。それに単位も取る必要があります。でも、ほかの人は大学生活を満喫しているように見えました。自暴自棄になっていたため、6月からは大学へいかず、後期は休学することに決めました。



そんな中で、夏に「あしなが育英会」の合宿がありました。最初は遠目で見ていたんですが、そこで同じような自死遺児の先輩や海外からのテロ遺児が来ていました。衝撃的でした。自分よりも大変な子がたくさんいるんだと思ったのです。最終日夜には、みんなの前で泣きながら話しました。参加する前には、そんな暇があるならバイトをしたいと思っていたんですけどね。



後期からは「あしなが育英会」の活動をするようになります。天神(福岡市の繁華街)の真ん中で「私のお父さんは自殺しました」と泣きながら話して、募金活動をしました。メディアにも取り上げられました。父方の祖母からも「あなたは悪いことをしているわけじゃないから、堂々と名前を出しなさい」と言われました。



また、当時は、「あしなが育英会」という遺児の集まりはありましたが、遺児の母親の集まりはありませんでした。それで大学を卒業後、母親の集まりである「あのねの会」を作りました。お母さんが話し出すときに発する「あのね」という言葉が由来ですが、「安心して、伸び伸びと過ごせる、ネットワーク作りの場」の頭文字でもあります。



――社会人になってからはどうでしょうか? 遺児の支援もしていたようですが。



菅沼: 東京で就職しました。しかし、ほかの人たちとの実力差を感じたことと、営業利益を非常に気にしていたところもあり、だんだんとしんどくなり、入って3年目の秋から3カ月間休職しました。「あしなが育英会」では、自分の存在を認めてもらえると感じていたのに、会社では当然ながら一社員です。上司には恵まれましたが、がんばれずに鬱になりました。転勤して、北関東で働いたこともありましたが、やっぱりがんばれませんでした。



結婚するタイミングで、「あしなが育英会」の関係者に報告しに行きました。そこで2006年に開設されていた学生寮「あしなが心塾」の女性指導員が足りないと聞かされました。それで「心塾」で働くことになったのです。最初は、「社会人になって自信喪失している私が教えることは何もない」と悩みましたが、逆に「社会の厳しさを知ったからこそ、後輩たちが同じような辛い思いをさせたくない」と思い、こんな私で必要とされる場所があるならがんばってみようと思ったんです。



「心塾」では、6年働きましたが、楽しいことももちろん、たくさんありましたが、自分の実力不足を痛感させられる方が多かったです。そう簡単に、他人の人生は変えられません。指導者としては、厳しいことを言わなければならない存在でもありますので、想像以上に大変な仕事でした。心塾をやめてしまう学生もいました。やめさせなければならない出来事もありましたが、実は、そういう学生のほうが家庭環境など、大変な状況に追い詰められている子が多いんです。もちろん、いまだにつながっている子もいます。泣きながら相談してくれる子もいました。この6年間を振り返ってみて、私には何ができたのか、と疑問に思うこともありますが、たくさんの学生と出逢えたことは私にとっての財産です。



●ネットワークづくりをしたい

――これからもっと幅広い自死遺族支援をすることになりますね。



菅沼: 9月から「いのち支える自殺対策推進センター」に新設された「自死遺族等支援室」で室長として働きます。自殺総合対策の中でも、依然として立ち遅れている自死遺族等への総合的な支援の推進を担うことになります。個人的には、自死遺族の支援団体のネットワークづくりに力を入れていきたいと考えています。



また、現在は、自死遺児に特化した支援がほとんどありません。だから、全国にいる自死遺児の先輩や後輩たちに声をかけて、特に多感期である中学生から大学生までのネットワークづくりを強化したいと考えています。



――菅沼さんが考える「支援」とはどんなイメージですか?



菅沼: 自死遺族の中には、大切な方が自死で亡くなったこと自体を考えたくないと思う方もいらっしゃると思うので、支援はこちら側が一方的に押し付けないようにしないといけないと思っています。当事者が望んだときに、望んだ情報がきちんと届くように、たとえば、奨学金や分かち合いなど、本人にとって必要な情報が届く仕組みを作りたいです。



ご遺族の中には偏見にさらされたり、辛いことがあり、自分たちの悩みや苦しみを簡単に打ち明けることができない方もいます。しかし、それと同時に亡くなってしまった方たちの苦しみを代弁できるのは、残された周りの方々でもあるとも思っています。自殺対策を一緒に進めたいと思っている遺族の方も少なくありません。



ですから、当事者である私が、自分自身の体験や想いをオープンにすることで、いろいろな人たちからの情報が集まってくるようにしたいです。



「遺族」といっても、自殺によって影響を受ける人たちは、家族や親族だけではありません。恋人や友人たち、亡くなった方の周りにいる多くの人たちも影響を受けます。だからこそ、自死遺族「等」支援室となっています。遺族の人の声が、今「死にたい」と思っている人たちにも届くようにしたいです。父と同じように自殺に追い込まれる人を一人でも減らしたいですから。いずれにせよ、やりながら考えていくしかありません。



●生きづらさを感じている方々へ(厚生労働省)

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/r2_shukan_message.html



●いのち支える相談窓口一覧(自殺総合対策推進センターサイト)

http://jssc.ncnp.go.jp/soudan.php



●日本いのちの電話連盟

https://www.inochinodenwa.org/



●いのちと暮らしの相談ナビ(NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク)

http://lifelink-db.org/



【プロフィール】菅沼舞(すがぬま・まい)  厚生労働大臣指定法人「いのち支える自殺対策推進センター」自死遺族等支援室室長。大学時代に「あしなが育英会」に出会う。2007年、東京ビッグサイトで開催された「自殺対策新時代 官民合同シンポジウム」で自身の体験を語るなど、自殺対策の活動にも積極的に関わる。大手通信会社に就職し、営業職を経験後、一般財団法人「あしなが育英会」に転職。「あしなが心塾」の女性指導員として活動。2020年9月より現職。



【筆者プロフィール】渋井哲也(しぶい・てつや) フリーライター。中央大学文学部非常勤講師。東洋大学大学院文学研究科教育学専攻博士前期課程修了。教育学修士。若者の生きづらさをテーマに、自殺・自傷行為、いじめや指導死、ネット犯罪などの取材を重ねる。著者に「学校が子どもを殺すとき」「ルポ平成ネット犯罪」など。