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芥川賞受賞作『むらさきのスカートの女』が問いかけるもの 倉本さおり×矢野利裕 対談【前編】

2020年08月28日 18:41  リアルサウンド

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今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版)

 書評家の倉本さおり氏と批評家の矢野利裕氏による文芸対談。前編は、第161回芥川賞を受賞した今村夏子『むらさきのスカートの女』について。同作の解釈から評価のポイント、『こちらあみ子』を含めた今村夏子の作家性についてまで語り合った。


参考:綿矢りさが語る、女性同士の恋愛小説を書いた理由「文章はユニセックスに表現できる」


■矢野「純文学的な手法はストーカー的」


矢野:『むらさきのスカートの女』はすごく面白かったです。今村夏子さんの他の作品で言うと『こちらあみ子』も大好きな小説だけれど、個人的には『むらさきのスカートの女』も引けを取らないくらい良かった。この作品で第161回芥川賞を受賞して良かったです。でも、ちょっと変わった作品というか、どう解釈して読めば良いのかがわかりにくい作品でもありますね。


倉本:選評を読んでも、読みは錯綜してるなと思いました。


矢野:斎藤美奈子さんが『AERA dot.』の書評で「ホラーか、はたまた恋愛小説か」と書いていました。読みの方向が多方向に開かれていて、すごく怖いという声がある一方でゲラゲラ笑いながら読んだという人もいる。面白さと不穏さが同居した作品で、その意味では村田沙耶香さんの『コンビニ人間』(2016年)に近い手触りを感じました。


倉本:そう、『コンビニ人間』のような手触りがあるからこそ、私は芥川賞の本命だと思ったんですよね。近年の芥川賞には、どんなタイプの評者が読んでもそれぞれの解釈を語ることのできる幅がある作品、言い換えると複数の読みが可能な作品が受賞しやすい傾向があるんです。『コンビニ人間』もそうだし、本谷有希子さんの『異類婚姻譚』(2016年)なんかもそうですよね。女性作家がスパッと受賞するときはそのパターンが多い。『むらさきのスカートの女』も「本当は実在しない女の話なんじゃないか」なんていう読みをする人もいますし。


矢野:謎な部分を残す作品ではありますよね。一方で、「語り手の〈私〉は誰なんだ?」という謎解きの話として読み進めると、ラストではちゃんと判明するので、ある意味ではカタルシスもある。推理小説的な構造があり、そこがキャッチーで良いと思ったんですよ。解釈の余地はたくさんあるけれど、シンプルな外枠があるから、これまでの作品よりスッと入ってきた。


倉本:「この〈私〉はどこの誰なんだ?」と思いながら読み進めると、ちゃんと答えがある。でも、そのうえで読みが複層化するところが面白いんですよね。どこの誰かはわかったけれど、どういう存在なんだろう?と考えると、様々な解釈が出てくる。結局、〈私〉は何が目的だったのか、何を考えているのかというところが理解し難くて、読者の語りたい欲求を刺激するから、建設的な議論にもなります。怖いと感じた人は何が怖かったのか、逆に笑った人は何がおかしかったのかを考えていくと、それぞれに深い話がいくらでも出てくる。


矢野:〈私〉はこの人だったんだって判明してから、いっそう不穏に感じるところはありますね。今村さんの他の作品でいうと『こちらあみ子』に収録された短編「チズさん」の語り手にも似ていて、最後の最後までずっと不穏な感じが続いている。こうした語り口は、今村さんの作家性だと思います。


倉本:ミステリ小説でいうところの、いわゆる“信頼できない語り手”ですよね。語り手が信頼できる情報を提示しているとは限らないので、そこからミステリやサスペンスの要素が生まれる。この小説の語り手も、ストーキングしている相手を“むらさきのスカートの女”と命名して、街の怪しい名物女のように見立てているけれど、物語が進行するにつれてだんだん彼女があらゆる意味で「普通」の女性であることがわかってきたりして。むしろ語り手の〈私〉が勝手なレッテルを貼っていたことが浮き彫りになってくる。たとえば、むらさきのスカートの女が就職したあと、公園で子どもたちと遊んで、リンゴを回し食べするシーンがあるじゃないですか? リンゴにみんなでかぶりつくって、かなり親密な関係じゃないとできないはずで、それを正直な子どもたちとできるということは、むらさきのスカートの女はその瞬間、完全にコミュニティの中に受け入れられているわけです。一方で、〈私〉はその輪の中に入れずに外から見ているしかない。だからこそ、むらさきのスカートの女に執着していて。


矢野:倉本さんの『むらさきのスカートの女』論によると、〈私〉はむらさきのスカートの女のことを、不気味で変な女だという風に見ているけれど、それは自分のある側面や欲望などを投影しているんですよね。そして、結局、最後には自分が想像していた彼女のポジションに収まるわけで、円環構造の物語にもなっている。よく読むと、最初の方からむらさきのスカートの女の描写は〈私〉の偏見に満ちているわけで、実はおかしな行動は取っていない。読者は途中で〈私〉の方がよほど変な人物だってことがわかるわけですが、その反転がすごく面白かったです。


倉本:ある種のジャンル小説ではなく、純文学と呼ばれるフィールドで、そういった認識の反転を戯画的に用いて物語に奇妙なうねりを出していく。しかもメタ的になりすぎずにここまで広く面白く読ませる書き手は珍しいですよね。「よく考えてみたら最初からこの語り手はおかしかったぞ?」と読者に気づかせていく感じ。「むらさきのスカートの女は姉に似ている、いやそんなわけはない」とか、ちょっと変てこな語り口で。


矢野:あの語り口には、文学的な意味での面白みも感じました。物事の細部までを描写していって主人公の心情などを浮かび上がらせるのは、基本的には文学的な手法だと思うのですが、それって実は、すごくストーカー的でもありますよね。斎藤美奈子さんは「ストーカーの視点で描かれた一人称小説」とも称していますが、人物描写にこだわる小説の在り方そのものがストーカー的なものでもあるなと感じました。


倉本:小説では当たり前のように〈私〉から見た世界の描写があるけれど、〈私〉は常に窃視してるわけだもんね。それって現実ではかなりヤバい奴だぞっていうことが、この小説を読むとよくわかる(笑)。


■倉本「三人称の語り手の視点は常にフェアではない」


倉本:語り手の視点の話でいうと、今村夏子さんは『こちらあみ子』も高く評価されていて、あの作品で芥川賞を受賞させるべきだったとの声もあります。たしかに非常に素晴らしい作品なんだけれど、すごく危うい視点で描かれていることも常に考慮しなければいけないと思うんです。作中で明言されているわけではないけれど、主人公のあみ子はなんらかの発達障害のようなものを抱えていることが周囲の反応などから読み取れますよね。一方で、『こちらあみ子』は三人称でありながらあみ子の視点に寄り添うようにして書かれている。それは「語り」そのものが〈あみ子〉という存在に対して「客観的に映っている姿」を無自覚に押しつけている可能性もあるんじゃないかと。矢野くんはどう思いますか?


矢野:今村夏子さんは発達障害的な傾向のある人物を描いていて、その筆さばきはとても上手で魅力的なのですが、同時に発達障害に対しての何かしらの評価を下しているという構図もあるわけですよね。仮にあみ子に発達障害の傾向が強くあるとして、だからこそ魅力的だと描くことへの危惧はあります。しかし、それこそがポリティカル・コレクトネスが重視される昨今において、今村夏子さんが意図せず投げかけている問いであると思っています。作中においては、「むらさきのスカートの女」に対しても、なかばいじめのような描かれ方をされていて、それでいながら読者には登場人物への愛着も感じさせている。物語の主人公というのは、何かしら〈普通の人〉とは違う要素が必要かと思うのですが、その有徴性は、ポリティカル・コレクトネス隆盛の現代においては、どこか危うさを感じさせる。今村夏子さんが描く人物は、はからずもそのようなフィクションの倫理を問うところがあるなと。


倉本:あみ子の場合はそれが三人称だから、もっと難しいですよね。瀧井朝世さんも書評で指摘していましたが、あみ子を「発達障害」だと言明しない、要は線引きをしないことで、読者に「これは自分のことかもしれない」と思わせたところが評価のポイントだったと思います。でも三人称の語り手の視点は、あみ子にとって心外なものになる可能性が常にあって、そういう意味でフェアじゃない面もあるなと。一方で『むらさきのスカートの女』は一人称語りで、最終的に〈私〉≒自分も異端的なレッテルを貼られる立場になる。


矢野:三人称で書いた『こちらあみ子』と一人称で書いた『むらさきのスカートの女』の大きな違いはそこにあると。


倉本:レッテルを貼る側から貼られる側に反転することで、境界線の意味が無化されるじゃないですか。『こちらあみ子』の場合は発達障害と言わないことで線引きを避けていたのが、『むらさきのスカートの女』では現実に線引きが存在することを認めた上で、その意味を無化しようと働きかけているように見える。そこに私は今村夏子さんの作家性の進化を感じたので、この作品で芥川賞を受賞したのは喜ばしかったです。


矢野:発達障害的な人物像の魅力について、もう少し掘り下げて話したいのですが、『こちらあみ子』はあみ子を厄介者として描きながらも、その無垢性を聖なるものとして描くことで、読者に愛着を持たせていました。それは翻って、発達障害的な人物に対してなにかしらの魅力を感じる部分が自分にもあることを認めることだと僕は思っています(というか、詳述しませんが、自分にもやや発達障害的な傾向が認められるので)。そのような意味で、誰しもが差別的な視線や欲望をある程度は抱えていて、そのような内なる部分と向き合った上でどういう態度でいるか。いま問われているのは、そういうことだと思うんです。あみ子が異端だからこそ魅力的であるのなら、それは物語や芸術や芸能それ自体が抱えている罪深い魅力でもあるし、異端者をどう見るかは社会的な課題でもあります。


倉本:アウトサイダーアートと一緒ですよね。そういう人たちが描くアートを愛でる際の私たちの視点は、一体どこにあるのかという。異端なものに対してどんな態度を取るのか考えさせるという意味では、『むらさきのスカートの女』に対して、笑ったり怖がったりと様々な感想が出てきたのは、作品として成功だったと思います。


■矢野「話の構造がシンプルなのは、今の小説にとって大切なこと」


倉本:矢野くんは国語教師として、今村夏子さんの作品は国語の教材としても意義深いと指摘しているじゃないですか? その辺りについても改めて教えてください。


矢野:今村夏子さんの文章を読んでいると、テスト問題に適していると思うんです。すごく微妙な心情を人物の関係性などから浮かび上がらせるように描いていたりするので、傍線を引いて、「このときの作中人物の心情について、次の選択肢から最も適当なものを選びなさい」とかやりやすい。こういう国語教育的な物言いは、小説好きから嫌がられがちですけどね。個人的には、浅薄な批判だと思います。それで昨年、とある教育系の議論で、「その人物が何を感じていたのかを述べよ」みたいなテスト問題は、発達障害傾向があって他人の気持ちを推し量るのが苦手な生徒にとっては難しいから、設問としては平等性を欠く、という議論があるのを知って。もしそれが妥当ならば、今村さんの『こちらあみ子』のような作品って、皮肉なことに、まさにあみ子のような発達障害傾向のある生徒には難解なのかなと。


倉本:何がおかしいかがわからないということが起こるわけですね。例えば、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』では主人公が、先生が怒ってるのを見て落ち着かせるつもりで先生のスカートをいきなり脱がせて教室をシーンとさせちゃう。でも本人は何がおかしいのかがわからないという場面があったけれど、発達障害傾向のある人には、そこに書かれているような齟齬のありようを読み解くのが難しい、と。


矢野:そのような議論を踏まえると、『こちらあみ子』も、ある種のリテラシーがある人が読むから楽しめるのであって、実は作品自体があみ子を置いてけぼりにしてしまっている可能性がある。だから僕は最近、構造や意味内容が明示的な小説が良いと思うように感じ始めています。最近の僕らと同年代の作家さんはみんなものすごく上手で素晴らしいと思うのですが、リテラシーの高い読者に向けたような作品が多くて、一般の読者が付いていけない感じというか、閉鎖性のようなもの強く感じていて。わかりやすいって批判されるぐらいの作品をもっと評価した方が良いのかなと。僕が職業柄、中学生・高校生が読めるものを探しているということもありますが。もちろん同時に、中学生・高校生に小説の複雑な面白みを理解してもらう、ということも考えつつです。そのような立場からすると、国語教育に嫌味を言いながら、閉鎖的な文学コミュニティに安住しているような態度には、正直かなり腹が立ちますね。


倉本:実際、芥川賞受賞作のアマゾンレビューを見ると、難しくてわからないって書いている人、すごく多いですもんね。私の母親は70代で、新聞を毎日読んできたような世代、つまり紙の本の読者層のボリュームゾーンにいて、文学史に詳しかったりするわけじゃないけれど、本を読むこと自体は結構好きなんです。だから書評家として参考のために芥川賞や直木賞の作品を母親に読ませて感想を聞いているんですよ。すると、芥川賞作品の場合は、「言ってることはわかるんだけど、どう楽しめばいいのかわからない」っていうことが多いみたいで。でも『むらさきのスカートの女』はシンプルに面白かったって言う。それはやっぱり、さっき矢野くんが言っていたように、「私は誰?」というベースの問いが比較的容易に多くの人が楽しめるテーマだからだと思うんです。最後は円環構造で、主人公がむらさきのスカートの女のポジションに収まるわけですが、腑に落ちるし、そういう描き方をすることで多くの人が共有できる文学になっていくのかなと。


矢野:話の構造がシンプルなことは、今の小説にとって大切なことかなと個人的には思います。『むらさきのスカートの女』は、推理小説的なエンタテインメントとしてわかりやすく読むこともできるし、深読みして物事を考えることもできるので、そこが良いのかなと思いました。(後編に続く)(松田広宣)