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理解し合えない寂しさを描き出す『違国日記』 ヤマシタトモコの繊細な詩的感覚

2020年08月25日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 35歳の女性小説家・高代槙生と、15歳の姪・田汲朝が送る共同生活を描いた漫画『違国日記』(ヤマシタトモコ)。祥伝社『FEEL YOUNG』で連載されている本作の6巻が8月6日に発売された。まずは、1巻~5巻までの物語を振り返っていきたい。


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※以下、ネタバレあり


 中学を卒業する直前に、母と父を亡くした朝。幼くして天涯孤独の身となった彼女の前に現れたのは、あまり付き合いのない叔母の槙生だった。槙生にとって、朝は確執のある姉・実里の遺児だったが、親戚からたらい回しにされている姿を見て、「あなたを愛せるかどうかはわからない」と告げた上で朝を引き取ることに。しかし、他者とのコミュニケーションが苦手で孤独を愛する槙生は、素直すぎるが故に他人の痛みに鈍感な朝の幼さに辟易する。


 一方、両親を亡くしたという事実にまだ向き合えていない朝も、槙生が“欲しい言葉”をくれないことに孤独を感じるのだった。そんな2人を取り巻くのが、槙生の友人・醍醐奈々や元恋人の笠町信吾、後見監督人を担当する弁護士の塔野和成、朝の親友・楢えみり。それぞれに痛みや孤独を抱える彼らのサポートもあり、槙生と朝は少しずつ歩み寄っていく。そんな矢先、実里が遺していた日記が見つかった。6巻では、ようやく両親の死を実感し、襲い来る孤独と対峙する朝の姿が描かれる。


 人の死というものは、実感して終わりではない。むしろ受け入れた後の方が苦しさは増すものだ。特に亡くした相手が身近な存在であればあるほど、前を向くには時間がかかる。朝にとって、実里は代わりのきかない唯一無二の母親であることはもちろん、進むべき道を照らしてくれる存在だった。


 “普通”であることに固執し、密かに朝の人生をコントロールしていた実里。単純に考えれば、実里から高圧的な態度を取られていた槙生がそうだったように、息苦しさを感じるはずだ。けれど、例えば進路を迫られた学生時代を思い出してほしい。それまで同級生と同じ教室で共通の教育を受けていたのに、いきなり自分で人生を選択しろと言われ、突き放された気分になったことはないだろうか。明確な夢があれば別だが、多くの人は面倒だと感じたこともあるだろう。誰かに支配されることは煩わしい一方で、責任が生じないため楽なのだ。「何か好きな仕事がしたい」と言いながら、誰かに決めてほしいと願う朝も、実里の支配を甘んじて受け入れていたことがわかる。


 6巻を読み進めていくと、朝の言葉では表現できない苛立ちやモヤモヤがリアルに伝わってくる。孤独を手軽に埋めてはくれない槙生、会話の主導権を委ねてくる学校のカウンセラー、「うざいから」と自分との恋話を拒むえみり。理解し合えない寂しさを、「誰でもがまるで違う国の言葉で話している」と表現するヤマシタトモコの繊細な詩的感覚に思わずため息が出た。


 同じ言語でも、使う言葉は育った環境や人生観によって微妙に違ってくる。相手の言葉から、自分が誰で、何を愛して、愛さなくて、どうやって生きていくのか――という明確な意思を感じ取った朝は、自分だけが置いてけぼりにされた気分になるのだろう。ただ、その孤独感は朝が成長している証でもある。最新巻はそれを象徴するように、現在と過去の出来事が混在しているのが特徴だ。小説家として自分がやりたいことを全うしているように思える槙生も、かつては朝と同じような悩みを抱えていたこと。立派に見える大人はみんな、傷つき、悩み抜いた末に“今”があることを、ヤマシタトモコは群像劇のように描いていく。


〈書かない人のほうが知らないんだね 物語なんて嘘だってこと 食べたことないごちそうみたいに思ってる〉


 これはファンレターをもらった槙生が何気なく呟いた言葉だが、6巻の本質を一番表していると感じた。私たちは他人の表面的な部分だけを見て羨んだり批判したりするが、それはあくまでも“フィクション”に過ぎない。本作は対照的な槙生と朝を通して、人間は他者と本質的に分かり合えないこと、それでも他者を愛し、誰かと生きていくことの尊さを繰り返し教えてくれる。


 6巻は槙生のように静寂や孤独を必要とするえみりの物語も見どころだ。朝から両親の死を告げられた時に「もう絶対友達やめられないじゃん」と感じたえみりの本音。なぜ彼女は朝との恋話を拒むのか。同じ物語でも、きっと読む人によって持つ感想は違うだろう。筆者の書評は一度忘れ、まっさらな状態で『違国日記』の世界に没頭してほしい。


(文=苫とり子)