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『これっきりサマー』が描いた“高校生の特別な夏” 『野ブタ。』に共通する木皿泉の“優しさ”

2020年08月23日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『これっきりサマー』(写真提供=NHK)

 寡作ながら、何年経っても古びることなく、いつまでもファンの間で語り継がれる物語の数々を紡ぎ出してきた夫婦脚本家の木皿泉。そんな木皿作品の代表作の一つ『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)がコロナ禍の影響で15年ぶりに再放送され、余韻もまだ冷めやらぬ中、待望かつ垂涎のオリジナル脚本の新作が放送された。『アシガール』、『スカーレット』(共に、NHK総合)などの内田ゆきが制作統括、岡田健史と南沙良がW主演を務める『これっきりサマー』(NHK総合)だ。


【写真】岡田健史と南沙良ソロカットほか


 これは、NHKの大阪発ショートドラマで、関西地域向けに全5回放送、その「10分まとめ版」が8月22日に全国放送されたもの。コロナ禍で全国各地の行事が軒並み中止となるなか、夏の甲子園出場と、夏フェスへの参加がなくなってしまった二人の高校生が出会い、マスク姿でソーシャルディスタンスをとりつつ交流するという、まさに「今の時代にしか描けない物語」を、木皿泉がいかに調理するのか。


 そう思って観たところ、冒頭からかなりドキッとする「気づき」が投げかけられる。「かわいそうやな」と街中から同情され、声をかけられる薫(岡田健史)。一人で土手に行くが、鬱屈した思いを叫ぶわけでも、うなだれるわけでもなく、スマホの自撮りで「夏の甲子園がなくなり、これ以上かわいそうなヤツはいない18歳、藤井薫です」とおどけてみせる。


 それをたまたまロック好きの女子高生・香(南沙良)に見られていたことで、「俺、かわいそうじゃないから」「清々してる」「期待でかすぎて、ちょっとホッとしてる」と言い訳するが、香もまた、「夏フェスがなくなったこと」「一緒に行く予定だった友達が引っ越したこと」でがっかりしているのだった。


 この二人の状況は、他者から見ればどちらも「かわいそう」で、しかも、おそらく客観的にはその「かわいそうさ」の度合いが大きく異なっている。しかし、当事者の思いはもっと複雑で、抱える喪失感はそれぞれ客観的な物差しで測れるものでもない。


 そして、「何もかもうまくいかない、大人の都合で」とこぼす香に、薫は言う。


「じゃなくて、地球の都合じゃねえ? 俺たち、ここに住まわせてもらってるわけだしさぁ。地球に合わせていくしかないんじゃないかな」


 さらに「ただ外でロックを聴くだけの、二人の夏フェス」を提案し、実行してくれた薫に、香は言う。


 「『E.T.』って知ってる? あんたと私は異星人だよね」。お互いに好きな野球とロックのことは全然理解できない、と言い、「でもさぁ、あんたは知ってるんだよね。ロックは私の戻る場所だってこと。そこに帰そうとしてくれたんだよね」と。


 これらのシーンに見られるように、個人の小さな感情をミクロ的視点から丁寧に繊細に救いあげる一方で、それをどこか遠くからマクロ的視点で眺める調理法は、さすがの「木皿節」だろう。


 「あれ、やろう」と二人が『E.T.』のポスターでおなじみのシーンのように、指を合わせてみせ、すかさず「除菌」するところもまた、実に木皿泉らしい。


 木皿作品は、ウェットな感情を決してウェットに描くことなく、あえて冗談交じりにドライに描く。それによって、観ている側は逆にウェットな感情を引き出され、切なさを感じてしまうのだ。


 また、「夏フェス」のお返しとして、香は蝉の鳴き声を全身に浴びながら、青空の下、「今年の甲子園」仮想実況をする。


 おそらく相当聞き込んだのだろう。「どこがいいのかさっぱりわからない、異星人」の言葉(野球実況)を、淀みなく流暢に繰り出す香もまた、「野球が、薫の戻る場所だと知っていて、そこに帰そうとしている」のだった。


 帽子を目深にかぶり、うつむく薫はそこで初めて「俺、ホントは甲子園行きたかった」と呟く。香は言う。


「みんな知ってるよ。私も知ってるよ。行けなくて一番悔しいのは、藤井薫だって」


 客観的には「かわいそうな高校生たちの、かわいそうな夏」。だが、「これっきり」には、「これに代わる夏なんてない、特別な夏」という意味も込められている。


 思えば、『野ブタ。』でも、こうした「優しい視点」が提示されていた。いじめられっ子の野ブタ。(堀北真希)が仲間を得て、人気者になっていく一方で、人気者でイケていた修二(亀梨和也)が、ふとしたきっかけから孤立しそうになる。一本の柳の木が示唆しているように、別の場所・状況に移ることにより、別の存在に変わりうる不安と孤独を誰もが抱えつつ、その一方で、どこでも、どうにでも生きられる希望が描かれていたのだ。


 これはコロナ禍の現在の私たちの状況にもよく似ている。孤独で苦しく「かわいそうな夏」も、別の視点から見たら「これっきりの夏」で、かけがえのない意味があるのかもしれない。閉塞した現在の状況に、木皿泉の描く優しさが沁みる作品だった。


(田幸和歌子)