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甲子園球場グラウンドキーパーの仕事とは? 甲子園中止の夏に『あめつちのうた』で思いを馳せる

2020年07月24日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 新型コロナウイルスの影響により、今年(2020年)は、大小さまざまなイベントが中止になっている。全国高等学校野球選手権大会――いわゆる“夏の甲子園”も、そのひとつだ。多くの高校野球ファンが、残念に思っていることだろう。そんな人にお勧めしたいのが、朝倉宏景の『あめつちのうた』だ。ただし主人公は、高校球児ではない。彼らの活躍の場を整える、グラウンドキーパーだ。


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 東京で生まれ育った雨宮大地は、高校を卒業すると、阪神園株式会社に入社した。会社の事業内容は多岐に渡るが、もっとも有名なのが、阪神甲子園球場の整備をする、グラウンドキーパーだろう。運動神経がまったくないが、高校時代は野球部のマネージャーをしていた雨宮。そこには、スポーツマンの父親や野球の巧い弟の傑への複雑な思いがあった。グラウンドキーパーになったのも、同じ理由である。


 だが、仕事は厳しい。1年先輩の長谷は、何かと雨宮に突っかかる。長谷は元甲子園優勝投手だが、肘の故障を切っかけに野球を辞めたそうだ。また、高校のマネージャー時代にエースピッチャーだった一志が、大阪の大学に入学し、雨宮と再会した。実は一志は同性愛者であり、雨宮に告白したことがある。これを断って、一時は疎遠になっていたが、友達付き合いは復活した。大学の野球部に所属する一志の出る試合の、応援に行ったりしている。


 さらに雨宮は、甲子園球場でビールの売り子のバイトをしている真夏と出会う。真夏のライブ活動を見に行った雨宮は、彼女が長谷と旧知の仲であることを知った。公私ともに忙しくしている雨宮だが、母校の甲子園出場が決定。まだ1年だがレギュラーを務める、傑の試合を見守ることになるのだった。


 阪神園芸株式会社は、実在の会社である。阪神電気鉄道株式会社の子会社で、設立は1968年。先にも述べたように、甲子園球場のグラウンドキーパーが有名であり、彼らの仕事は“神整備”と称えられる。球場でグッズまで売られているというから驚きだ。


 作者も巻末の「謝辞」で書いているが、こうしたお仕事小説で、実在の会社が舞台になっているのが珍しい。それだけ作者は取材に自信があったのだろう。実際、怪我人などを担架で運ぶことや、春夏の甲子園で勝った高校が校歌斉唱をするときの校旗掲揚など、意外な仕事を担当していることが分かる。なるほど、グラウンドの整備だけではないのかと、彼らの仕事に強い興味を惹かれた。


 もちろん、新米の雨宮が仕事の面白さに目覚めていく過程も、しっかり描かれている。家族への鬱屈を抱えてグラウンドキーパーになったものの、大阪の地で右も左も分からない雨宮。不器用な彼は失敗をしては、長谷に嫌味をいわれる。それでも仕事を続けているうちに、しだいにやるべきことが見えてくる。自分の仕事の意味を理解する。プロ野球が仕事の場所であり、高校球児の檜舞台を整備して、彼らの力が十全に発揮されるようにする。そのような仕事をしていることの喜びと誇りが伝わってくるのだ。


 一方で本書は青春小説でもある。雨宮・長谷・一志・真夏。4人の男女は、誰もがそれぞれの問題や葛藤を持っている。さまざまなエピソードを通じて、しだいに友人となる彼らが、自分の道を歩み出すまでが、気持ちよく描かれているのだ。そしてその中から、主人公の雨宮の魅力が浮かび上がってくる。家族との葛藤を抱えたまま、迷走するように生きている雨宮だが、他人とは誠実に向き合う。そんな彼が、友人たちに良き影響を与えるのだ。本書の中盤で雨宮が真夏にいう、「身近な人から幸せにしましょうよ」が、彼の善良な資質を表現しているのだ。


 ところが雨宮本人は、自分の美点が分かっていない。父親や弟に対する複雑な思いと、なかなか折り合いをつけられない。作者は“雨”を象徴的に使いながら、このような雨宮の内面を露わにする。才能なき者である彼の苦悩に共感する読者は、少なからずいるだろう。だからこそ、終盤からクライマックスにかけての展開と、雨宮の叫びが熱いのである。いい作品だ。


 現時点で未来は予測不能だが、いつかは夏の甲子園も再開されるはずである。そのときは高校球児たちだけでなく、グラウンドキーパーにも注目したい。きっと彼らの中に、雨宮がいるはずだから。


(文=細谷正充)