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「今のゲームはグラフィックだけ。昔の方がおもしろかった」は本当か 変わったのは“ゲーム”ではなく“自分”では

2020年07月13日 20:30  キャリコネニュース

キャリコネニュース

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ゲーム好きな人なら、一度は「昔のゲームはいかに素晴らしかったか」って話題に興じたことがあるはず。僕は1984年生まれなので、ファミリーコンピュータから始まってプレイステーション2くらいまでが多感な少年時代のお供だった。だから、どうしてもこのぐらいの時期のゲームについては愛着も多い。

5ちゃんねるに先日「【疑問】何故ゲームのレベルは年々上がっているのに『昔のほうが面白かった』という感想が絶えないのか」というスレッドが立った。(文:松本ミゾレ)

想像力豊かで、画面を見るだけでいろんな空想ができたあの頃……

僕も、当時大好きだったゲームタイトルならいくつも挙げられる。だけど、一方でそれらのゲームを今、もう一度あの頃の熱量で出来るかっていうと、ちょっと面倒くさく感じてしまう。思い出は遠くになりにけり……ってやつで、あくまでも想像力豊かで、画面を見るだけでいろんな空想ができる若い脳みそを持っていたあの時に遊んだソフトだったからこそ、きっと楽しかったと思うのだ。

例えば、僕が好きな『ファイナルファンタジーVI』にしたって、今やり始めたらユミール戦前にダルくなってやめてしまう可能性すらあるだろう。昔あった探求心と根気が、今はそこまで残ってないからだ。

同じような感覚を持っているアラサー、アラフォーの元ゲームキッズって少なからずいると思うんだけど、この手の人ってしばしば「ゲームは昔の方が面白かった」と言ってしまう節がある。これについては正直、僕自身もそう考えているタイプなんだけど、一体なぜなのだろうか。

昔プレイしていたゲームにだって粗はある

よく言われていることだが、誰もが一番先に思いつくのが「最近のゲームはグラフィックだけ進化して、中身はさほど進歩がない」という可能性だろう。可能性というか、これって当たっている部分もある。

すべてのソフトがそうだとするわけではないが、ストーリー面がどうしようもなくつまらなかったり、作業感ばかり感じるようになる作りであったり、昔から出来ていたことと同じことを今もやっていると感じちゃうところがある。

それから、昔のゲームと今のゲームを比較して考える以上、やっぱり意識しておかないとダメなのがプレイする側の変化だろう。多感な時期にやるゲームと、日々の生活や仕事に追われながら睡眠時間を削ってまでやるゲームとではプレイする印象も当然違うはず。

極端な話、アラサー以降の僕らが昔ハマッたあのゲーム。あの素晴らしいゲームも、今再プレイするといろいろと粗があることに気付くはずなんだよね。

その上で物事って「昔は良かった」が先行しやすいのは、ゲーム以外でもよくあることだ。昔のゲームが面白かった、という考えにいたる人が多いのは、若くて瑞々しい脳みそをフルで使って熱中する体力と集中力が備わっていた頃に遊んでいたソフトが、たまたまそれだったから……なんて可能性も、あるんじゃなかろうか。

「やりたいゲームがない」を“酸っぱいブドウ”という人も

当該のスレッドにも、さまざまな意見が書き込まれている。昔、少年だった頃にあんなにまでゲームに熱中していた僕らが、なぜ昨今の新しいソフトに違和感を覚えるのだろうか。

「10代のころの感性が一番優れていて、その時に体験したものが一番面白く感じられるから。優れているというか、敏感というか」
「昔は他にする事が無かった。時間も気にせずゲームばっかしてたから楽しく感じたのかもな。今はゲームするのも体力使うわ」

昔のゲームは面白かったと感じること、そして今やるゲームが面白くないと感じてしまうこと。その双方を俯瞰して自分なりに折り合いを付けている人が、割と多いようだ。

中には

「『ゲームやりたい、または“ゲームをやっている自分が好き”だけどやれない』のを『やりたいゲームがない』と思い込むことによって自分を守りたくもなるよ。結局これも酸っぱい葡萄なんよな」

と鋭い指摘もあった。

確かにそういう側面はありそうだ。「グラフィックだけのゲーム」も実際あるにはあるんだけど、それだって子どもの頃に遊んでいれば「なんだこれ、めっちゃおもしれー」ってなっていたかもしれないわけだし。

子どもって遊びと想像の天才だと思う。だけど悲しいかな、いつまでもゲームに熱中してもいられない。大人になると、その機会がどんどん消えていってしまうのだろう。