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精神科医・斎藤環が語る、コロナ禍が明らかにする哲学的な事実 「人間が生きていく上で、不要不急のことは必要」

2020年06月20日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

斎藤環

 精神科医・斎藤環氏による新書『中高年ひきこもり』(幻冬舎新書)は、推計61万人(内閣府調査)にも及ぶ40~64歳のひきこもりについて、正しい知識を伝えるべく著されたものだが、コロナ禍によって多くの人が自粛生活を余儀なくされた昨今においては、よりアクチュアルな意味合いを持つ一冊になったと言えるだろう。自身のnoteにコロナ禍についての独創的な論考を発表し、5月27日には與那覇潤氏との共著『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)を刊行するなど、評論家としてもますます活躍する斎藤環氏に、コロナ禍とひきこもり問題の接点から、自粛生活の中で気付いた哲学的な問題についてまで、幅広く語ってもらった。(編集部)


参考:与沢翼が語る、コロナ時代の『お金の真理』 「現在の決断が今後10年を左右する」


■コロナ禍とひきこもり問題


ーー『中高年ひきこもり』は、ひきこもりについての正しい知識を伝える入門書との位置付けですが、コロナ以降の様々な問題を考える上でも、とても有意義な一冊だと感じました。特に、ひきこもりは「困難な状況にある普通の人」であるとの認識は、多くの人々が自粛生活を余儀なくされた日々を鑑みても重要だと感じます。この自粛期間で、人々のひきこもりに対するイメージや、ひきこもり当事者を取り巻く環境に変化はあったと思いますか?


斎藤:何もすることがない状況で、ずっと家にひきこもっていることの辛さや苦しさが多くの人に認識されたとは思います。自粛生活が長引いてきますと、やっぱり家庭がギスギスしてきて、DVや虐待が増えたりする。いかなる家族でも、長期間に渡って密な状態で過ごすのは大変なことで、家族間においてもソーシャルディスタンスは必要なのだと、改めて思いました。ひきこもり当事者の多くもまた、自ら望んでひきこもったのではなく、社会的に困難な状況に追いやられてひきこもっているわけで、その意味では皆さんと同じように苦しんでいます。今回の件を通じて、ひきこもり当事者に対する「毎日、働きもしないで暮らして楽で良いね」という偏見は、多少は減ったのではないでしょうか。


 一方で、ひきこもって過ごすことが直接的な社会貢献につながる状況が、当事者たちの心の負担を軽くした部分もあるでしょう。彼らがもっとも気にしていることの一つに、近所の人の目があるわけですが、それが少なくなったことで却って外出がしやすくなったというケースもあります。しかし、彼らはコロナ禍以前から困難な状況にあって、それが抜本的に改善されたわけではないですし、就労支援などのサポートが機能しなくなっているので、今後はさらに格差が露わになり、彼らを取り巻く状況が厳しくなる可能性もあると思います。また、コロナ禍で職を失った方が自粛生活を経て、そのままひきこもりになってしまうケースは大いにあり得るでしょう。統計的に見ても、退職は中高年がひきこもりとなるきっかけになり得ます。


ーー退職で社会との接点を失うと、復帰が困難になるのは想像に難くないです。本書の「成熟した社会の未成熟な大人たち」の章では、若者たちが非社会的になったことについても触れていますが、こうした状況を見ても、昨今はひきこもりが決して特殊な個人の問題ではないことが伺えます。


斎藤:成熟した社会において、若者の非社会化が進むこと自体は自然なことでもあり、必ずしも悪いというわけではないですが、なかなか抜け出せなくなるという状況があるのが問題です。昭和の頃でしたら、若者の一部は成熟の過程において、不良グループに入るなど、反社会的な行動をとるケースが多かったのですが、今では反社会性がどんどん薄れ、むしろ非社会的になっています。実際、統計的にみても青少年の犯罪率は毎年のように最低水準を更新していて、一方でひきこもりや不登校は増えている。また、非婚化もどんどん進んでいます。


 反社会性は一過性のヤンチャで終わることが多く、ほとんどの人は大人になるに連れて社会性を学び、そういうことをしなくなります。いわば、反社会化には通過儀礼としての側面もある。しかし、学生時代にスクールカーストの下位にいた人が、自分が駄目だと思い込んで進歩を諦めてしまうように、非社会性は社会との接点そのものが少ないため、成熟の機会を得られずに止まってしまうケースが多いです。昨今の中高年ひきこもりの激増を見ても、それは明らかでしょう。


ーー本書では、完全にひきこもりをなくそうとするのではなく、「ひきこもりもいる明るい社会」を目指すべきだとの考えが示されていました。そもそも、生産性の有無で人の価値を判断するのは危険であり、ちょっと疲れた人がひきこもることを許容できる緩い社会こそが理想的であると。


斎藤:今の社会の中でひきこもりになることは、誰にでも起こりうるニュートラルな状態だと認識するのが、まずは大切です。他所の家でお子さんがひきこもっていたとしても、それに対して他人があまり目くじらを立てないようになれば、むしろ当事者は社会に復帰しやすくなるはずです。


 しかし、昨今の状況を見ていると、自粛警察に象徴されるように依然として日本には強い同調圧力があると感じていました。ただ、日本は今回のコロナ対策として自粛要請をしただけで、他国のように罰則を設けたりすることはなかったにも関わらず、先進国の中でも感染者数や死者数がかなり抑えられました。その背景には、日本ならではの協調性や同調圧力の強さもあったのではないかと思うと、問題はなかなか複雑です。


■なぜ人は直接会おうとするのか


ーーコロナ禍によって、テレワークを導入する企業が一気に増えました。このことは、「ひきこもりもいる明るい社会」を目指す上でプラスに働くのではないかと。


斎藤:少し極端な話ですが、昨今はASD(自閉スペクトラム症、アスペルガー症候群)やADHD(注意欠如・多動症)などの発達障害に注目が集まり、一部の人にとっては人間関係や会社で仕事をすることが非常に困難でストレスに感じることが認識されてきています。上司に暴言を吐かれるとか、同僚からいじめを受けるといったハラスメントではなく、ちょっとした目配せでさえ暴力と感じる人がいる。そして、そういう人にとっては、会社に行かない方が効率が上がるケースが多い。多くの人が通勤電車の苦痛からも解放されるわけですし、この機会にテレワークで働くという選択肢が増えると良いと思います。ただ、そこにも同調圧力が生まれる可能性はあり、実際に出社している社員にとってテレワーク社員が不公平に映る部分もあるでしょう。


ーーデスクワークの職種の友人に話を聞くと、出社は週2~3回で、あとはテレワークを推奨するというハイブリッド型の導入が多いようです。


斎藤:その辺が落とし所かなと思います。今回、私がテレワークに関して特に興味を抱いているのは、なぜ人は直接会う必要があるのかが明らかになりつつあるところです。発達障害ではない人にとってもテレワークは楽だし、日々の通勤がなくなり時間を有効に使えるわけだし、多くの人がある程度は継続したいと考えている。しかし、人に会わないとやる気が出ないとか、直接に会って会議をしないと話がまとまらないとか、効率の面から考えるだけでは気付かなかった弊害も確実に出てきていて、だからこそ週2~3回は出社をしようという風潮になっているのでしょう。


 なぜ人は直接会おうとするのか。それは先ほどの発達障害の話と同じく、人が直接会うことは暴力であるからだと考えます。暴力は話を早くするところがあるので、平気な人にとっては効率的だし、その刺激は意欲にもなる。私があえて「暴力」という露悪的な言い方をするのは、多数派の人々にとって直接会うことには大きなメリットがあるのですが、それに耐えられない人もいることを想像してほしいからです。直接会って話をすることが万人向けではないのであれば、先ほど仰ったハイブリッド型のテレワーク導入のように、負担を軽減しながらいろんな人が自分のペースで働ける状況を目指していくのが望ましいと思っています。


■コロナが明らかにする哲学的な事実


ーー先日、斎藤先生がnoteに著された論考はどれも興味深く、コロナ以降の社会を考えるうえで様々な示唆に富んでいると感じました。「コロナ・ピューリタニズムの懸念」では、梅毒の蔓延がピューリタニズムをもたらしたという説を引きながら、コロナ禍が今後の倫理に影響を与える可能性について論じています。


斎藤:3密を避けるとか、ソーシャルディスタンスといった新しい振る舞いは、医学的な見地からの要請ですが、いつの間にか道徳律のような働きを持ち始めていると感じています。それが暴走したのが自粛警察だと考えると、危険な兆候ではないでしょうか。特に危険だと思うのは、コロナウイルスによってエアロゾル感染が起こることが疫学的な見地から露わになったことで、「親密な関係は不潔なものである」といった誤った価値観が、コロナ禍が収束した後も残ってしまう可能性です。noteの「失われた『環状島』」にも書きましたが、コロナのようなパンデミックは100年前のスペイン風邪のように、体験としては忘れられやすい可能性があり、そうなると新しい価値観だけが無意識レベルで強固に残ってしまうのではないかと。日本は特に、他人が箸を付けたものを食べないとか、他者を忌避する傾向がもともと強いため、新しい価値観が浸透しやすい面もあると思います。先ほどテレワークの話で指摘したように、対人距離をおくことで楽になった人々も少なからずいると思うので、そうした人々への配慮は残しつつも、親密な関係を取り戻してほしいです。


ーー親密な関係を取り戻すためには何が必要でしょうか。


斎藤:誤った価値観が無意識レベルで残ってしまうところに懸念があるので、「コロナが収束したら、親密な関係を取り戻して良いんだ」と啓蒙し、意識化することが大切です。そのためには、必要な変化を受け入れ、なおかつ記憶にとどめておかなくてはいけません。私が今回、自分の考えをnoteを著したのも、言語化の必要性を感じたからです。


 たとえば、東日本大震災の時は震災をテーマとしたアートや音楽、映画、小説などがたくさん作られました。東日本大震災は大きな傷を伴う災害で、傷跡がはっきりとしていたからこそ、その周辺に表現を積み上げて記憶に残していくことができました。つまり、noteで書いた「環状島」が作りやすかった。しかし、コロナ禍に関しては、明確にいつから始まったものなのかがわからないし、武漢から発生したとは言われているものの、その根源は今も不明で中心地がはっきりとしない。また、誰もが当事者であり、同時に誰も当事者ではないという矛盾した状況があって、記憶に残るトラウマや、あるいは社会的外傷を残す体験が乏しく、濃淡のある言説が生まれにくい。だからこそ、自分から書こうと思いました。


ーーコロナ禍を記憶に残す上で、ほかに有効だと考える手段はありますか。


斎藤:私が提言したいのは、今回のコロナ禍を祭祀化するということです。祭祀というと不謹慎に思えるかもしれませんが、WHOがパンデミック終息を宣言したときに、その日を新型コロナ終息記念日として定めて、定期的に犠牲者の追悼式典のようなものを行うのは、この記憶を後世に残すために必要だと思います。我々人類がこの先もウイルスと共存し続けなければいけないのは確かなので、次のパンデミックがきた時に各国がより良い選択をするためにも、世界共通の記念日を定めるのは悪くないことだと思います。


ーー今回のコロナ禍において、今こそ国際的な連帯が必要だと訴える声は少なくなかったと思いますが、実際のところはどういう風に見ていますか。


斎藤:各国政府間の政策においても、疫学的な面においても、連帯はあまりできていないとは思います。むしろ、ワクチンを独占しようとしたり、マスクを横取りしようとする動きの方が目立ったくらいで、EU加盟国も自国主義に戻ってしまった印象があります。パンデミックはむしろ、連帯を難しくする面があるのだと、改めて思いました。実際、集団免疫理論に舵をきったスウェーデンのような国もあれば、ロックダウンで大きな打撃を受けた国もあり、各国ごとに政策はバラバラで、しかもどの国の判断が長期的に見て本当に正しかったのかは、未だにわからない状況です。


 しかし、noteの「“感染”した時間」にも書いたように、感染者数や死者数の推移に一喜一憂しながら動向を見守るという点では、世界中どこの国でもシンクロしていて、コロナ同期ともいえるような未曾有の状況が起こっているとも感じます。それによって、時間の感覚もおかしくなっていると思います。


ーー「“感染”した時間」では、今まで行っていたイベントがなくなったことで、人々の時間意識が変わってしまったと指摘していました。


斎藤:時間意識の変化に関しては、私は当初、自分だけの感覚なのかと思い、備忘録として書いてみたのですが、驚くほど反響があり、多くの人が感じていることなのだと実感しました。実はこのような現象は、精神医学の教科書に書いていませんし、哲学書でも読んだことがない。閉鎖空間で過ごすと体内時計が狂うという実験はありますが、それとも違い、今が何時だとか、今日が何曜日かというのはわかるけれど、過去の記憶が曖昧になるというか、3月から5月にかけての記憶の前後関係がどうもあやふやなんです。ダイヤモンドプリンセス号のこととか、アベノマスクのこととか、いろいろなことがありましたが、その遠近感が掴めない。おそらくこの感覚は、連続性の欠如ーー同じような日々が続く中で、一昨日はこれをして、昨日はこれをした、という感覚が曖昧になったことでもたらされた症状ではないかと。そして、この感覚は心理学でいうところの離人感にも似たものではないかと考えています。かつて、精神科医の木村敏さんは離人症になると時間の感覚が狂うと仰っていましたが、私は逆に、時間の感覚が乱されると離人感が起こるという回路もあるのだと気づきました。


 先ほどのパンデミックが記憶されにくいという話は、トラウマのメカニズムをもう少し詳しく知るきっかけになるかもしれないし、ピューリタリズムの話は人間の倫理観の起源に触れるものかもしれない。時間感覚の変容の話は、人間の時間感覚の連続性がどのように構成されているのかを明らかにするかもしれない。今回のコロナという特異な状況は、何よりも人間に関する様々な哲学的な事実がわかってくるのではないかと考えています。


 緊急事態宣言の渦中では、不要不急で欠かせない仕事だけは続けましょうという価値観がありましたが、人間の時間の感覚はたくさんの時間の線をより合わせたものであって、不要不急のことだけをしていると時間の線がどんどん痩せ細り、不連続な“今”だけになってしまう。だからこそ、人間が生きていく上で、実は不要不急のことをするのが必要なんだと思います。


■苦痛をあえて引き受ける


ーー「“感染”した時間」では、コロナはSF的な想像力も侵食したと書いていました。これについても改めて教えてください。


斎藤:サイバーパンク以降のSF作品が描いてきた未来は、『ブレードランナー』や『攻殻機動隊』のようにスラムとハイテクが同居したような世界で、私もそうした世界に魅力を感じてきました。しかし、コロナ以降はあのようなイメージを多くの人々が無意識に不潔だと感じてしまうのではないかという懸念があります。とても残念なことですが、その意味でコロナは我々の想像力をも侵食したはずです。ウイルスと共存していく未来像を描くには、また新しい想像力が必要だということだと思いますが、そうして描かれたイメージは果たして豊かなものなのか、今はまだわからないです。


 また、SF的な監視技術が実現しつつある状況に、ジョージ・オーウェルの『1984』のようなディストピアの到来を感じる人もいると思います。中国や韓国などは日本よりも監視が進んでいる状況で、たしかに行き過ぎる懸念はありますが、この趨勢はもはや避けられないのではないでしょうか。しかし、管理の方法はもっとソフトな方法になっていき、人々が納得する形で発展していくのではないかと、私は考えています。ひとつ言えるのは、今回のコロナ禍を契機として、反ワクチン運動はかなり力を失うだろうということです。反ワクチン運動は、ある意味では管理社会に対する抵抗であり、その心情は私も理解できますが、このような状況では弱体化せざるを得ないでしょう。今後は、管理社会はけしからんと素朴な対抗論を講じるのではなく、管理システムからいかにして人々に対して有害な要素を除去していくか、議論を進めていく必要があると思います。


ーーようやく緊急事態宣言が解除されましたが、もとの生活に戻ることに対してストレスを感じている人も多いと思います。最後に、精神科医としてのアドバイスをいただけますか。


斎藤:自宅で長らく待機していた方が急に出勤することになり、苦痛を感じるというのはとてもよくわかります。それは当たり前の感覚なので、安心してください。日々、家にいると出かけるのも億劫になったりするものです。しかし、苦痛をあえて引き受けることで日常が維持されていく面がありますし、あるいは意欲ややる気が触発される面もある。逆に人と会ったり、集まったり、現場に行ったりしないと、だんだんと自分自身の価値観なども溶解していきます。非常に憂鬱なのは私も同じですけれども、ストレスをあえて引き受けていかないと、精神のバランスは保てないので、私も一緒に取り組んでいきたいと思います。最初の敷居を越えてしまえば、比較的早く慣れていくことができるはずです。(松田広宣)