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ホンダ、最初の黄金時代(前編):1959年に初出場したマン島TT。事前に学ぶコースを間違えながらも団体優勝

2020年06月19日 18:01  AUTOSPORT web

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1959年マン島TTレースに参戦したホンダチーム
1959年のマン島TTレースにエントリーしたホンダ。初参戦ながら好成績を上げ見事な団体優勝を果たした。1960には外国人ライダーを擁し、1961年にはグランプリ初優勝、その後も快進撃を続け多くのタイトルを獲得した。イギリス人ライターのマット・オクスリーがホンダの最初の黄金時代について語る。

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 ホンダと同じようにバイクのグランプリにエントリーしてきたマニュファクチャラーは他にはいないだろう。

 1959年6月、ホンダは初めて世界選手権レースに参戦した。それはマン島TTレースのウルトラ・ライトウェイトクラスだった。1960年、ホンダは初めて世界選手権にフルシーズン参戦し、初の表彰台を獲得した。1961年、ホンダは初のグランプリ優勝を飾り、125ccクラスと250ccクラスで世界タイトルを獲得した。1967年の終わりまでに、ホンダは138回のグランプリ優勝を果たし、50cc、125cc、250cc、350cc、500ccクラスの全5カテゴリーにおいて、ライダーズおよびコンストラクターズ選手権タイトルを計34回獲得した。

 この比類のない功績はひとりの男に端を発する。その人物は1948年に本田技研工業を創業した、本田宗一郎氏だ。

 本田氏にはビジョンがあった。日本製のバイクがヨーロッパで知られてもいなかった時代に、本田氏はヨーロッパのレースを制して、ホンダを国際的な勢力にしなければならないことを認識していた。そして彼は、無為に時間を過ごすような気分ではまったくなかった。

 1954年の春、会社を創業して6年に満たない頃、本田氏は以下ような発表を行なった。

「私の子供の頃の夢は、自分で作ったマシンでモータースポーツの世界チャンピオンになることだった」

「私はマン島TTレースに参戦することを決めた。この目標は難しいものだが、我々は日本の産業技術の実行可能性をテストし、またそれを世界に示すためにも達成しなければならない。私はマン島TTレースに参戦し、仲間の従業員とともに私のすべてのエネルギーと創造力を勝利のために注ぎ込むことをここに宣言する」

 1954年の夏、本田氏は当時世界で最大のバイクレースイベントであったマン島TTに赴いた。本田氏の狙いはライバル候補たちのマシンを調査することにあった。そして本田氏は大きな衝撃を受けたという。

「バイクは我々が想像していたよりはるかにパワーがあったことに驚かされた」と本田氏は語っている。

 本田氏は日本に戻ると、マン島TTで競うのに十分な速さのあるバイクの開発を始めた。そうして5年後、本田氏はライダーとエンジニアの少人数のチームをマン島に送り出したのだ。1959年6月3日、ホンダは初出場の世界選手権レースで、団体優勝を果たした。

 マン島TTがホンダにとって初めてのロードレースだったことを考慮すれば、それは並外れたパフォーマンスだった。なぜなら当時の日本でのレースはほとんどダートコースで行われていたからだ。実際、チームはマン島に到着したが、アスファルトではなくダート向けの装備だったホンダの125ccのRC142に調整を加えなければならなかった。

 それだけでなく、ホンダのライダーたちはそれまでの数カ月間、ビデオとガイドブックで全長37.75マイル(約60.75km)のマウンテンコースについて学んでいた。125ccのウルトラ・ライトウェイトレースが、違うサーキットであるクリプスコースで行われることを彼らが知ったのは、島に到着してからだった!

 マン島でのホンダの存在は評判となった。なぜならヨーロッパのバイクレーサーたちは日本製のバイクなどそれまでに見たことがなかったからだ。一部のファンはホンダのグランプリバイクへの初の試みに納得していなかった。ホンダのバイクは2気筒4ストロークで18馬力を生み出し、トップスピードは約時速180km/110マイルだった。

 しかしながら、ホンダのデビューレースにおけるパフォーマンスは、自分たちが何をしているのかを分かっていることを周囲に示した。谷口尚己が6位、鈴木義一が7位、田中楨助が8位、鈴木淳三が11位でフィニッシュしたのだ。新進気鋭のオーストラリア出身のグランプリライダーだったトム・フィリスは、その様子を見ていたひとりだったが、チームの綿密かつ高い効率性に感銘を受け、1960年シーズンのシートを求める手紙をホンダに書いている。

 翌春のフィリスはホンダ初の外国人世界選手権ライダーとなった。フィリスはホンダのマシンが遂げた進歩に驚かされた。8月に初めてフィリスは世界選手権の表彰台を獲得した。4気筒250ccのRC161に乗り、アルスターGPで2位につけたのだ。その2週間前、西ドイツGPでやはりRC161に乗った田中健二郎が、ホンダ初の表彰台を飾り、歴史を作っていた。

 ホンダの急速な進歩は1961年も続き、フィリスはホンダにとっての初めてのグランプリ優勝を、シーズン開幕戦のスペインGPの125ccクラスで飾った。3週間後、高橋国光は250ccクラスでのホンダ初優勝をホッケンハイムで達成した。

 ホンダは世界クラスのレース参戦は2シーズン目ながらも、両クラスを圧倒した。1961年9月、本田氏とさち夫人はスウェーデンに飛んだ。そこでマイク・ヘイルウッドが250ccクラスでホンダに初の世界選手権タイトルをもたらすところを目にすることになった。その4週間後、フィリスはアルゼンチンで125ccクラスのタイトルを獲得した。ホンダはまた、両カテゴリーで初めてコンストラクターズタイトルを獲得することができた。

 この瞬間から、ホンダはグランプリレースにおける支配的勢力になったのだ。その後の6シーズンでは、ホンダの4ストロークとライバルの2ストロークマシンとの目を見張るような戦いが繰り広げられた。この技術面でのレースは、レーストラックを美しく飾るような、これまでにない最も素晴らしいバイクを作り出すことになった。ホンダの6気筒250cc、5気筒125cc、2気筒50ccマシンである。

 ホンダは常にレースは実践の場での実験室だと考えており、1960年代は比較的レース経験が浅かったホンダにとってまさにそのような状態にあった。これら3台のマシンの技術上のコンセプトは同じだ。ホンダは2ストロークのマシンを打ち負かすために、回転数の増加を必要としていた。そこでエンジニアたちはエンジンストロークを短くし、シリンダー数を増やして回転数を増やしたのだ。同時に彼らは1シリンダーあたり4つのバルブを使用した。それらは拡大されたボアにぴったり合った。また小型バルブが軽量化されたことで、高回転時のバルブの問題も解決された。ホンダは強力なエンジンデザインを考えついたのだ。

(後編に続く)