新型コロナウイルスの感染拡大で急速に在宅勤務が広まるなど、日本でも働き方が変革の時期を迎えている。他方、外出自粛が要請される緊急事態においても、社会インフラを担うために働き続ける「エッセンシャルワーカー」からは待遇の改善を求める声が出始めている。
経済産業研究所は6月10日、同研究所の公式YouTubeチャンネルで「なぜ日本人労働者は企業に従順なのか?」をテーマにした動画を投稿した。研究所の橋本由紀研究員はコロナ禍において、販売や物流などで働くエッセンシャルワーカーの存在感、発言力が高まっていると指摘する。
「『正社員イコールコア労働者』『非正社員イコール周辺労働者』という従来の役割分担が変わり、日本の正規雇用中心主義がいよいよ終わりになるかもしれない」
と述べ、ドイツの経済学者・ハーシュマンのモデルを用いて、その可能性を解説した。
日本で正当な対価としての報酬が主張されないのはなぜなのか
まず、日本では医療従事者以外の社会インフラを支える労働者への公的支援が聞こえてこないことに注目。サービス価格が公的に決まる規制産業の医療に対し、市場の需給でサービス価格が決まる民間事業者の場合は事情が異なるとし、
「配送や販売、交通機関など生活の維持に不可欠なことに携わるエッセンシャルワーカーへの手当や報酬の上乗せは雇用主に委ねられている」
と現状を説明した。
エッセンシャルワーカーの賃金に、新型コロナウイルスの感染リスクや過重労働の負担を上乗せすることは"補償賃金格差"という考え方で説明できるという。補償賃金格差は「労働環境の違いを保証するための賃金差」と定義され、建設作業のように労働災害の多い仕事に対して支払われる高い賃金がその一例だ。
アメリカ、イタリアなどでは実際に、危険手当としての割り増し賃金や安全対策を要求するストライキが発生しているという。一方、日本ではこうした労働者の主体的動きはあまり見られないことに橋本研究員は
「なぜ、日本では特別な貢献に対する正当な対価としての報酬が広く主張されないのでしょうか」
と問題提起し、A.O.ハーシュマンの『離脱・発言・忠誠』(1970年)の理論を日本の労働者に当てはめて考察した。
「日本の正社員は多少の不満があっても組織を"離脱"しない」
ハーシュマンは、メンバーが組織から外れることを"離脱"、組織メンバーが経営陣に対して不満を直接表明することを"発言"と定義した上で「企業の経営陣は、従業員の"離脱"と"発言"の2つの行動を通じて自らの失敗を悟る」と説いている。
橋本研究員は、正社員と非正社員では"離脱"と"発言"の機会、性質が大きく異なるため、両者を分けて考察。
正社員については、労働者に占める非正社員の割合が増えている背景から「正社員は自身が相対的に恵まれた地位にいることを理解し始めている」という。また、正社員が「今の会社を辞めても、今と同じような地位や処遇を得ることは難しいだろう」と感じていれば、組織からの離脱をためらうと推測している。
ハーシュマンは「"離脱"を考えられない組織に対して、個人は"発言"によって不満を表明する」と述べている。一方、橋本研究員は「日本の正社員が企業に対して積極的に"発言"をすることは稀」と指摘する。根拠については「参入や離脱のコストが高い組織については、離脱も発言も効果的ではない」とするハーシュマンの言葉を引用して説明している。
橋本研究員は「日本の正社員の雇用は、まさに参入費用と離脱費用がともに高いケースに当てはまる」と説明する。参入費用の例としては、正社員の入職が新卒時に集中する「新卒一括採用」、離脱費用の例としては「年功賃金」「退職金」といった後払い的要素の強い処遇を挙げている。つまり、
「苦労して新卒で入社し、将来の高い賃金を期待しながら働く正社員は、多少の不満があったとしても組織を"離脱"しないでしょう」
とまとめ、"発言"についても「労働組合などを通じて発言の機会が保証されたとしても、雇用主への発言を控えるようになるでしょう」と考察している。このような背景から、多くの日本企業では、一見すると協調的な労使関係が定着してきたようだ。
「正社員を企業の中核に据え、優遇する時代は終わりになるかもしれない」
他方、非正社員の場合は、仕事ごとに期待される生産性に応じて処遇が決まる。「年功賃金」「退職金」などの後払い的な賃金もないため、不満が高まれば"発言"を行使せず、"離脱"を選ぶ傾向があるという。
さらに、"発言"の効力が高まらない背景としては
「企業に直接雇用されるパート、契約社員では組合費を負担してまで発言を行うことは稀」
「間接雇用の派遣社員、請負社員の場合は、雇用の打ち切りなどを恐れた派遣元企業が労働者の不満を伝えないこともある」
「個人事業主は自営業者として区分されるため、例え雇用関係に近い実態があったとしても企業に交渉を拒否されてしまう」
と雇用形態別に挙げた。
したがって、「日本では正社員も非正社員もそれぞれの理由から雇用主への発言を控えるようになったと思われます」と結論づけた。
しかしながら、新型コロナ禍において「リスクを負う現場従業員のおかげでサービスが維持できることが改めて認識された」とした上で、今後は"離脱"を盾に発言力が増大することを予想している。
「これからは雇用形態によらず、貢献に正しく報いることができる企業が人材を引き付けられるようになるのではないでしょうか」
と持論を展開する。「正社員を企業の中核として、雇用保障や賃金、手当などを万遍なく優遇する時代もいよいよ終わりになるかもしれない」とし、発言の力関係の変化、雇用関係の変化の2つを合わせ、正規雇用中心主義が変わる萌芽としてまとめた。