トップへ

『ONE PIECE』麦わら海賊団にブルックが必要な理由とは? 今こそ見直したい、その存在意義

2020年06月09日 17:31  リアルサウンド

リアルサウンド

『ONE PIECE 46』

「ルフィ海賊団にブルックって必要なの?」


参考:『ONE PIECE』の本当の面白さが爆発するのは50巻から!


 こんな疑問の声が、彼が“麦わらの一味”に加わってからというもの少なくない。もちろん、「大切な仲間だ! 必要に決まっている!」と大声で答えたいところだが、これはいち読者による、個人的かつ感情的な意見に過ぎない。しかし、個性的な一味の中でも一際目立つあの特異な風貌や、義理人情に厚い一面、ユーモラスなキャラクター性を支持する声が多いのも事実だ。ここでは大マジメに、マンガ『ONE PIECE』における「音楽家・ブルック」の必要性について考えてみたいと思う。


 単行本の46巻・442話で初登場し、50巻・489話で晴れて一味に加入したブルック。彼は音楽家である。「海洋冒険ロマン」を謳う『ONE PIECE』において、とうの登場人物たちにとっては、彼こそ絶対的に必要な存在だろう。音楽家がいれば船旅は盛り上がることこの上なしだ。しかし、絵を見て文字を読む私たち読者からすれば、彼の奏でる音楽は聴こえやしない。強力な剣士や航海士、料理人、医者……などと比べれば、その存在の必要性がわかりにくく感じても仕方がないことだと思う。それに戦闘法が剣術というのは、ゾロと被る。つまりブルックとは、一味にとって“不要不急の存在”に思えるのだ。しかしながら我らがルフィ船長は、ほかのスペシャリティを持つ面々を差し置いてまでも、「音楽家を仲間に入れたい!」と早い段階からたびたび口にしていた。それに長期連載の『ONE PIECE』のこと。驚天動地の伏線回収劇を次々やってのける本作とあって、尾田栄一郎先生は必ずやどこかで音楽家を仲間に加えることを構想していたはずだし、ブルックと巨大クジラ・ラブーンの感動的なエピソードに決着がつくのはまだ先のことだろう。


 私たち読者の生活する現実世界でも、「音楽」は“不要不急なもの”の一つとされてしまっている感が否めない。ライブハウスは閉店を余儀なくされ、“自粛警察”なる存在まであらわれる世の中だ。もちろん、誰もが苦しみを強いられているこの環境下。人が多く集まる場所は、ウイルス感染源の温床ともなりかねない。であれば、「音楽は自宅で一人で楽しめばよい」という声が上がるのも当然だ。インターネットが隆盛を極める現代では、サブスクリプションサービスが充実し、自宅にいながら世界中のあらゆるジャンルの音楽にアクセス可能である。それに、とうの「音楽家」たちも、自らの音楽を直接的に届けたいはずの気持ちを抑え、“ステイホーム”の呼びかけとともに、オンラインにて音楽を発信しているところだ。


 とはいえ音楽というものは、文学や絵画、映画や演劇など、ほかの諸芸術、あるいはエンターテインメントよりも比較的早い段階で存在していたはずだ。手を叩き、足踏みをすれば、そこでは音が鳴るし、その強弱やテンポを変えればビートが生まれる。動物や虫たちだってそうだ。たとえ彼らが意識的でないにせよ、鳥が美しい音色で鳴けば、私たちはそれを“歌声”と呼んだりもする。そもそも考えてみれば、私たち誰もが生まれて初めて触れる芸術/エンターテインメントというのは、ほぼ間違いなく音楽だろう。日常には「音(楽)」が溢れているし、“胎教音楽”というものさえ存在するくらいなのだから。これらを鑑みると、誰もが生の音楽というものを欲するのもまた、当然のことなのだと思う。


 さて、では改めて、なぜ音楽家のブルックが必要なのか?


 先に述べたように、絵と文字だけでは、音楽家である彼の必要性はほかのメンバーと異なり、なかなか立証するのが難しいところだ。けれども、何よりもここに、“マンガを読む”という行為における想像の余白があることを忘れてはならないだろう。私たちが試されるのは、想像力だ。“麦わらの一味”は楽しいひととき、どんな音楽を耳にしているのだろう? ひるがえって私たちの社会において、とある音楽家はどのような音楽を人前で奏でたいと願い、その音楽家のファンはどのような音楽を欲しているのだろうか? 私たちの実生活でも求められているのは、やはり想像力だ。


 ところでブルックは、一味の中でも少々“おふざけ”が過ぎるキャラクターでもある。彼の節操のない言動は、「ブルック不要論」を後押しする可能性もあるだろうし、さらには一味にとって、“音楽=不要なもの”と印象づける助けにもなってしまいそう。しかしだ、“おふざけ”ができる環境というのは、極めて健全で豊かなことではないだろうか。この“おふざけ”とは、“アソビ(=物事にゆとりのあること)”とも言い換えることができる。ひいてはそれは現在の環境下で、“不要不急”とされているものをも指すだろう。私たちを取り巻く環境においても、製造業、運送業、サービス業はもちろん優先すべき重要なものだが、“不要不急”なものを良しとし、認めることが目指すべき社会なのではないだろうか? アソビの多い、愉快な“ルフィ海賊団”を見ていれば明らかだ。その先に見えてくるのは、“寛容さ”である。


 最後に、ブルックが音楽家にして、“ヨミヨミの実の能力者”であることに触れておきたい。これは、死んでも一度だけ蘇生することができるというもの。この能力を使った結果が、肉体を欠いたガイコツの姿なわけだ。ところでこの“ヨミヨミ”とは、とうぜん“よみがえる”の“ヨミ”を意味するのだろうが、“黄泉”とも読むことができる。黄泉とはもちろん、死んだ者の行き先、つまり“あの世”だ。音楽というものは、いつまでも残り続けるものである。その作曲者が、たとえ亡くなってもだ。そしてその音楽は、世に知られる名曲だとはかぎらない。幼い頃に耳にした、私やあなたにとっての、誰かの懐かしき鼻唄かもしれないのだ。ブルックの技に「鼻唄」があることは、非常に示唆的なものに思える。彼はこの、“どんな音楽でも、いつまでも残り続ける”という事実を、死してなお、体現している存在のように思えるのだ。(折田侑駿)