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『愛の不時着』はなぜ人々の心を掴んだのか 個を大切にするこれからの時代の理想の恋愛関係

2020年06月03日 16:31  リアルサウンド

リアルサウンド

『愛の不時着』

 思い返すだけで、心がじんわり温かくなる。そんな作品と出会えたことは、誰にも奪われない宝物だ。『愛の不時着』というドラマは、多くの人にとってまさに宝物のひとつになったに違いない。tvNドラマ史上歴代1位の視聴率を記録し、現在Netflixで依然としてランキング上位をキープしている本作。なぜ『愛の不時着』は、これほどまでに人々の心を掴んだのか。


【写真】ゲームのキャラに「トマト栽培者」と名付けてしまうイ・ジョンヒョク


■国際化社会におけるラスト『ロミオとジュリエット』


 この物語の主軸は、韓国の令嬢と北朝鮮の将校のラブストーリーだ。交わるはずのなかった2人の運命。不慮の事故がきっかけとはいえ、出会ってしまったことそのものが射殺されても仕方のないほどの罪。一緒にいたいと願うことなど問答無用。そんな“許されざる恋”を描いた作品だ。


 “許されざる恋”の代名詞といえば『ロミオとジュリエット』だが、今や家同士の確執が個人の恋愛に影を落とすことが、リアルな時代ではなくなった。国を越えて愛し合う人も珍しくなくなった現代において、韓国と北朝鮮の分断は“許されざる恋”が説得力を持って描かれる最後の舞台とも言えそうだ。


 積み上げてきたもの全てを投げ売り、最終的には命をかけてでも愛する相手を守ろうとする強さ。もう2度と会えないとしても、愛する人と出会えた喜びを胸に生きていくひたむきさ。過酷な状況であるほど、人は愛に対して純粋になれるのかもしれない。そんな本質的な“愛”の尊さに、本作では触れることができるのだ。新型コロナウイルスの影響で、多くの人が「会いたくても会えない」を経験する中で「愛とは何か」を改めて考えさせられる作品だ。


■自立したヒロインと、パートナーとしてのヒーロー


 パラグライダーで竜巻に遭遇し、韓国から北朝鮮が管轄する非武装地帯への不時着……まるで『オズの魔法使い』や『星の王子さま』を連想させる物語の始まりはとてもファンタジックだが、主人公のユン・セリ(ソン・イェジン)と、恋に落ちるイ・ジョンヒョク(ヒョンビン)の関係性は実に現代的だ。


 ユン・セリは、財閥の生まれではあるものの家族との仲は冷え切っており、1人の力でファッションブランドを立ち上げて成功を収めた敏腕経営者だ。誰かに依存するのではなく、自らの足で人生を切り拓くというスタイルは新しい時代の女性像を映し出しているよう。だが、誰にも頼らずに生きてきたからこそ、警戒心が強く、人とのつながり方に大きな課題を残す。それは性別に関わらず、現代人に共通する悩みにも思えるものだ。


 そんなユン・セリも、見知らぬ北朝鮮へと足を踏み入れたとなれば、人に頼らざるを得ない。偶然ユン・セリを発見し、保護することになったイ・ジョンヒョクの不器用ながらも誠実な対応に、ユン・セリは少しずつ心を開き、愛することを学んでいく。とはいえ、イ・ジョンヒョクにとってみれば、正真正銘の招かれざる客。「殺すか?」とまで考える性愛を意識しない出会い、ましてやお互いの生死に関わる共謀者となるのだから、思い切り人と人としてぶつかり合うのだ。


 「ヒーローに守られるだけのヒロイン」でもなく「男性を支える女性」でもなく、「同じ人間として生に向き合うパートナー」。そんなふうに描かれる2人の恋愛は、個を大切にするこれからの時代の新たな理想とも言えそうだ。


■愛しさが増す巧みな演出の数々
 
 『愛の不時着』を楽しむ最大のポイントは、細かな機微を見逃さないことだ。頭を肩にもたれる。手をつなぐ。横に並んで話し合う。同じようなセリフや状況が繰り返し登場し、登場人物たちの心の動きの変化に迫る演出も多々ある。


 特に注目してほしいのが、イ・ジョンヒョクの言動だ。そのやさしさは繊細でうっかりすると見逃してしまうほど。ユン・セリのワガママを叶えようと何度も市場に足を運んでいたり、道に迷ったふりをして1秒でも長く一緒にいようとしたり、ユン・セリからもらったトマトを大事に思うあまりゲームのキャラに「トマト栽培者」と名付けたり……。


 本人も気づいていない特別な感情に「もうそれは愛!」とツッコミたくなる気持ちを、登場人物が代弁してくれるのも、このドラマの痛快なところ。イ・ジョンヒョクの部下である軍人たち、特に韓国ドラマ好きなキム・ジュモク(ユ・スビン)が、“韓国ドラマあるある”で物語の展開を予見して盛り上げていく。まるで視聴者代表のようなポジションで、2人を見守る構図も新鮮だ。また、韓国ドラマ好きにはたまらないスペシャルゲストの登場もたまらない。


 他にも、ユン・セリとイ・ジョンヒョクの恋路を邪魔することで結託したソ・ダン(ソ・ジヘ)、ク・スンジュン(キム・ジョンヒョン)をはじめ、多くの魅力的なキャラクターが登場する。見知らぬ北朝鮮に暮らす軍人たちに、ユン・セリと同じ視点で友情を感じるようになるのは、その一人ひとりがそれぞれの正義を持ち、痛みと向き合いながら生きているのが伝わってくる演出があるからだ。


 さらに、ユン・セリがパラグライダーで不時着する以前にも、2人が出会っていたというエピソード。「本棚が人を表す」「記憶の片隅に流れるメロディ」「間違って乗った汽車」……愛によって記憶の断片がつながったとき、私たちはそれを運命と信じて、愛しさが増す。きっと私たちも、『愛の不時着』を見返すたび、よりそれぞれの記憶がつながって見えるのではないだろうか。そして、その度にこの作品がより愛しくなるはずだ。


(佐藤結衣)