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伊坂幸太郎『逆ソクラテス』はなぜ小学生を主人公に? 伊坂ワールドの新境地を読む

2020年05月16日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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「僕はそうは思わない」


 この簡単な言葉が、自分を守る武器になり、時に笑みを誘いもする。伊坂幸太郎の短編集『逆ソクラテス』の表題作は、そのフレーズが印象に残る物語だ。


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 本書はデビュー20周年の節目に出されたものだが、仰々しい内容ではない。自分は知らないと知っているという「無知の知」で有名な哲学者ソクラテスとは反対に、生徒について知っているつもりの先生がいる。「逆ソクラテス」では小学生たちが、そんな先生の先入観をひっくり返そうと企む。同作をはじめ、この本の収録作ではいずれも小学生が主人公となり、クラスのいじめ、無気力な教師、恫喝的なスポーツ指導といった問題が描かれる。


 複数の短編にまたがって登場する人物もいるが、一編ごとに独立した話だ。リーダー的存在、クラスメートとは価値観の違う転校生、いじめっ子やいじめられっ子などではなく、それら目立つ子を眺める側の、どちらかといえばパッとしない子ばかりが視点人物に選ばれている。また、どの短編も子ども時代の体験と成長してからの回想で構成される。


 人語を喋り未来を予言するカカシが殺される設定の『オーデュボンの祈り』でデビューした伊坂幸太郎は、殺し屋たちが登場するシリーズ(『グラスホッパー』など)、死神が主人公のシリーズ(『死神の精度』など)、小惑星衝突による人類絶滅が迫る『終末のフール』、車が語り手となる『ガソリン生活』といった非日常や超常現象をモチーフにした作品を多く発表してきた。それに比べれば『逆ソクラテス』は日常的で現実的な状況を描いているし、主人公となる小学生の暮らす世界は狭い。


 しかし、『逆ソクラテス』には伊坂ワールドのエッセンスと呼べるものが詰まっている。収録作を読むと「スロウではない」では足が速くないのにリレー選手に選ばれてしまった子どもが、多数決の民主主義では本当に困る少数の気持ちが届かないと嘆く。「アンスポーツマンライク」では、バスケットボールで子どもに暴言を浴びせるコーチの指導が「独裁者の手法」と評される。シチュエーションに対し大袈裟にも聞こえる表現は、ユーモラスにも響くが真実をいい当ててもいるだろう。


 ふり返れば伊坂は、国民の監視が進んだ『ゴールデンスランバー』や『モダンタイムス』、相互の密告が奨励されている『火星に住むつもりかい?』など、ディストピア的な世界観の長編を発表してきた作家である。それらの作品では国家規模の支配と被支配という大きな力関係が扱われたのに対し、『逆ソクラテス』はクラスやチーム、家庭を舞台にして、子どもたち、先生、親の身近な力関係を描いたといえる。『逆ソクラテス』は、一連のディストピアもののエッセンスを引きついだミニチュアのようなところがある。


 本書の収録作もそうだが、人同士の力関係の逆転、弱い側からの意外な反撃は、伊坂のエンタメ小説でよくみられる展開だ。そこでポイントとなるのが、言葉である。彼は初期から、作中の会話の軽妙さを美点にあげられることが多かった。本書もそれは変わらない。


 「逆ソクラテス」では「僕はそうは思わない」というフレーズが、なにかを守るための楯として用いられる。「スロウではない」では、2人組の一方が「ドン・コルレオーネ」と呼びかけて相談を持ちかけると、相手が「では、消せ」と応じる。映画『ゴッドファーザー』に登場した、邪魔者を始末するマフィアのボスのことを真似ているのだ。「非オプティマス」では、宇宙人が車に変身している『トランスフォーマー』のファンの少年が、やたらと同作を喩えに持ち出す。「私にいい考えがある」と同作の司令官のセリフを発し、「世を忍ぶ仮の姿」とかいいたがる。子どもたちは、面倒な状況をやり過ごしたり遠ざけたりするため、現実と自分の間に挟む一種のクッションとして言葉を使う。


 一方、「アンスポーツマンライク」の語り手・歩は、試合中の一瞬の判断を躊躇してしまう性格であり、「一歩踏み出せない歩君」という揶揄のフレーズが頭のなかから消えず、自縄自縛に陥っている。このように作中の言葉づかいが本人のキャラクターを浮き彫りにし、状況をどう受けとめているかも表現する役割を果たす。子どもだけではなく、先生や親も同様の手法で描かれる。例えば、「逆ワシントン」に登場する母親は掃除機をかけたあと、「はなはだ簡単ではありますが、これでわたしの掃除に代えさせていただきます」と我が子に軽く会釈するという。彼女のノリや生活感が伝わってくる場面だと思う。


 「僕はそうは思わない」、「ドン・コルレオーネ」、「ギャンブルではなく、チャレンジだ」など、作品ごとによく出てくるフレーズ、選ばれる言葉の傾向がある。各ストーリーに意外な展開が仕組まれているが、繰り返し出てくる同じ言葉が、局面の違いによって切実にもユーモラスにも響く。物語の進行に応じてニュアンスが変わることで、話の前後における人同士の力関係の逆転をいっそう印象づける。このへんの匙加減は絶妙だ。


 小学生ばかりを主人公にしたのは伊坂にとって初めてであり、その点は新境地といえる。同時に『逆ソクラテス』は、著者が自家薬籠中のものにしてきた力関係の描写、言葉づかいの妙があったからこそ書けた作品集である。伊坂幸太郎は、やっぱり面白い。


(文=円堂都司昭)