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『イエスタデイをうたって』のアニメならではの手法 “停滞”と“色彩の否定”について考える

2020年05月08日 08:02  リアルサウンド

リアルサウンド

『イエスタデイをうたって』(c)冬目景/集英社・イエスタデイをうたって製作委員会

 藤原佳幸監督の『イエスタデイをうたって』は、冬目景の同名マンガを原作とする青春恋愛群像劇である。コンビニのアルバイトで生活をする魚住陸生(リクオ)、カラスを連れた不思議な少女・野中晴(ハル)、リクオが恋心を抱く森ノ目品子、品子を慕う早川浪の4人を中心に、錯綜する人間関係の親和力を描いている。


参考:『イエスタデイをうたって』における日常描写の魅力 テレビ朝日「NUMAnimation」の方向性は?


 緻密に描き込まれた都会の住宅街、そこに巧みにレイアウトされた谷口淳一郎デザインのキャラクター、人物や事物の的確なモーション、繊細な色彩設計、卓越した声優の演技。これら第一級のアニメーション表現が、原作に内在する空気と情緒を顕在化させ、新たな価値を付与することに成功している。ストーリーそのものは地味目ながら、今クールの中で最も目が離せない作品の1つであると言ってよいだろう。


■停滞する若者たち
 映画やアニメーションには列車のシーンが頻繁に登場する。それは単純な移動を表す以外に、ある時は冒険活劇の舞台となったり(宮﨑駿監督『天空の城ラピュタ』(1986年)など)、ある時は作品のテーマを仄かしたり(幾原邦彦監督『輪るピングドラム』(2011年)など)と、様々な形で作品を飾る。


 『イエスタデイをうたって』では、「scene 01」と「scene 02」の電車通過のカットが象徴的だ。線路沿いにいる人物(「01」ではリクオ、品子、ハル、「02」では品子)の付近で踏切が鳴り、背後を電車が水平方向に通過する。アニメオリジナルとして挿入されたこの短いカットは、“心の停滞”という本作のテーマをうまく視覚化している。


 実写映画とは異なり、カメラの物理的な移動がないアニメーションでは、後景の水平移動はしばしば前景に配置されたキャラクターの前進運動を表す。つまり、キャラクターに走るモーションを付した上で固定し、背景を動かすことで前進しているように錯覚させるわけだ(実際、リクオが自転車で移動するカットなどではこの方法が用いられている)。しかし電車の通過においては、当然この関係性が逆になる。すなわち、後景の電車が一定の速度で移動し、前景の人物たちがその場に停止するのである。


 電車には会社員と思しきモブキャラが数名乗っており、彼らは電車と共に等速直線運動をしながら主人公たちを置き去りにしていく。このカットには、直線運動のような合理的な人生を送ることができない主人公たちの心の停滞感がシンボリックに表されている。就職せずにアルバイトを続けるリクオ(彼の自室に無造作に置かれたフィルムカメラ、ブラウン管のテレビ、黒電話なども、時間の滞留を表す記号だ。直線運動のような人生を送るフクダにしてみれば、リクオの部屋は「汚くて時代を超越してる」(「scene 01」より)のである)。高校を中退し、親と離れてカラスのカンスケと暮らすハル。亡くなった湧の面影を忘れられない品子。彼ら/彼女らの心理的な時間の淀みが、電車の運動によってビジュアルとして視聴者に印象づけられ、その後「scene 02」の「前に進んでいるようでも、全然そうじゃないって。同じところ、いつまでもぐるぐるしてるんだよ」という品子のセリフによって言語化される。視覚情報と言語情報の見事な連係だ。


■否定される色彩
 この作品の目立った特徴の1つに、“黒”の多用がある。カラスのカンスケ。ハルの服装。黒電話。作中何度か挿入されるカンスケの登場シーンでは、画面を斜めに横切る黒い羽が印象的だ。


 無彩色である黒は,いわば色の否定である。黒を中心とした低彩度の配色によって、先述した心の停滞感が情景に反映されるような色彩設計になっている。とりわけ、「scene 01」の明け方のシーン、「scene 02」の夜のシーン、「scene 03」の雨のシーンでは、画面全体の彩度がぐっと落とされており、この物語のメランコリックな気分をうまく伝えている。


 “否定される色彩”をテーマに据えた作品としては、篠原俊哉監督の『色づく世界の明日から』(2018年秋)などが思い出される。幼い頃に色を認識できなくなった月白瞳美は、心の起伏を失った自閉的な心象世界に住んでいるが、ある日、祖母の魔法によって過去の世界に送り込まれ、そこで知り合った仲間たちとの心の触れ合いを通して「色づく世界」を取り戻していく、という話だ。 


 『色づく世界の明日から』ほど明示的でないが、『イエスタデイをうたって』においても、“色彩の否定”というモチーフが物語の中に織り込まれている。品子とハルにまつわる2つのシーンが印象的だ。


 「scene 02」は、見事に咲き誇った満開の桜をバックに髪を切る品子のシーンから始まる。その後、卒業式の別離の桜、夜の幻想的な桜と、“桜”の持つ一般的なコノテーションがビジュアル的に示された後、公園で品子がリクオに「桜ってあんまり好きじゃないんだけど、綺麗だよね」とポツリと洩らすシーンに至る。彼女にとって、桜は想い人である湧の死を思い出させる憂鬱な花だ。たとえどれだけ華やかに咲いていても、“受け入れられない死”という暗いコノテーションを纏ってしまうのである。


 「scene 03」では、リクオと映画に行く約束をしたハルが、それまでの寒色中心の出で立ちから打って変わり、白いワンピースに桃色のカーディガンという華やかな装いで登場する。しかしリクオは盛大に寝坊してしまい、約束の場に現れない。その後、暗い雨の降りしきる中、リクオはハルに品子の部屋にいたことを告げ、ハルは深く傷つけられる。花のように明るく咲いたハルの心は、リクオの失態によってあっさりと否定されてしまう。


 桜とカーディガンの華やかな色彩と、その否定。心の陽と陰。喜びと痛み。それはまさしく、人を好きになることの両義性に他ならない。「scene 03」でハルが唐突に投げかける「リクオ、愛とはなんぞや」という問いへの答えの1つは、ここにあるのかもしれない。


■声のカルテット
 この低彩度の水彩画のような風景に、声優陣の独創的な演技が加わることで、作品はさらに深みを増している。リクオ役の小林親弘は、『ゴールデンカムイ』(2018年-)の杉元佐一や『BEASTARS』(2019年秋)のレゴシなどで知られるが、強さ・猛々しさの中に弱さ・繊細さを滲ませるアンビヴァレントな彼の演技は、『イエスタデイをうたって』のトーンにこれ以上ないほどマッチしたキャスティングだ。


 ハル役の宮本侑芽は、『SSSS.GRIDMAN』(2018年秋)の宝多六花役などが印象的だ。アニメ的記号としての“女の子”ではなく、宮本の内面と身体性がそのまま表出するようなその演技は、小林の声との絶妙なハーモニーによって作品の主旋律を奏でる。生真面目な演技の中に蠱惑的な響きを含ませる花澤香菜は、リクオと浪を翻弄する品子にまさに適役だ。浪役の花江夏樹は、品子へのナイーヴで一途な想いを、柔らかくも芯のある声で好演している。この小林、宮本、花澤、花江のカルテットが、風や雨や車などの細密な環境音や、時折奏でられるアコースティックなBGMと相まって、作品の心象風景に深みを与えているのである。


 『イエスタデイをうたって』のような作品は、実写向きだと思われるのが一般的かもしれない。しかし各シーン・各カットを仔細に観てみると、アニメ独自の表現の魅力がはっきりと見て取れる。上で述べた以外にも、背景美術や目と手の芝居など、語るべき要素は無数にある。次回「scene 06」で本作も折り返し地点に差し掛かるが、本記事の読者諸氏には、今後一つひとつのカットに注目し、その妙味を味わってもらいたい。


※森ノ目品子の「しな」は木へんに品が正式表記。


■原嶋修司
アニメを愛し、アニメについて語ることを愛するアニメブロガー。予備校講師。作品評や関連書籍のレビューを中心とするブログ『アニ録ブログ』を運営。