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『エール』は“戦争の時代”をどう描く? 辻田真佐憲著『古関裕而の昭和史』から読み解く

2020年05月06日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書)

 NHK連続テレビ小説『エール』の主人公・古山裕一(窪田正孝)のモデルとなった“昭和を代表する作曲家”古関裕而とは、実際のところ、どんな人物だったのだろう。ドラマを観ている限り、とにかく音楽(クラシック)が大好きのようだけど、少々気が弱くてお人好しなところもあるような。けれども、思い立ったら一直線の人なのか。


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 「ものを作るには、何かのきっかけとか繋がりが必要なんだ。自分の中から何も出てこないなら、外の世界に目を向けてみればいい」という音(二階堂ふみ)の妹・梅(森七菜)に裕一がかけた言葉の真意とは。そこで、書店に足を運んでみれば(ネット書店を閲覧してみれば)、古関自身の名義による『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』(集英社文庫)をはじめ、『エール』の風俗考証を担当している刑部芳則による『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和史』(中公新書)、あるいは各種ムック本に至るまで、実に数多くの関連書が出版されている。その中でも、個人的にとりわけ興味を惹かれたのは、軍歌研究などで知られる“G-POP(軍歌ポップ)”の提唱者・辻田真佐憲による『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書)だった。


 ドラマの冒頭でも描かれていたように、古関裕而は1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開会式(そう、昨年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』の最終回の舞台となった、あの開会式だ)で披露された「オリンピック・マーチ」の作曲者であり、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」や早稲田大学の応援歌「紺碧の空」など、今日でも親しまれているスポーツ関連の楽曲を多く手掛けた作曲家だ(意外なところでは、ザ・ピーナッツが歌う「モスラの歌」も古関の作曲によるものだった!)。


 1909年(明治42年)福島県福島市に生まれた古関は、独学で作曲を学び、1930年(昭和5年)コロムビアの顧問だった山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家となり、同年に祝言を挙げた妻・金子(きんこ)と共に上京、プロの作曲家として本格的に活動を開始する。そして翌1931年、同郷の幼なじみである野村俊夫の作詞による「福島行進曲」でレコード(SP盤)デビュー。さらに同じ年には、金子が通う音楽学校の同窓で古関と同じく福島出身でもある歌手・伊藤久男の紹介で、のちに彼の代表作のひとつとなる、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」も作曲するのだった。


 というのが、今のところ、ドラマのあらすじと関連した、古関の実際の年譜になるのだろう。ちなみに、ドラマの登場人物になぞらえるならば、志村けん演じる西洋音楽の作曲家・小山田耕三は「山田耕筰」を、中村蒼演じる村野鉄男は「野村俊夫」を、山崎育三郎演じる佐藤久志は「伊藤久男」を、それぞれモデルにした人物となっているようだ(伊藤は古関の“幼なじみ”ではないけれど)。


 しかし、そのあとの展開で最も気になるのは、古関が……というよりも、日本という国自体が戦争の時代に突入していくところだろう。1937年(昭和12年)の盧溝橋事件に端を発する日中戦争からアジア太平洋戦争へと至る“戦争の時代”。古関は、同年に〈勝って来るぞと勇ましく〉という歌い出しで知られる「露営の歌」の作曲を担当し、これが大ヒットを記録するのだ。その後も、国民を勇気づけ、ときには癒すような作品を次々と生み出していった古関は、いつしか“軍歌の覇王”と呼ばれる存在になっていったという。『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』が興味深いのは、多くの関連書が駆け足で描写する、もしくは悲劇的なニュアンスでのみ語られることの多いこの時期の古関の動向について、実証的な研究·調査および考察をしている点だった。


 それは、“昭和を代表する作曲家”である古関の功績を、必ずしも貶めるものではない。著者の視点は、あくまでもフラットであり……むしろ、「古関が生み出した作品が、昭和史においていかなる役割を果たし、それが今日にどのような影響を及ぼしているのか」を解明することが、本書の課題のひとつであるという。そこで興味深いのは、生涯クラシックへのこだわりを持ち続けた古関の芸術志向と商業主義の「ねじれ」に注目し、それを多彩な音楽を大量生産的に生み出す行為のバックボーンとしている点だった。著者曰く、それは古関の社会との関わりにおいても同様であるという。


 古関は、政治的な主義主張をほとんどもたなかった。仮にあったとしても、その当時として一般的な範囲を出なかった。にもかかわらず、数多くの軍歌や団体歌を送り出した。それを可能にしたのは、ノンポリゆえにかえってどんな政治的音楽でも自由自在に作れるという、もうひとつのねじれだった。
 このような屈折があったからこそ、その五〇〇〇曲ともいわれる作品群は、帝国主義と平和主義、国粋主義と国際協調、滅私奉公と個人主義などのあいだで激しく揺れ動いた昭和日本の写し鏡となったのであり、あたかも昭和史のミクロコスモス(小宇宙)のごとく広大無辺となったのである。(p,289)


 本書のサブタイルにある「国民を背負った作曲家」とは、その意味においてなのだろう。激しく揺れ動いた昭和日本を生きた人々の“無意識の欲望”に応える形で戦時歌謡を含む“大衆音楽”を生み出し続けることによって、本人の意思とは関係なく、古関はいつしか“国民”を背負う作曲家となっていったのだ。


 彼の人生と作品を辿ることは、昭和という時代を生きた人々の“無意識の欲望”を辿ることに他ならない。与えられた“テーマ”や歌詞に宿る“言霊”を、音楽という形で表現し続けること。古関が遺した膨大な作品群は、「人々が音楽に求めるものとは?」「多くの人々を奮い立たせる“応援歌”とは何なのか?」、さらには「その“応援”の対象となるのは、“人”なのか“行為”なのか“思想”なのか?」といった根源的な問い掛けも射程に入るのだった。


 奇しくも当初予定していた“オリンピック・イヤー”とはまったく異なる形で、“応援”という言葉がひとつのキーワードになりつつある現在、古関という作曲家と彼が生きた時代について考えてみることは、翻って我々自身の生きる時代について考えることと、決して無関係ではないように思えた。(麦倉正樹)