2020年04月30日 19:12 リアルサウンド
橘ももの書き下ろし連載小説『婚活迷子、お助けします。 仲人・結城華音の縁結び手帳』は、結婚相談所「ブルーバード」に勤めるアラサーの仲人・結城華音が「どうしても結婚したい!」という会員たちを成婚まで導くリアル婚活小説だ。前回のラストから第十話は、小川志津子と田中幸次郎の2回目のデート模様かと思いきや、なんと志津子の母が乱入! ブルーバードに乗り込んできた。入会を内緒にしていた志津子だが、なぜバレてしまったのか。はたして、母の目的は?
第一話:婚活で大事なのは“自己演出”?
■正直申しまして、娘には不釣り合いの方だと思います
「ちょっとねーさん。やばいの来てるんですけど」
昼食を終えて事務所に戻ってくるのを、ビルの前で待ち構えていた高橋陽彩(ひいろ)の顔を見た途端、華音は思わず踵を返した。無表情で立ち去ろうとする華音を「ちょ、ちょ、ちょ、ねーさん!」と追いかけてくる陽彩は弟ではなくブルーバードの同僚なのだが、ひょろ長くて細い体躯に、薄くすいた前髪、地毛というには明るすぎる茶髪という風体は、ジャケットを羽織ると落ち着きを見せるどころか胡散くささを倍増させ、形のいい薄い唇で微笑まれると、堅気とは思えない危険な甘さを漂わせる。そんな彼に接客されると、みな一様に、神楽坂の結婚相談所ではなく歌舞伎町のホストクラブに迷い込んだのではないかと戸惑う顔を見せるのだが、それもそのはず、陽彩は2年前に所長の紀里谷が銀座で拾ってきた会員制クラブの元ボーイなのだった。
「だからねーさんはやめてってば。私までその筋の人みたいに見えるから」
腕をつかんだ手をやんわり払うと、陽彩は気にした様子もなく、にししと笑う。
「ねーさん、いかちぃっすもんね。黒ずくめだし、クールだし」
「仕事なんだからあたりまえでしょ」
「でもさー。黒子だから黒いスーツってちょっと安直すぎない? もう少し柔らかい服きても、会員さんの邪魔にはならないと思うけど」
「会員さま、ね」
「ちょっとくらい笑ったって、バチはあたらないと思うし」
「必要なときは笑ってるわよ」
「えー、だって俺の前じゃいつも仏頂面じゃん」
「それはあなたがたいていの場合、やかましくて鬱陶しいからでしょ」
「えー、ひでー」
払ったはずの手で今度は華音の手首をつかみ、駄々っ子のようにぶんぶんと振る。これで仕事ができなかったら紀里谷に直談判しているところだが、会員制クラブではときにホストよりも人気だったというだけあって、気配りはきくし距離のはかりかたが絶妙で、今のところ会員からクレームがきたことは一度もない。これで26歳なのだから、たいした処世術の持ち主だと思う。
「ところでねーさん、今日はランチなに食べてきたんすか? 俺は龍華の麻婆豆腐か、魚膳の定食かで悩んでるんすけど」
「そんなことより、なんかあったんじゃないの。やばいのって、なんのこと?」
「ああそうだそうだ、やだなあ、ねーさんが逃げるから忘れちゃったじゃないですか」
「人のせいにしない。で、なに。だれ」
陽彩がここにいるということは、紀里谷が相手をしているのだろう。ここ3カ月ほど、経験を積ませるという名目で(実際は紀里谷の負担を減らすために)、来客があればまず陽彩がひとりで応対していた。もちろん相性もあるけれど、その接客技術は華音から見てもたいしたもので、なんの不安もなく任せられるねと紀里谷とも話し合っていたばかりだ。
それがいま、追い出されて華音の出迎え役にされている。
ということはつまり、事務所にいるのは、陽彩では手に負えない相手ということで。
華音の警戒を見てとった陽彩は、肩をすくめてやや憐れむような笑みを――どんなときでもこの男はうっすらとした笑みを絶やさない――唇にのせた。
「大変だよ。志津子さんがお母さんと一緒に来てる」
その言葉を耳にした瞬間、くらりと目眩を感じて、華音は額に手をあてた。
「ですから、退会させていただきたいと申し上げているんです」
事務所の扉をあけると、ゼラニウムの穏やかな香りとともに、正反対のぎすぎすした声が漏れてきた。ただいま戻りました、と平静を装って入室すると、紀里谷と目があう。向かい合っている二人は後頭部しか見えないけれど、右でうなだれているのが志津子だから、隣で対照的に背筋をぴんと伸ばしている女性が母親だろう。華音のアドバイスで、かたい印象を与えるストレートの黒い長髪をふんわり巻くようになった志津子だけれど、うしろ姿だけで判断すれば、落ち着いたベージュのミディアムヘアを上品に巻いた母親のほうが若く溌溂として見える。
「結城さんも、ここに座って」
紀里谷にうながされて、華音は志津子たちの対向に移動すると、まずは母親に頭をさげた。
「結城華音です。志津子さんの担当をしております」
名刺をとりだそうとすると、結構です、と冷たくあしらわれて終わる。では、と腰かけると真正面に座る志津子が視界に入った。泣いているのかと心配になったけれど、感情の消えた瞳で空の一点を見つめているのがわかって、事態はいっそう深刻であることを悟る。
今日は田中幸次郎と1カ月以上ぶりに会っているはずなのに。以前連れていってもらった根津の定食屋ではやめの昼食をとり、上野まであるいて美術館に行くと言ってなかったか。今はまだ、13時を過ぎたところで、すべての予定を終わらせたにしては早すぎる。どうして。なんでこんなことに。華音は急く心を、気づかれないように深く息を吸うことでなだめた。感情的になっては、だめだ。
陽彩が言うところの無表情を保ったまま向き合った華音に、母親のほうもつとめて冷静に口を開く。
「小川志津子の母の、絢子です。娘がお世話になりました。ですが本日付で退会させていただこうとお話をしていたところなんです」
「それはまた……どうして……」
志津子の背後にいつも影がちらついているせいで、勝手に気の強い高圧的な女性を想像していた華音だったが、実際の絢子は風貌もしゃべりかたもおっとりしていて、一見すると控えめで楚々とした印象だ。けれど、薄いルージュの引かれた唇からこぼれる言葉に迷いはなく、有無を言わせぬ厳かさがあった。たぶんこの人も、どんなときでも微笑みを絶やさない。陽彩と同じ、だけど全然違う。
絢子は、ふうっと静かな息を吐いた。
「今日、たまたま娘が見合いのお相手と一緒にいるところに遭いました。……正直申しまして、娘には不釣り合いの方だと思います」
淡々と告げる絢子の隣で、志津子はじっと動かない。
「優しくていい人そうな方ではありましたけど、あとで娘に聞きましたら、共働きを希望されているというじゃないですか。最初から女性の稼ぎをあてにされている方は、ちょっと」
「確かに、今回の方では、志津子さんに専業主婦になっていただくのはむずかしいと思います。ただ、まじめな方なので貯蓄もしっかりされていて、たとえば出産を機に志津子さんがしばらくお仕事を休まれても問題ないと確認しています」
「それでもねえ、最初から奥さんを養うくらいの気概を見せていただけないっていうのはね」
「お母さまは、志津子さんに専業主婦になっていただきたいんですか?」
なにげなく、聞いたつもりだった。華音にも、それほどの他意はなかった。けれど瞬間、空気がぴりついて絢子の眉尻がきゅっとあがる。
「娘は通訳として、立派に仕事しているんですよ。それを男の都合で辞めさせるなんて、とんでもありません」
ええー……じゃあいいじゃん……。
とはもちろん、言えなかった。女性も仕事してあたりまえ、夫にしおらしく付き従うなんて時代遅れだ、と理解を示す反面、男性は女性より優れていたほうがいい、女性は家庭的であったほうが愛される、という相反する価値観を拭いきれない人は少なくない。なるほどね、と華音は思った。これは、陽彩の手に負える相手ではない。若くて、ちゃらついていて、真剣みの薄そうな男性を、この手の女性はいちばん信頼しない。それに、会員の親が出張ってきたときの心構えを、陽彩にはまだ教えていない。
――成婚できる人とできない人の違いっていろいろあるけど、親との関係っていうのがわりとネックになるケースが多いんだよねえ。
いつだったか、紀里谷はそうつぶやいて、珍しく物憂げな表情を浮かべていた。親の介入によって真剣交際していた相手と破局させられ、けっきょく成婚しないまま退会してしまった会員の話を、そのときに聞いた。それも、ひとりではない。女性も男性も、年齢も関係なく、紀里谷はうなだれて事務所を去る会員たちを、無力感とともに見送ってきたという。
たぶんその人たちは、いまの志津子のような表情を浮かべていたのだろう、と華音は思う。志津子は華音を見ようとはしない。紀里谷のことも、母親のことも。怒りも悲しみもないまま、ただ静かな諦めだけを瞳に浮かべている。
そのとき、
「志津子。顔をあげなさい。お世話になった方たちの前で、失礼でしょう」
と、絢子が小声でささやくのが聞こえた。はい、と答えて志津子はしゃんと背をのばす。……碌な男を紹介しないから退会するのだ、と暗に華音たちを責めた口で、今度は志津子を注意するために“お世話になった”などと言う。それは確かに礼儀として必要なことかもしれないが、華音の胸はひどく傷んだ。絢子の怒りは、いったいなんのために、どこへ向けられているのだろう。
口を一切開くまいと決めたらしい陽彩が、お茶のお代わりを運んでくる。絢子が手に取ったのを確認して、華音も、ほとんどしゃべっていないのにからからになった咽喉を潤した。……べつに、ブルーバードを退会することじたいは、どうでもいい。ここで成婚が決まらなくても、もっと気になる相談所が見つかったとか、華音が信用できないとか、志津子が志津子の理由で決めたのならば甘んじて受けいれる。けれど。
華音もすっと背筋を伸ばした。
たぶん、長い、午後になる。
■お見合いで、こういうお店に連れてくるような方は……
時は2時間ほど前にさかのぼる。11時の待ち合わせにしたのは、その時間しかランチの予約がとれないと幸次郎に言われたからだ。土曜の昼はとくに混雑すると聞いて、人気店なのだなあ、とスープの味を思い出したらそれだけでお腹がすいた。
けれど、当日になってみると食欲を感じるほどの余裕はなく、幸次郎に会うのだと思っただけで心臓がばくばく音を立てて、朝ごはんもろくに食べられなかった。ふだんから食の細い志津子が、紅茶とチーズだけで終えているのを誰も気にかけてはいなかったが、挙動はやや不審だったらしく、今日はなにかあるの、とめざとい母に聞かれて焦ったのがよくなかった。ちょっと面倒な取引先とのうちあわせで、とごまかしてから、本当に抱えている面倒な取引先について愚痴めいたことをこぼしてみたのだけれど、それも過剰だったのかもしれない。ランチを終えて外に出ると、母がいた。偶然、のような顔をしていたけれどそんなわけもなく、おそらく向かいのカフェで時間をつぶしていたのだろう。
「お付き合いされている方?」と、母が聞くと、幸次郎は照れたようにぶんぶんと手を横に振った。
「そんなんじゃないです。おれ、いや僕は……」
言いかけて、志津子の様子から察したのだろう。結婚相談所とも見合いとも言わずにただ「友達です。ええと、うちの会社が志津子さんに仕事をお願いしたことがあって、その縁で」と言った。厳密には、嘘ではない。はじめて会ったとき、会社名を聞いた志津子がそう伝えたのを、幸次郎が覚えていただけだ。もっとも、幸次郎とはなんのかかわりもない部署で、担当者のことさえ彼は知らなかったけれど。
「……ごめんなさい、田中さん。今日はここで失礼させていただいてもいいですか」
それ以上、3人でいることに耐えきれず、切り出したのは志津子だった。幸次郎は、一瞬「えっ」という顔をしたあと、すぐに人懐こい笑みを浮かべた。
「もちろん。僕もこれから仕事だから。じゃあ、すみません。失礼します」
如才なく頭を下げて去っていく幸次郎からは、うっかりミスの多いデートの印象は消えていて、ああ営業職の人なんだなあと妙に納得させられた。場の空気を読んで、適切に対応する。向いてないのに仕事中は気を張りまくってるから、その反動でプライベートではぼんやりしてばかりなんだ。なんて、いつかぼやいていたことは本当だったのだと。
駅に向かう幸次郎の背中が小さくなると、母は言った。
「それで、本当にお友達?」
信じていないのがあらわな声に、動揺もあって志津子はしらを切ることができなかった。結婚相談所に入会したの。もうずっと、土曜はお見合いをしてる。あの人は、そのうちの一人。ぽつぽつと説明する志津子に、母は表情を変えなかった。いつものように穏やかで、皺ひとつない美しい横顔。見つめながら志津子は、自分が小さな子どもになった気分でスカートをきゅっと握った。
「お見合いで、こういうお店に連れてくるような方は、お母さんどうかと思うけどね」
母は暖簾を一瞥すると、志津子の返事を待たずにさっさと歩きだした。こういうお店、って。おいしいんだよ。それに大将も幸次郎さんのお友達もとてもいい人で。言いたかったが、母が言うのは味ではなくて、誰にでも入りやすい庶民的な雰囲気を言っているのだということ、そして店自体がわるいのではなく母の思う“見合い相手とのデート”にそぐわないというだけだ、ということはわかっていたから、黙る。悪気はない。誰を貶めているつもりもない。どちらかというと、志津子をただただ心配していて。それだけで。
「なにをしているの、はやくいらっしゃい」
道路わきにタクシーを止めた母に手招きされる。そこで逃げ去る勇気は、もちろん志津子にはなかった。聞かれるがままにブルーバードの所在地を告げると、タクシーはまっすぐ走り出した。その時点で、母にブルーバードから退会させるほどの意思はなかっただろう。どんな相談所か、娘を任せるにふさわしい仲人かを、確認しておきたかっただけだ。けれどやはり聞かれるがままに幸次郎のプロフィールや、ほかにどんな人たちと見合いを重ねたかを告げるにつれて、母の表情は少しずつ曇っていた。そして、ブルーバードの入っている古びたビルを見上げたとき、母の決意はかたまったようだった。
「あなたは何も心配しなくていいの。お父さんもお兄ちゃんも、あなたにいいお相手がいないか探してくれているから。お母さんもね、お友達に声をかけているところなのよ」
うん、とか細い声で答えながら志津子は、ついさっきまで幸次郎と肩を並べていたカウンターの風景を思い浮かべていた。1カ月以上も放置していたというのに、幸次郎はまるで気にしていないどころか、フラれたわけじゃなくてよかったと無邪気に喜んでいた。あいかわらず箸遣いは雑だったけれど、以前に気になっていたやや握り込むような持ち方は改善され、器の上ではなく箸置きにそっと置くようになっているのを見て驚いていると、彼が手洗いに行っている隙にカウンターの中から声をかけられた。
「あいつ、志津子さんに釣り合うようになりたいからって、必死で練習してたんですよ。このカウンターで、俺や大将に口やかましく注意されながらね」
悪いやつじゃないんです、と苦笑する幸次郎の友人に、胸がじんと熱くなった。たった1時間半程度だったけれど、ここ最近でいちばん楽しい食事の時間だと志津子は思った。それなのに。
――もう、おしまい。
紀里谷と華音に、言葉はやわらかく、しかし一歩も退かない姿勢で退会を告げる母の言葉を聞きながら、志津子の胸中に湧き出ていたのは虚無感だ。どうしてだろう。私、自分の力だけで婚活したいって、そんなに変なことかな。田中さんって、お母さんががっかりするほどだめな人だろうか。でもこんなにお母さんがゆるぎないってことは、私がなにかを見落として間違えているんだよね。結婚って、自分たちだけのことじゃないんだもん。お母さんが認めてくれない人と一緒になるわけにはいかないし。
――どうせ、これで田中さんには嫌われてしまっただろうし。
おおらかな幸次郎のことだから、嫌いはしないかもしれない。だが少なくとも、“引いた”だろう。母が偶然ではなくあの場所にいたことは、たぶんすぐに悟ったはずだ。母と志津子の醸し出すめんどくさそうな雰囲気も。
家族がお見合いを組んでくれるというなら、それに乗っかったほうがいいのかもしれない。と不意に志津子は思った。思い出したのは、高校時代の友人の顔だ。過去に彼氏との付き合いを反対され怒りを爆発させていた彼女も、けっきょく、親が申し分ないと太鼓判を押した人と結婚し、幸せそうな家族写真をSNSに載せている。
――まわりが反対するって、やっぱりそれだけの理由があるんだよ。親って、なんだかんだいちばん子供のことを見てるし、経験値があるぶんわかっていることも多いし。
――結婚ってさあ、けっきょく家と家との結びつきだし。自分の気持ちだけで無理を通しても、あとからうまくいかないことのほうが多いと思うよ。
――子供が産まれたときにおじいちゃん、おばあちゃんにかわいがってもらえないのもかわいそうだしねー。
何人かの友人たちが、口々に言っていたことがよみがえってきて、志津子は全身が硬直するのを感じた。……そう。彼女たちはたぶん、正しい。そうするのがきっと、安全に幸せになれる道なのだ。だから。
私、退会します。ごめんなさい。
そう、華音に告げようとしたとき。
華音が机のうえに載せていた、スマートフォンの背中が目に入った。赤く縁どられ、黄色く塗りたくられた、雄々しいライオンのシール。華音に連れていってもらったプロレス団体のロゴ。
――立ち上がるときはひとりです。
華音の言葉が、よみがえる。
――この人と自分で決めた相手に、全力で立ち向かってみませんか。
思い浮かんだのは母と幸次郎、そして華音だった。いま、志津子の目の前にいる人。立ち向かわなくてはいけない相手。誰かの力を借りるのではなく、それぞれに自分ひとりの全力で。
華音と、ふいに目があった。
その瞳は志津子になにかを訴えかけるように、切実な色をともしていた。(文=橘もも/イラスト=野々愛/編集=稲子美砂)