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『コロナの時代の僕ら』から考える、コロナ禍とミステリ小説の相似

2020年04月28日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 中国から世界へと広まり、各国で猛威をふるう新型コロナウイルス感染症。なかでも爆発的に感染者が増加し、多くの死者がでているのがイタリアだ。そのように事態が悪化していった2月末から3月前半にかけて書かれたパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳)が、最も早いコロナ文学として話題になっている。このエッセイ集は、早川書房が期間限定で全文をインターネットで先行公開した後、書籍化している。


関連:パオロ・ジョルダーノの代表作『素数たちの孤独』


 ローマで自らを隔離状態にしたイタリアの作家が、コロナ禍をどのように受けとめたかを語っている。情緒的な内容ではない。代表作に『素数たちの孤独』と題された小説があり、物理学の博士号を有するジョルダーノがコロナと対峙する際にこだわるのは、数学だ。「感染症の数学」、「日々を数える」といった章があるのが象徴的である。自身を「数学おたく」と認める著者は、「文章を書くことよりもずっと前から、数学が、不安を抑えるための僕の定番の策だった」という。


 現在、いろいろな数字が取り沙汰されている。感染者、死者、回復者をカウントするのをはじめ、出歩けなくなった日々、暴落した株価の損失、マスクの供給、この危機が去るまでの時間など、このウイルスが広まって以降、人々は様々なものを数えないではいられなくなっている。数字がパニックを生む原因だとして、情報を発信する側が数字を隠したり少なく見せたりする動きもあった。著者は、人々が数をどう扱ったかを追うことで社会の混乱を描いていく。


 その一方で彼は、本の前半で事態収束への筋道をひとつの数学として記してもいた。コロナウイルスにこれから感染しうる人、すでに感染した人、もう感染しない人の3グループに現在の人類が分類され、ひとりから伝染する人数が1未満になれば終息すると説明する。それを「僕たちの我慢の数学的意義」と呼ぶ。


 ジョルダーノは、数学とは数の科学ではなく関係の科学だとして、こう定義する。


数学とは、実体が何でできているかは努めて忘れて、さまざまな実体のあいだの結びつきとやり取りを文字に関数、ベクトルに点、平面として抽象化しつつ、描写する科学なのだ。


 そのように抽象化した見方をすることが、事態を冷静にとらえることにつながる。一人ひとりの違いを度外視して同等の数扱いすることは、名前ではなくナンバーで国民を呼ぶディストピア的な冷たさを思わせる面もあるだろう(例えばザミャーチン『われら』は、そういう設定のディストピア小説だ)。


 しかし、ジョルダーノは、エッセイで数学的思考ばかりを展開するわけではない。一週間もすれば元に戻れると甘い見通しが話されていた夕食の席、日本人の妻が「中国に帰れ」といわれたことなど身近な友人たちのエピソードを記しているほか、著者がかつて手足口病になり自宅隔離を余儀なくされた経験をふり返っている。無機質な数には還元できない人間くさい言動が語られているからこそ、本書には私たちの問題が書かれていると感じるし、冷静に向きあわなければならないと考えさせる。


 コロナ禍に関しては、フランスのマクロン大統領など、戦争に喩えて緊急性を訴える政治家がおり、独裁や人権の停止に結びつくのではないかと議論になっている。その比喩に対しジョルダーノは、感染症と戦争は異質であり「恣意的な言葉遊び」だと批判する。『コロナの時代の僕ら』を私が読んでいて思ったのは、むしろ現状とミステリ小説の相似だ。


 ここには、死者をはじめ病気の被害者が存在する。ジョルダーノは自分たちを「自宅軟禁の刑に処された受刑者」に喩える。彼は新型ウイルス発生の背景に環境破壊があり「僕たちのせい」だと述べるが、それは「どうしても犯人の名を挙げろ」という声が世間にあることを意識したうえでの発言だ。また、誰から誰へウイルスが伝染したかしなかったかを探るのは、アリバイ調べのようなものだろう。犠牲者、犯人捜し、罪を問う声……。ミステリ小説にありがちなモチーフで、コロナ禍は語られているのだ。


 感染症は「僕らのさまざまな関係を侵す病だ」とする著者は、関係の科学である数学の見方を使い、抽象化して状況をとらえようとした。こうした態度は、不可解な謎を論理的に推理して解き明かす、いわゆる本格ミステリの在り方に近い。このジャンルでは、真相の意外さを追求して無茶なトリックも考案されてきた。パズルのごとき遊戯として、人を人ではなく、体もただの部品のように扱って数として操作するような発想である。


 そのなかでも、江戸川乱歩が考察したことでも知られるプロバビリティー(確率)の犯罪は、現状に通じるところがあると思う。乱歩は評論「プロバビリティーの犯罪」でそれをこう説明していた。


確率を計算するというほどではなくても、「こうすれば相手を殺しうるかもしれない。あるいは殺し得ないかもしれない。それはその時の運命にまかせる」という手段によって人を殺す話が、探偵小説にはしばしば描かれている。


 ミステリとしては、だからその種の手段を用いて完全犯罪を企むというストーリーになる。一方、今の私たちは、自分が誰から病をもらうか、誰にうつすかわからない。気づかぬうちに自分が被害者に、加害者になりうるし、誰もが容疑者にみえて共犯者になりうる確率的可能性だらけの世界に生きている。私はミステリ評論も書いているため、そんなアナロジーからジョルダーノの数学的思考を理解していったのだった。


 本書最後に日本語版のあとがきとして収録された「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」は、特に強烈な印象を残す。書き出しは、こうだ。


コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。


 この言葉は、日本の人々に重く響くはずだ。コロナに関し緊急事態宣言が出されるすぐ前まで、この国は原発事故を伴った大震災からの復興を掲げた東京2020オリンピックの準備を進めていた。その復興は、元どおりになってほしくないことを含んでいなかったか。また、今回の危機が「過ぎたあと」、震災とコロナの二重の意味で復興しなければならないが、今度こそ元どおりになってほしくないことを忘れずにいられるのか。社会がよりよい選択をするためには、人間くさい私たちの行動を見つめつつ、抽象化して冷静に思考する必要があると本書は示唆している。


(文=円堂都司昭)