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w-inds. 橘慶太×岡崎体育対談【前編】 DTMとの出会いが叶えた夢、“歌詞が脚本”スタイルの楽曲制作について聞く

2020年04月24日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

橘慶太×岡崎体育(写真=下屋敷和文)

 3人組ダンスボーカルユニット・w-inds.のメンバーであり、作詞・作曲・プロデュースからレコーディングにも関わるクリエイターとして活躍中の橘慶太。2020年3月にはKEITA名義で4年ぶりとなるソロアルバム『inK』をリリースするなど、積極的な音楽活動を行っている。そんな彼がコンポーザー/プロデューサー/トラックメイカーらと「楽曲制作」について語り合う対談連載「composer’s session」第5回のゲストは岡崎体育。


 イベントでの対バンやコラボレーション楽曲(KEITA「Tokyo Night Fighter feat. 岡崎体育」)に加え、プライベートでも親交の深い二人。前後編でお送りするインタビュー前編では、親しいからこそこれまで聞いてこなかったという岡崎体育の音楽活動の歩みについて、橘慶太が興味津々で切り込んでいく。(編集部)


(関連:w-inds. 橘慶太×NONA REEVES 西寺郷太 対談【前編】 楽曲制作への目覚めと活動原点振り返る


■始まりはニンテンドーDS DTMとの運命的(?)な巡り合わせ


橘:岡ちゃんは普段から仲良くしてもらってるんですけど、この日のためにしてこなかったと言っても過言ではないくらい、これまでの活動の話とか、音楽のルーツの話を聞いたことがなかったなと思って。なので、僕が純粋に興味があることからいろいろ聞かせてもらいたいと思います。まず、音楽を好きになったタイミング。小さい頃から音楽は好きだったんですか?


岡崎:僕の母親がQueenの追っかけ、バンギャみたいな感じだったんですよ。だからまだ物心つくかつかないかギリギリぐらいの頃から、Queenのレコードがずっと家で流れてましたね。親が海外ロックが好きだったので、だんだんその影響でDeep Purpleとか海外の音楽を聴くようになりました。でも小学校に上がると、みんな『ミュージックステーション』とか『HEY!HEY!HEY!』とかに出てるJ-POPのミュージシャンの話をするじゃないですか。最初はついていけなかったんですけど、それをきっかけに日本の音楽も聴こうと思って、クラスの女の子が歌ってたSPEEDの「my graduation」のCDを初めて親にねだって買ってもらいました。短冊形のシングル。


橘:へえ!


岡崎:そこからJ-POPも聞くようになり、中学で海外パンクとかメロコアが学校で流行って、Sum 41とか海外のバンドをまた聴き始めるようになって。そこからはお小遣いでいろいろなCDを買ったりしました。


橘:じゃあもうずっと音楽が好きだった?


岡崎:はい、好きだったと言えると思います。


橘:最初に音楽を作り始めたのはいくつぐらい? なにで作ったんですか?


岡崎:14歳のときですね、中2の終わりごろ。ニンテンドーDSで『大合奏!バンドブラザーズ』っていう音ゲーがあって。


橘:なんか知ってる、それ(笑)。


岡崎:知ってます? リズムに合わせてタイミングよくボタンを押すっていう。


橘:いろんな曲のベースパートとかを弾けるゲームだ。


岡崎:そうそう、各パートを演奏できて、通信すれば友達と一緒に演奏できるゲームがあって。それがメインの音ゲーなんですけど、サブコンテンツで作曲モードがあったんです。自分でMIDIみたいに音符を置いていったり、ドラムのパターンを置いていったりできて。もちろん当時はその作業がMIDIとかDTMっぽいもの、打ち込みだっていうのを理解せずに、なんとなく打ち込んだら音が作れる、面白いものとして遊んでいて。それが自分で作曲というか、音を繋いで遊ぶことの最初の経験でしたね。


橘:ちなみにその時に作ったのは、ざっくり何系のジャンルなんですか?


岡崎:もちろんコード進行もわからなかったので、インターネットに転がってるJ-POPのタブ譜を真似して、メロディと上モノだけ自分で変えて作ってました。いわゆる普通のメジャーな感じのコード進行の音楽でしたね。


橘:中2でそれを始めて、結構長いことやってたんですか?


岡崎:いや、高校に上がってすぐやめました。部活と勉学に励んでたんで。


橘:曲作りからは一回離れたってこと?


岡崎:離れましたね。音楽はすごく好きで、CD買ったり、『SUMMER SONIC』は高校3年間全部行きましたし、他のライブを観に行ったりもしてたんですけど。


橘:高校の時の部活は何をやってたんですか?


岡崎:テニスをやってました。で、勉強が好きで、英語とか世界史とかむっちゃ勉強してました。


橘:意外! 失礼ですけど(笑)。


岡崎:(笑)。だから音楽を作る行為からは、3年間は離れてました。で、大学に行ってバンド活動を始めて。


橘:え! バンドやってたんですか? バンドが嫌いだ、みたいな話を岡ちゃんから聞いてたような……。


岡崎:でも2年くらいで解散するんです。そのバンドは僕が発起人だったんで余ったパートがベースだったからベースボーカルをやることになりました。楽器屋にベースを買いに行こうと思って京都の楽器屋さんに行ったんですけど、「ギターベース館」と「シンセ館」が国道を挟んで反対側にあるタイプの店で、間違えてシンセ館の方に入ってしまったんです。出ようと思ったけど店員さんにマークされて、ビタづきで商品を勧められて。ベースを買いにきたと説明しても「いやこれDTMって言って、この中にベースも入ってるし、音大きくさせたらライブでも使えるから」って押しに押されて負けて買うっていう。


橘:ベースじゃなくて?


岡崎:ベースじゃなくて、DTM。Cubaseなんですけど。「高いなー」ってなんとか回避しようとしたんですけど、「アカデミック版があるから。学生やったらマジで安なる! 30%くらいOFFになるし」って言われて、買いまして。


橘:DTMとの出会いがそんな感じだったとは(笑)。ベースは?


岡崎:ベースは母親が通ってた英会話教室のオーストラリア人の先生が、オーストラリアに帰るタイミングでLegendっていうメーカーのむっちゃ弦高が高い変なベースをもらってきて、それを使ってやってました。DTMはニンテンドーDSの経験があったから、最初から楽しかったですね。DTMって1年未満での諦め率がすごく高い趣味なんですって。だから1年を越えるまでが大変らしいんですけど、なんとなく身体で覚えてたから、打ち込んでて楽しくて。で、大学のバンドでもパソコンから音を出して同期を使ってライブをやってたんですよ。その当時はそういうことをやっている人も多くなかったですけど。


橘:すごい! ちゃんとしてますね。


岡崎:そうなんです。でもやっぱり僕が協調性がないのがバレていって、「俺の言うとおりになんでしてくれへんねん!」って喧嘩になったりして、メンバーがどんどん減っていきました。ギター、ドラム、ベースボーカル、ボーカルの4人だったのが、最初にギターが抜けて、ボーカルが抜けて、ドラムと僕だけになって。「ドラムとベースボーカルだときついし、俺ギターボーカルにしよ」ってギターを買ったけど、うまいこといかなくて、結局そのまま解散。で一人になったっていう。


橘:リーダーは岡ちゃんだったってことですよね。どんなことをしてたんですか? 曲を作ったり?


岡崎:スタジオの予約をしたり、ライブのブッキングをしたり。曲も僕が作ってたんですけど、他のメンバーも曲を作りたがって、他のメンバーが作った曲もやってましたね。でも、バンドの中で曲を作る人がいっぱいいるのってすごい大変やなって感じて。まとまらないのもあるし、なんか違うなってなっちゃうんですよ、僕が。だからThe BeatlesとかQueenはすごいなって思いました。みんな曲を作るじゃないですか。でもそれは僕には無理やって。


橘:岡ちゃんにはやれなかった。


岡崎:やれなかった。当時は人と何かを一緒に作るっていうのができない性格でした。それを受け入れるのにものすごく時間がかかって。自分に協調性がないって思いたくないじゃないですか。まさかそんなことないだろうと。社会から逸脱したような性格なわけがないって思いたかったんですけど、まぁ今になって考えると僕の性格に難があったなってすごく思いますね。


橘:今でもバンドは組めない?


岡崎:アレンジで誰かに参加してもらうとか、コラボレーションでミュージシャンと一緒に何かをやることに関しては、すごく気持ちよくできてるんですよ。なので、一心同体、ずっとこの人とコンビを組んで、チームを組んでってなると、プレッシャーを感じてしまうのかもしれないですね。


橘:バンドを辞めて一人になっても、音楽は続けていた?


岡崎:バンドが解散した後はバイトをしながら就職活動をしてて。うちはシングルマザーで一人っ子だったんで、親を安心させたくて就職したんですけど、やっぱりどこかに属するのがすごくしんどく感じてしまった。誰かと一緒にとか、誰かの下で何かをやるっていうことに違和感のあった時期だったんですよ。僕が青かったのもあるんですけどね。それで会社を半年くらいで辞めて、「もう俺無理や。でも音楽だけもう一回やりたい」って家族に相談して。で、「4年間音楽やってメジャーデビューできんかったら普通の仕事に就きなさい」っていう期限付きの約束で、岡崎体育を2012年に始めたんです。それが23歳のときでした。地元のスーパーでバイトしながら、自主制作で音楽を作って。


橘:全部自分で?


岡崎:そうですね。バンドをやってたときにライブハウスの人によくしてもらってたんで、一人になってからも空いてる枠に呼んでもらったりして。でも当時はノルマがあって、お客さんを呼べないとノルマ代を自分で払わなくちゃいけなかったんです。僕は誰一人お客さんを呼べなかったのできつかったですね。友達は来てくれるけど友達からとるわけにもいかないし。だから機材も全然買えなかったです。最初に買ったCubaseだけで、オプションのプラグインも全くなく初期のままでずっとやってました。最初の1~2年はむちゃくちゃしんどかったですね。


橘:でも、逆に言うと音楽は続いたんですね。会社もしんどくてやめたのに、音楽はしんどかったけど続けられた。


岡崎:続けられましたね。やっぱり一人でやってるっていうのは他の人の責任を負わなくていいし、これで4年間やって芽が出なくても、まぁそういう人生やったんやなって割り切れるかなと思ったんで。その4年間は、もうがむしゃらに音楽と向き合いましたね。


■いろんなジャンルに挑戦できるのがソロ活動のメリット


橘:岡崎体育として始めたときから、今のようなエンターテイメント性の高い音楽性だった?


岡崎:最初のころは「盆地テクノ」というのを掲げて音楽活動をしてたので、テクノっぽいミニマルな感じ。MCも一切なしでした。でも途中で「このまま音楽やるのも楽しいけど、売れへんかもしれへん」って思って、「どうやったらレコード会社の人の目につくんやろ」って考えてたら、対バンしている中で面白いことをやってる人がいっぱいいることに気がついて、コミック的な要素を取り入れていくようになりました。活動し始めて半年経ったくらいですね。


橘:結構早かったんですね。


岡崎:そうなんです。ライブで真面目に作った曲をやりながら、ちょっとずつネタ曲を間に入れると、お客さんの感情の変化がわかるんですよ。お客さんも少ないし、箱もめちゃくちゃ小さいから笑い声も全部聞こえてくるし、ウケてるんだなっていうのをすごく感じることができて。で、ライブハウスのブッキングマネージャーの人とも相談して「そっちの路線で行った方が可能性あるかもね」っていうアドバイスをもらって。最初は奈良NEVERLANDっていうライブハウスでしか活動してなかったんですけど、その人の紹介もあって、大阪でもライブをやるようになって、ちょっとずつ活動の幅を広げていきました。


橘:メジャーデビューはいつ頃だったんですか?


岡崎: 2016年の5月です。ギリギリちょうど4年でできて。


橘:メジャーデビューのときに出した「MUSIC VIDEO」は、インディーズのときからあった曲?


岡崎:いや、なかったですね。ストックの曲を提出してアルバムでデビューすることになったんですけど、ちょっとパンチが足りないなと思って。「急ぎで一曲書くんで待ってください」って言って、決まっていたリリース日よりもずらしてもらったんですよ。その間にできたのが「MUSIC VIDEO」です。


橘:「MUSIC VIDEO」のアイデアはもともとあったんですか?


岡崎:なかったです。追加で一曲作ることになってから「やばい、どうしようかな、どんなんがいいかな」ってYouTubeでいろんなミュージシャンの曲を調べながら「あぁこういうのが今ウケてんのか」って最初は分析してたんですけど、見てたら「なんかみんな演出似てんな」って思って。で、似たようなMVを全部リストアップしていって「これを曲にしよう!」と。


橘:僕、「MUSIC VIDEO」のMVを見たとき衝撃的だったんですよ。面白すぎるし、すごいなって。どういう作り方をしたのか気になってたんですよ。


岡崎:曲先、詞先、とかではなく、まず最初にリストアップから始めました。白黒でとか、アナログテレビで砂嵐流しとくとか、いろんなMVの演出や技法をリストアップして。でもリストアップしただけだと歌詞にはならないから、なんとなく歌になるように助詞とか助動詞とかを調整してつなげていきました。あ、でも先に曲か。リストアップして、曲を作って、曲に合うようにリストを調整して作詞したっていう作業ですね。


橘:曲の展開も多いじゃないですか。それは最初からあの展開? 展開ありきで、その次にメロディラインを考えていった?


岡崎:この曲でMVを撮ることも決めてたんですけど、当時ヒャダインさんがドキュメンタリー番組で「今の若い子は移り気だから、展開をどんどん変えていかないと、すぐスキップとか戻るボタンを押してブラウザバックする」っておっしゃってて、たしかにそれも一理あるなと思いました。で、コロコロ展開を変えた方が最後まで見てもらえるかもしれないっていう考えに至って、曲の展開も多くしました。


橘:じゃあ曲ができたときには、MVを撮るイメージもかたまってたんですね。


岡崎:そうですね。今ヤバイTシャツ屋さんっていうバンドをやってるこやまくんが、僕がインディーズの頃から<寿司くん>という名前でMVを撮ってくれてたんですけど、彼も当時学生で、映像制作の会社もなかったから、こやまくんと僕と今の僕のマネージャーの3人であの映像は撮りました。僕がずっとレンタカーで車を出して、関西のいろんなところで撮って、4日半もかかったんですよ。スタッフが少ないっていうのと、カット数がむっちゃ多いっていうので。


橘:自分たちだけで考えてやったんですか? すごい……!


岡崎:そうですね。一切大人が絡んでないと言いますか。学生のノリで作った感じでしたね。


橘:そんなクオリティには見えないですね。


岡崎:いや、よく見ると粗があったりするんですよ。でもその手作り感もいいのかなと。当時はYouTuberが台頭しはじめていて、若い子たちがテレビみたいな作りこまれた映像ではなく、素人が頑張って作った映像でも抵抗のない時代に差し代わっていた時期でもあって。あれぐらいチープな映像でもみんなが受け入れてくれたのは、そういう時代の流れも影響しているとは思いますね。


橘:岡ちゃんは常に曲に新しい要素を入れてくるじゃないですか。口パクでライブする「Explain」で突然無音になったときも、大爆笑したんですけど(笑)。ライブの演出やMVをイメージして普段から曲を作ってるんですか?


岡崎:そうですね。僕が作るコミックソングって曲の歌詞がすでに脚本になってることが多いので。「MUSIC VIDEO」に関しても、なになにしがちって言ってるのをこやまくんが映像化してくれた感じですし。


橘:ちょっと変な言い方かもしれないですけど、個人的に好きな音楽性とは違うこともあるんですか?


岡崎:うーん、そうですね。「MUSIC VIDEO」は好んで聴いてた音楽とは違う方向性かもしれないですね。


橘:ちなみに、今自分の好きな音楽はジャンルでいうと?


岡崎:今かぁ……。今でいうと、イージーリスニングですかね。 GONTITIとか手嶌葵さんとかばっかり聴いてます。


橘:なにかあったんですか?(笑)。


岡崎:最近ちょっと音がしんどくなってきて。そういう時期があるんですよ。ドラムの音がしんどいみたいな。


橘:そんなタイミングに僕との曲(KEITA名義でコラボレーションした「Tokyo Night Fighter feat. 岡崎体育」)はゴリゴリになっちゃいましたね……(笑)。


岡崎:いや、移動中に聴いてる音楽はイージーリスニング系が多いんですけど、家では普通にゴリゴリのハードロックも聴くし、今流行りのヒップホップも聴きますよ。


橘:サウンドはいろんなジャンルを作ってみたいタイプ? SNSでもたまに曲をあげてるじゃないですか。そのときに流行ってるヒップホップ系のサウンドだったり、てっくん(岡崎体育が生み出したキャラクター)のソウルファンクっぽい「フェイクファー」だったり、いろんなサウンドに挑戦してるなと思っていつも見てるのですが。


岡崎:そうですね。今どんな音楽が流行ってるのかは常にチェックしてますね。DTMがあればいろんな音でいろんなジャンルの曲が作れる。アレンジャーさんに頼めばそのアレンジャーさんの得意な音楽ジャンルでアレンジしてもらえる。いろんなジャンルができるっていうのは一人で活動してるところのメリットですよね。


■岡崎体育として音楽活動をする上での一番のテーマとは


橘:あと、僕がもう一つ気になってたのは「FRIENDS」って曲で。あの曲はどうやって生まれたんですか?


岡崎:インディーズで活動してたとき、ロックバンドと混ざってブッキングライブをすることが多かったんですけど、そこでソロでやっていることをいじられる面白さを知ったというか。普通、批判されたり皮肉を言われると「なんやねん!」ってなるんですけど、それをコミックソングとして消化して「バンドざまあみろ、俺は収入100%自分のもんや」って言うことによって、バンドマンの中にも笑ってくれる人がいるんですよ。そうやって友だちになった人もいて。マジで言ってるって思う人もごく一部いますけど、ネタだってわかって楽しんでくれる人がたくさんいるっていうのがわかったんです。で、メジャーデビューしてからも大きいフェスでやったり、対バンの時は歌詞の途中をそのバンド名に変えたりして。


橘:イベントで一緒になった時、歌詞の途中をw-inds.にして歌ってくれましたもんね。w-inds.を観に来てくれた人もみんな笑ってた。


岡崎:w-inds.ファンの人が多いところでw-inds.のことをいじると怒られるんじゃないかってみんな思いがちなんですけど、やっぱり喜んでくれるんですよね。対バンしてお互いが気持ちよくやっているっていうのをお客さんもわかってくれてるから、単純に円満なライブよりちょっと棘があった方が、もしかしたら面白いと思ってくれるんじゃないかって。一種のプロレスみたいなものですけど。マイナーチェンジをその日のために施すっていうところに対して、お客さんも一緒にステージに立つ人たちも気持ちよく思ってくれることが多かったんです。だから単純にお金のことを言ってる曲のように聞こえますけど、あの曲で仲良くなった人はたくさんいますね。


橘:じゃあ曲のタイトル通りなんですね。「FRIENDS」でフレンズになっていくっていう(笑)。


岡崎:皮肉にも(笑)。


橘:で、メジャーデビューを約束の4年で成し遂げて、さいたまスーパーアリーナで30歳までに単独ライブをやるっていうのもずっと言ってたんですよね。


岡崎:2012年からずっと言ってました。


橘:それも間に合いましたよね。


岡崎:あれはもう本当にギリギリでしたね。僕、誕生日が7月なんですけど、29歳の6月9日にやったんで、本当にギリギリ達成。


橘:僕も観に行って、チケットも即効完売してましたね。


岡崎:本当にありがたかったですね。やっぱりなかなかできない経験なので。みんなが僕の音楽を受け入れてくれたおかげで、あんなに大きいところでできました。


橘:さいたまスーパーアリーナで僕が何に一番感動したかっていうと、だいたい大きいところでやったらみんなスタイルを変えてくるんですよ。たとえばバンドを従えるとか、いろいろ背負ったりとか。だけど岡ちゃんは何一つ変えなかったんですよね。いままでやってきたスタイルを、さいたまスーパーアリーナの規模でやるっていうことに徹していたじゃないですか。


岡崎:そうですね。逆に言うと、そこだけが唯一のこだわりだったんですよ。


橘:僕はそれが気持ちよくて。かっこいいな、すごいなと思って。「いろいろ用意してんだろうな」と思って観に行ったらしっかり貫いてた。それに感動して、多分終わった後にそれを一番先に伝えたと思うんですけど、あれはマジでかっこよかったですね。貫いたかっこよさ。


岡崎:岡崎体育で音楽活動をする一番のテーマが、地方発信なんです。近所のライブハウスでもできる、自分一人とパソコン一台のスタイルで、本当にさいたまスーパーアリーナを満員にしてライブができるのかっていうテーマがあったんですよね。今は上京してますけど、さいたまスーパーアリーナをやった当時は京都の実家で、東京に来る仕事のときはホテル暮らしだったし。今から音楽を始めるような中高生で、東京に住んでない地方の子たちに向けて、DTMがあれば自分の部屋で曲が作れるし、自分の家の近所のライブハウスから始めて、どんどん大きいステージでやっていくこともできるっていう一つのモデルケースになりたかった。だから岡崎体育のさいたまスーパーアリーナまでの活動の流れを、今の中高生たちがもし知ってくれるのならば、地方の子たちには「できるんだぞ」っていうのを伝えたいなと思っていましたね。


橘:いろんな人が夢をみれたステージだと思いますよ。


岡崎:そうなれればいいなって思ってます。


(後編に続く)