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『INGRESS』から『BNA ビーエヌエー』まで フジテレビのアニメ枠「+Ultra」の戦略と思想

2020年04月15日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『BNA ビー・エヌ・エー』(c)2020 TRIGGER・中島かずき/『BNA ビー・エヌ・エー』製作委員会

 2020年春クールのアニメの放送が始まっている。その多彩なラインナップの中でも、吉成曜監督/中島かずき脚本の『BNA ビーエヌエー』は、TRIGGER制作陣の持ち味が存分に発揮され、一際異彩を放っている。個性的なキャラクター、小気味のよいテンポ、スタイリッシュな美術と、その注目ポイントは数多くあるが、中でも「+Ultra」での放送という事実は、単なる放送枠の問題であることを超え、本作の魅力に本質的に関わっているように思える。


参考:『BNA ビー・エヌ・エー』は世界を見据えた意欲作に 注目を集め続けるTRIGGERの戦略


 本記事では、これまで「+Ultra」枠で放送されてきた作品からその戦略と思想を読み取りつつ、『BNA』という作品の魅力、ひいては日本アニメの魅力を考察していこうと思う。


■“日本”というローカリティの問題
 2018年から放送を開始したフジテレビの「+Ultra」は、海外市場を視野に入れた放送枠であり、概ね国内向けにターゲティングしている同社の「ノイタミナ」とは意識的に差別化を図っている。そのラインナップを具に通覧していくと、「+Ultra」の思想と戦略が克明に浮かび上がってくる。


 その1つが、“日本”というローカリティ(局所性)の処理である。櫻木優平監督の『INGRESS THE ANIMATION』(2018年秋)は、ボーイミーツガールと世界救済という、いわゆるセカイ系的な設定を基調としながら、主人公たちの年齢設定を上げ、登場人物を多国籍にし、日本から世界各地に移動する展開にするなど、海外の嗜好に馴染みやすいカスタマイズがなされている。


 世界的に有名な谷口悟朗を監督に起用した『revisions リヴィジョンズ』(2019年冬)は、日本の渋谷を丸ごと未来へ漂流させるという大掛かりな舞台転換を行うことにより、日本という土地の現実性に束縛されない“非常事態の渋谷”という記号を抽出し、高校生がヒーローとなり世界を救うという典型的に日本的な設定に普遍的な説得力を持たせている。


 この2作品に共通するのは、“日本”というローカリティに束縛されない作品によって海外に訴求する、という戦略だ。「+Ultra」のプロデューサー森彬俊は、「+Ultra」と「ノイタミナ」の違いに言及しながらこう述べている。


「たとえば『ノイタミナ』で放送された人気作『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などは、とても日本的な作品ですよね。もしかすると、海外の視聴者には『日本の一地方の物語でしょ』と最初から選択肢に入れてもらえない可能性もあります。だから『+Ultra』ではファーストインプレッションをフラットにできるよう、世界中の人々が自分のこととして捉えられるような物語を作っていきたいと思っています」( 新アニメ枠「+Ultra」スタート!「ノイタミナ」との違いはどこにある?「+Ultra」プロデューサーの狙いとは | フジテレビMuscat)


 この点をラディカルに追求したのが、渡辺信一郎監督の『キャロル&チューズデイ』(2019年春・夏)だ。2人の少女がプロミュージシャンとして成功するさまを描いた本作は、火星に舞台を設定し、作中歌の歌唱を英語ネイティブが担当するなど、作品全体を文字通り“リンガフランカ”に仕立て上げている。音楽への造詣が深く、海外に多くのファンを持つ渡辺監督の真骨頂が発揮された作品と言えよう。


■“雑多性”というアイデンティティ
 ともすると、こうした作品ラインナップの傾向は、作品から日本的な要素を脱色し、不当な“グローバル化”を図っているのではないかという誤解を招きやすい。しかし「+Ultra」の戦略がそのような減算的な発想にあるのではないことは明らかだ。


 板垣巴留原作/松見真一監督の『BEASTARS』(2019年秋)は、擬人化された肉食獣と草食獣の対立・共存・友愛をテーマとしている。架空の街を舞台としながらも、日本の繁華街を思わせる街並みが描かれたり、通貨として日本円が登場したりと、そこかしこに日本的な要素を忍ばせる遊び心が窺える。


 桑原太矩原作/吉平”Tady”直弘監督『空挺ドラゴンズ』(2020年冬)は、「龍」を狩りながら生計を立てる空挺乗りたちの物語だ。ローカリティを感じさせない冒険ファンタジーの装いだが、捕獲した龍を料理して食べる“グルメ要素”やのんびりとした“日常系要素”は、間違いなく日本のマンガ・アニメの中で培われた表現ジャンルだ。


 日本のマンガを原作とし、日本的な要素を多分に含んだ作品を敢えてラインナップに取り入れ、海外の視聴者の評価を問うというこの「+Ultra」の戦略に、日本的なものを間引くという発想は見られない。


 実は「+Ultra」の理念は、番組放送前に流れる数秒間のムービングロゴ(制作は大友克洋)に暗示されている。そこでは眼鏡をかけた怪しげな男、昔の映画のカウントダウンのような図像、サボテンのような植物、線路、丸いキャラの顔が次々と映し出される。それぞれの絵に関連性はなく、1カットに1文字ずつ現れる「+Ultra」の文字列だけがアイデンティティらしきものを保証しているようだ。


 このムービングロゴについて、森はあるインタビューの中で次のように述べている。


「ムービングロゴとは枠の扉であって、『+Ultra』枠からは、何が出てくるか分からない多種多様なものがあるよ、日本の文化とかに縛られないものが出てくるよ、ということを表現していただきました」(アニメ枠としてノイタミナに続く『+Ultra』を始めるフジテレビの森彬俊プロデューサーにインタビュー | Gigazine)


 ややもすると、“異世界系”のような特定のジャンル作品が自己複製的に産み出される日本のアニメシーンにあって、敢えて新しい要素を加算していき、雑多な要素が混在した状況を作り出す。「+Ultra」という枠のアイデンティティとは、まさしくこの“雑多性”にあるのではないだろうか。


 そもそも日本のアニメが面白いのは、それが日本的だからではなく、日本的なものをその一部として含みこんだ“雑多性”を発展させてきた点にある。キッズアニメもあればオトナアニメもある。エロもグロも萌えも量産する。それこそが日本アニメの特徴であると言っても過言ではない。


 もっと言えば、アニメーションそのものがこの“雑多性”によって構成されている技術に他ならない。1つのアニメ作品には複数の制作者が関わっている。監督のディレクションによって統一されながらも、それぞれの制作主体がそれぞれのセンスを発揮しながら制作に携わる。複数の技術が結合し,複数のメディアが混在する。石岡良治と高瀬浩司は『アニメ制作者たちの方法』の中で、そうしたメディアミックス的な状況を「不純さ」と呼んでいる(高瀬康司編『アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現入門』、フィルムアート社、2019年、pp.220)が、まさしくそうした“不純さ”や“雑多性”が、アニメという媒体の本質を成しているのだと言える。


 このような“不純さ”と“雑多性”がホットスポットのように密集しているのが、日本のアニメのリアルな状況なのであり、だからこそ日本のアニメは面白いのだ。故にこれからの日本アニメに期待すべきなのは、常に加算的に表現の“雑多性”を増大させて続けていくことである。その名に「+」の記号を冠した「+Ultra」は、その登場自体が既存の放送枠に対する加算的なプレゼンスを持っているのであり、自ら“雑多性”増大の牽引役を担っていくことを期待したい。


■そして『BNA』へ
 『BNA』の第1話放送をご覧になった方はおわかりと思うが、その独特のスピード感や大胆な構図など、紛れもない“TRIGGER汁”全開の痛快ファンタジーだ。“異種族間の対立”というテーマは、海外で極めて高い評価を得た『プロメア』(2019年)のそれを継承しており、吉成×中島×TRIGGERが「+Ultra」の海外訴求戦略に共鳴していることが窺える。


 しかしこの作品がとりわけ興味深いのは、先述したような“雑多性”が作品内部で主題化されているように思える点だ。第1話の「祭り」のシーンが象徴的に表していたように、「アニマシティ」には個性の異なる様々な「獣人」が共存し、その生活圏そのものが文字通り祝祭的な様相を呈している。“人/獣人”という共存・対立構図の中に、さらに“雑多な獣人どうしの共存”という状況が織り込まれているわけだ(その意味では『BEASTARS』ともテーマを共有している)。


 “雑多性”は「アニマシティ」の街並みにも表れている。監督の吉成は「よく見るとごちゃごちゃした汚いところがあるけれど、あくまでも見え方としては女の子が憧れそうな都市」(『「BNA ビー・エヌ・エー」公式スターターガイドブック』、TOHO animation、2020年、p.26)を目指したそうだが、確かに未来都市のような街並みの裏に寂れた裏路地や貧民窟が見られるなど、統一感というよりは乱雑さを強調した外観になっている。


 この都市のビジュアルを手掛けたのは、本作のコンセプトアートを担当したGenice Chanだ。とりわけその独特な色彩感覚は本作のビジュアルの方向性を決定づけており、脚本の中島は「日本人にはちょっと思いつかないようなロジックの、独特な色遣いになっていて、それがすごくいいんですね」と高く評価している(同上、p.30)。このように海外スタッフのセンスを取り入れたことも、本作の“雑多性”を増すことに一役買っている。


 さらに、オオカミ=大神、タヌキ=メタモルフォーゼという日本の民間伝承的なコードがさりげなく挿入されている点も面白い。『もののけ姫』(1997年)や『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)などに触れ、それらが持つコンテクストに知悉した世界のOTAKUたちが、これらの“雑多”な要素にどう反応してくるか。実に楽しみだ。


■原嶋修司
アニメを愛し、アニメについて語ることを愛するアニメブロガー。予備校講師。作品評や関連書籍のレビューを中心とするブログ『アニ録ブログ』を運営。