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『野ブタ。をプロデュース』なぜ今も愛される? 青春の“裏”を描く脚本術

2020年04月12日 12:41  リアルサウンド

リアルサウンド

『野ブタ。をプロデュース』特別編(c)日本テレビ

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて各テレビ局が撮影休止に踏み切ったことで、本来であれば4月11日からスタートする予定だった『未満警察 ミッドナイトランナー』(日本テレビ系)の放送が延期に。その代替として放送されたのは、2005年に同じ土曜ドラマ枠(当時は21時スタートだったが)で放送された『野ブタ。をプロデュース』の第1話の再編集版。亀梨和也と山下智久が本作で演じた役名の“修二と彰”でリリースした主題歌「青春アミーゴ」は15年経った今でも歌い継がれているが、その大本となったドラマはなかなか観直す機会がなかっただけに、一気に15年前にタイムスリップした感覚になってしまうのも無理はないだろう。


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 この『野ブタ。をプロデュース』という作品は、文藝賞を受賞した白岩玄の同名小説を原作にしているが、「学校の人気者として安泰な学園生活を送っていた主人公が(ドラマ版ではクラスで鬱陶しがられている同級生と一緒に)いじめられっ子を“プロデュース”して人気者に仕立て上げていく」という大筋を残し、全体的にかなり大胆な脚色が施されている。原作では男性キャラクターであった“野ブタ”が女子に変更されていたり、山下演じる彰をはじめとした登場人物の多くがドラマオリジナルのキャラクターになっていたり、ラストも大幅に変更されていたはずだ。


 改めて考えてみれば、原作が発表されたのが2004年の下半期で、そこからわずか1年ほどでドラマ化。しかもそれが、まったくの新人作家の作品であったのだから、いかにこの物語で扱われている題材がキャッチーなものであったかがわかるはずだ。そのキャッチーな題材とは、当時は今ほど浸透していなかった“スクールカースト”に他ならない。何気なく過ごす学校生活の中に密かに存在していた上っ面だけの階級関係が、こうしてテレビドラマという形で可視化されることによって、主人公たちと同世代の学生たちは自分たちもこの物語の当事者であるかのような感覚を味わうことになったのである。


 さらに第1話の序盤での修二のモノローグで語られていたような“マジになったほうが負け”という達観視したティーンエイジャー像であったり、ドラマ後半では“スクールカースト”の脆弱さや空虚ささえも暴かれていく様子。そうした青春の難しい側面がダイレクトに刺さるセリフの数々とともに描かれていくだけでなく、亀梨と山下のかけ合いによって生まれるポップさや、『シーズ・オール・ザット』などのアメリカの青春映画を思わせる王道シンデレラストーリーの要素と並行して描かれていくのだから、当時リアルタイムで高校生をやっていた筆者はかなりの衝撃を受けたと記憶している(今こうして改めて観ても、木皿泉の脚本の巧さにただただ驚嘆するばかりだ)。


 今回放送された第1話の劇中には、ひとつのシンボルとして河川敷に一本だけ佇む柳の木が登場する。修二は毎朝学校に行く前にそれに触れることを習慣としていたが、いつの間にか掘り返され、その場所で信子(堀北真希)と出会う。そして、それが別の場所に運ばれていくのを見送りながら「生きてみなきゃ何が起こるかわからない」と語る修二に、信子は「誰にも引っこ抜かれない大きな木になれるかな」と呟く。柳の木の花言葉は“自由”だそうだ。“自由”が遠ざかっていく中でも、自分たちで新たな“自由”を見つけ、いかにして変わっていくことができるのか。このドラマで描かれたテーマは、間違いなく現代にも通じていることだろう。いまの高校生には、このドラマがどのように見えているのだろうか。 (文=久保田和馬)