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ドミコ、PEARL CENTER、Shohei Takagi Parallela Botanica、John Natsuki……フェティッシュな声の魅力を持つアーティスト

2020年04月09日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

ドミコ『VOO DOO?』

 そもそもは物神、呪物などの意味を持つ“フェティッシュ”という言葉とその概念。現代では対・人でもモノでも軽い偏愛といったニュアンスに使われることが多い感覚だ。これをボーカリストの声の魅力の一要素に引き寄せて考えてみようと思う。“偏愛”自体、個人の好みであるから、一概に「フェティッシュな声が何か」は明言できない。という断りを入れた上で、一つの事実として今の日本でヒットする楽曲の“声”の要素を取り出してみると、ピッチが正確、複雑であっても記譜できるようなメロディ、声量の豊かさ、音域の広さなどがあると思う。その「上手い」という要素以外に、自分でも知らなかった感覚を開いてくれる刺激的な経験を与えてくれる声に私たちは「フェティッシュ」を感じるのではないだろうか。


(関連:ドミコ さかしたひかるが語る、ライフワークの中での音楽表現「興奮できるものって偶発的」


 そこで直近のリリースから、フェティッシュな声の魅力を持つアーティストを具体的に挙げていこうと思う。もちろん、楽曲構造やサウンドや歌詞の内容と声の魅力は分かち難い。それも踏まえて聴いてみよう。


 まずは4月15日にミニアルバム『VOO DOO?』をリリースするドミコのさかしたひかるの声。筆者が初めてドミコの音楽に触れたのは2014年の「深層快感ですか?」の頃のライブ。少し粘着質でありつつ、両性具有っぽいさかしたの声質はグラムテイストのガレージロックと相まって、耳に張り付いて離れなくなった。印象としてはT-REXのマーク・ボランとも通ずるところがあり、日本のロックバンドでは滅多に聴いたことのない声とボーカルだったのだ。その後、投げやりでダルい発声に自然なファルセットやラップに近い歌唱も加わり、昨年のスマッシュヒット「ペーパーロールスター」では、サビの〈ララララララ〉の後の逃し方に天性のセンスを感じるまでに。『VOO DOO?』から先行配信されている「化けよ」では独特のエフェクトを施したサイケデリックなループギターに溶け込むように、日本語の意味が剥がれ落ちた音としての声が混沌としたムードを増幅する。もう1曲の先行配信曲「びりびりしびれる」はガレージロック寄りのドミコ節。メロディらしいメロディがない上に少しフラットする投げやりなボーカルは、スピーディな楽曲を綱渡りしていくようなスリルが味わえる。


 元PAELLASのボーカルで新バンドPEARL CENTERの活動も本格化したMATTON。PAELLASの初期、シューゲイザーなどインディーロック感のあるサウンドの頃から、繊細でセンシュアルな声で、切なさや儚さを体現してきた彼は、ロックよりR&Bシンガーの表現に近いところで持ち味を発揮してきた。ストイックな緊張感のあるサウンドの中でリスナーの心を震わせてきたのがPAELLASでの表現だとすると、PEARL CENTERの楽曲はもう少しポップに開かれたアレンジも散見され、MATTONの声の表現も、のびやかなメロディに素直に乗っているように聴こえる。3月に配信スタートした新曲「Humor」では声自体に含まれるセンシュアスさが前に進むメロディと相まって、穏やかな温かみを生んでいる。サウンドのベクトルが近いこともあるかもしれないがBlood Orange(デヴ・ハインズ)のはにかみを含んだ声、時代を遡るとカーティス・メイフィールドの優しく祈るような声を想起させる部分もある。過剰なセクシーさではなく、知性を含んだ色気が声という具体になった印象だ。4月8日リリースのニューEP『Humor』にも期待したい。


 ceroの髙城晶平が、ソロプロジェクト“Shohei Takagi Parallela Botanica”で聴かせる声は、バンドと違う可能性を実現していて興味深い。IDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)およびテクノを思わせる新曲「Fdf」は楽曲のパワーに沿った伸びやかさを聴かせたが、4月8日リリースのソロアルバム『Triptych』では一貫したストーリーテリングに重きを置いているためか、非常にパーソナルで淡々とした話し声に近いトーンや、時としてフラジャイルなほど静かな発声を聴くことができる。彼の持ち味として、声の端正さと共に潜在的なあどけなさのようなものがあるが、その無垢性が遊び疲れたパーティーの後の倦怠感と逃避への欲求をビビッドに届けているように感じた。これは先行配信された「ミッドナイト・ランデヴー」の印象。他の楽曲では感情より感覚、一瞬の出来事を白日夢のように楽器とともに声で落とし込んだものも。髙城の声はその独自の歌詞世界と分かち難く結びついて力を発揮するのだと再認識した。


 Tempalayのドラマー・藤本夏樹のソロプロジェクト“John Natsuki”が3月にリリースしたアルバム『脱皮』。これまでもデジタルシングルをリリースしていた彼だが、アルバムスケールで変幻自在の表現を体感すると、最初に想起したのはデヴィッド・ボウイだった。地声より低いであろうバリトンボイスから、叫びに近い高音へ突き抜けるダイナミズムのある「赤い目」。紳士的で少し冷ややかな声と子供が感情に任せて怒りをぶつけるような、手懐けられないラフさが交互に現れる展開には良い意味でゾッとさせられる。ダークな世界観を持った楽曲の中で多重人格を持つ主体に命を吹き込んでいるのが、コロコロと質感を変える声なのだと思う。おそらく彼は直感的に歌っているのだろうが、それがビビッドで美しい。


 人間の声が持つ情報量は音楽の中でも突出して大きなものだ。今回、取り上げた声は(もちろん楽曲の中でのバランスもあるが)一度感覚に引っかかると忘れ難い中毒性を持つ性質のものだと思う。声をヒントにまだ開かれていない感覚を目覚めさせる、そんな体験ができる彼らの音楽をお勧めしたい。(石角友香)