2020年03月22日 10:41 弁護士ドットコム
「まったく耳の聞こえない先天性の聴覚障害者が原告になって提訴した労働事件というのは初めてではないでしょうか」
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日本労働弁護団の幹事長を務めたこともある棗一郎弁護士をしても、その事件はまったくの手探りだった。
原告はオリックスに30年近く勤める聾唖(ろうあ)者の和田明子さん(48)。2017年3月、職場での嫌がらせなどを訴え、東京地裁に提訴した。
「これまで泣き寝入りをしたり、やめていったりした多くの聴覚障害者を知っている。絶対にやらないといけないと思って、勇気を出して提訴しました」(和田さん)
今年2月、無事和解が成立。3月に記者発表した。会見の中では、先天性の聴覚障害者が裁判をするうえでの課題も語られた。歴史的にまれなプロジェクトを振り返りたい。
棗弁護士は語る。
「筆談なら大丈夫と思うかもしれませんが、日本語ができるからといって、文章でコミュニケーションできるかというと容易ではない。日本語と手話はまったく違う言語という前提がないとうまくいかないと思いました」
そんな和田さんをサポートしたのが、自身も生まれつき耳が聞こえない田門浩弁護士だ。聴覚障害のある弁護士は、日本でもまだ少ない。
「耳が聞こえない人の中には、新聞の内容もなかなか把握できない人もいる。裁判は文書で戦いますが、きちんと内容を把握できないことが多い。それを私たちが手話で説明し、理解してもらうこともあります」
手話には「てにをは」(助詞)がなく、指の向きなどで主語や目的語を表現する。また同じ意味でも、手を動かすスピードやちょっとした形の違いで微妙なニュアンスを伝えるという。語彙の違いもあり、先天性の聴覚障害者は、健聴者にとっての「外国語」で育ってきたと言えるのかもしれない。
実際、和田さんが裁判に際して提出した陳述書には、次のような記述があった。
裁判でコミュニケーションの難しさが顕著に現れたのは、2019年10月7日にあった和田さんの本人尋問だろう。
法廷の柵の内側には実に7人もの手話通訳者。うち3人は裁判所が手配しており、「令和」の元号発表を手話で伝えた江原こう平さんの名前もあった。
▼和田さんに手話を伝える、▼手話を日本語にする、▼待機、を順番に回す。尋問調書には、手話は載らず、日本語の訳だけが残されるというわけだ。
残る4人のうち2人は田門弁護士ら原告席の前に、ほかの2人は傍聴席を向いて座った。傍聴人の中には、補聴器をつけている人もいた。
尋問では、手話が見えるように証言台が外された。和田さんが「良心に従って真実を述べる」と手話で宣誓し、それを通訳者が日本語になおしてスタート。通訳込みのため、通常の1.5倍ほどの時間が設定されている。
和田さん側で質問(主尋問)を担当したのは、当時1年目だった松田崚弁護士。松田弁護士も耳が聴こえず、手話で和田さんに問いかけた。実はこれが初めての証人(本人)尋問だったという。
傍聴していて気になったのは、春名茂裁判長が、和田さんに対して「少し待ってもらえますか」と度々声をかけていたことだ(和田さんには通訳を通して、手話で伝えられる)。
裁判所は和田さんの手話ではなく、手話通訳の声によって、内容を把握している。しかし、和田さんには手話通訳の声は聞こえない。加えて、松田弁護士は手話で尋ねている。通訳がスピードについていけなくなることが懸念されたようだ。
とはいえ、準備もよくできていたのだろう、松田弁護士が「お互いに手話でスムーズにやりとりができた」と振り返るように、主尋問は概ね順調に進行した。
より課題が露呈したのは、オリックス側からの質問(反対尋問)が始まってからだ。
代理人からの質問に対し、和田さんが「意味がわからない」「質問の仕方を変えてもらえないか」と繰り返すシーンが何度もみられた。たとえば、こんな感じだ(鍵カッコ内は発言ママ)。
和田さんの「意味がわからない」という反応は、裁判官からの質問(補充尋問)でも見られた。和田さんをサポートしてきたオリックス・グループ労働組合の高野秀之さん(中央執行委員長)は手話が使える立場からこう説明する。
「法律用語をうまく表す手話がないようです。また、手話通訳士は記録のため、そのまま通訳しなければなりません。わかりやすくするため、勝手に『たとえば』などを入れてはいけない。
(本来の通訳であれば)同じ言葉でも、状況に応じて表現を変えなくてはいけないのに、言葉通りの通訳しかできないので、和田さんが混乱してしまったようです」
意図がなかなか伝わらない中、原告側の席から質問の仕方について発言した弁護士がいる。松崎基憲弁護士だ。
「質問を短くしていただくといいんじゃないですか」、「(会社側が想定しているシーンと和田さんが受け止めたシーンが違うので)できれば写真で示していただければ」といった具合だ。
松崎弁護士も手話を使えるが、耳が聞こえないわけではない。実は和田さんから教わったのだという。
「裁判になるまで手話は知りませんでした。打ち合わせに田門先生がいらっしゃらないこともあるので、自分が覚えた方が早いということになったんです」
まずは、ひらがなの指文字を覚えるところから始めたという。指文字で話せるようになったら、今度はその単語を手話でどう表現するかを和田さんが教えてくれた。
「とりあえず、50音を覚えれば、コミュニケーションはとれる。その意味では、英単語を覚えるより簡単と言えるかもしれません。『手話は難しい』という先入観がバリアになっていると感じます」
尋問中、松崎弁護士が通訳の間違いを指摘する場面もあった。
さて、松崎弁護士が指摘したように、会社側代理人が和田さんとうまくコミュニケーションがとれなかった理由は「質問の長さ」にあった。
和田さんサイドの弁護士4人の見解は共通しているが、ここでは代表して、記者会見での田門弁護士の発言を紹介したい。
「手話通訳がやりやすいように表現する。具体的には長く話さない。短く区切って話す。簡単な日本語を使う。そうすると手話通訳もやりやすい。会社側は一文が長かった。手話通訳がなかなかうまくいかず、原告としても内容を掴みにくかったのではないかと思います」
刑事事件を含めても、法廷で聴覚障害者に質問する経験はそうそうないだろう。だが、「平易な言葉で短く区切って」というのは、対聴覚障害者に限らず、あらゆるコミュニケーションでもっと意識されるべきなのかもしれない。
また、今回は和解のため、具体的な職場トラブルについて裁判所の判断は示されていないが、コミュニケーション上の特性を理解していないと、仮に悪意はなかったとしても聴覚障害者に不信感を与えたり、誤解されたりすることもありそうだ。
和田さんは現在まで約4年半、会社から在宅勤務を命じられている。裁判ではこの命令の不当性も争っていた。和解が成立したことで、近く現場に復帰するとみられる。
記事の締めとして、和田さんが主尋問の終わりで語った言葉を紹介したい。障害者であることで、「妥協する生活の経験もあるのでは」と問われた和田さんはこう答えていた。
「もちろん。まず教わったのは、すべて聞こえる人の社会に従えということを教わりました。またどんなことがあってもすべて謝れというふうに教わって育ちました。ですけれども、今は我慢の限界です。ですので、社会を変えていきたい」