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JO1「無限大(INFINITY)」は、なぜ“J-POP”と一線を画す仕上がりに? クリティカルな声の扱いから紐解く

2020年03月17日 06:11  リアルサウンド

リアルサウンド

JO1『PROTOSTAR』(通常盤)

 オーディション番組『PRODUCE 101 JAPAN』(GYAO!、TBS系)から生まれた11人組のアイドルグループ・JO1。韓国の人気番組を日本ローカライズした試みとして、『PRODUCE 101 JAPAN』放映時からさまざまに話題を呼んできた。満を持してリリースされたデビュー作『PROTOSTAR』は発売初日にして21万枚余り、初週は32万枚を超える売上(オリコンによる推定売上枚数を参照)を叩き出し、十分すぎるほどに快調なスタートを切った。


 楽曲を聴くと、いわゆるJ-POPとは一線を画す印象を受ける。「なにか違うな」と感じるのはどこだろう。「無限大(INFINITY)」を例に考えてみる。


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 楽曲構成の面から言えば、「無限大(INFINITY)」でフィーチャーされているような、EDMマナーのビルドアップ-ドロップ的な構成をふまえたサビ。近年日本のアイドルグループで取り入れているのももはや珍しくなくなってきているとはいえ、歌メロで印象づけるのではなく、細かいフレーズのリフレインで押し通す方法を実直に取り入れているあたりに頼もしさを覚える。最初のサビの後に挿入される、ビートがハーフになってトラップ調になるパートも、2010年代のK-POPにおける定番である。このように、2010年代にK-POPが磨き上げてきた定番の構成やギミックをきわめてストレートに取り入れている、というのが第一の特徴だ。


 サウンド面では、ボーカルを強調するよりもトラックとの調和を目指すミックスの方向性と、定位感が広く窮屈な印象を与えない仕上がりが指摘できる。J-POPはなにより歌を重視する音楽であり、それゆえK-POPであれアメリカであれヨーロッパであれ海外のポップミュージックと比較するとボーカルの処理に特徴がある。やたら大きいのだ。『PROTOSTAR』収録曲でもメンバーたちのボーカルはもっとも重要な要素ではあれ、トラックに対して過度に強調されてはいない。


 ただ、サウンドの新鮮味、あるいはちょっと誤解を招く言い方かもしれないが新奇さはあまりない。意表を突くサウンドやメロのない、ド直球さが特徴だろう。それゆえ、「手堅いな……」という感想がまっさきに出てくる。メンバー各々のパフォーマンス力を披露するには最適の選択ではある。


 構成とサウンドもさることながら、なんといっても「なんか違うな」と感じる最大のポイントはボーカルの方向性にあるだろう。息の多い色気のある発声が与える印象は、たとえばJojiの楽曲にフィーチャーされたGENERATIONS from EXILE TRIBEのボーカル2名の人が変わったかのようなボーカリゼーションを思い起こさせる。


 また、発音においても、母音の発音を意図的に崩して濁らせ、子音に重点を置く。日本語のイントネーションに逆らうような譜割りやフロウもためらうことなく頻繁に登場し、ときにはモーラ単位(かんたんに言えば、ひらがな一文字分の音)での欠落も起こす。


 たとえば、「無限大(INFINITY)」で言えば〈深い深い所まで〉という一行に注目すると、「深い深い“トコ”まで」と「ロ」音がほとんど発音されない。サビでの〈起き上がれ(上がれ)〉の「上がれ」という合いの手が、冒頭の「ア」音が削れて「ガレ」のように聴こえる。ラップパートでの〈俺のことが見える?〉が疑問形の尻上がりのイントネーションではなくフロウ上の整合性をとっているためにむしろ下がり、かつ「ミエル」の3音が「ミル」の2音に縮減されているうえに母音が不明瞭になっているため、「ミロ」のようにも聴き取れる。実際には「俺のことが」に「見ろ」という命令形が続くのは文法的に不整合で、歌詞の流れをきちんと追っていればこのように聴き間違うことは少ないだろうが、トラップビート上のおらついたフロウ故に命令形のように錯覚してしまう。


 J-POPにおいて歌詞が特に重視される傾向から考えれば、この「聞き取りづらさ」はちょっと異色である。


 もちろんこれまでも、いわば「英語“風”」に発音を崩して16ビートのスピード感に合わせる、といったことはよく行われてきた。日本語をロックに適応させるために編み出されたこの策については佐藤良明『ニッポンのうたはどう変わったか: 増補改訂 J-POP進化論』(平凡社ライブラリー、2019年)などでも詳しく検討されている。


 しかし「無限大(INFINITY)」で取り入れられているのは「英語で歌われるロック」を範とした16ビートに適応した日本語ではなく、トラップ以降のヒップホップを前提にした日本語である。また、そこには日本語ラップの蓄積も含まれていようが、いちはやくトラップ以降的なラップをポップミュージックのなかに取り入れてきたK-POPの蓄積が、たとえば楽曲の日本語ローカライズの慣習という迂回路を経ることによって、日本のポップミュージックに注入されている、と見ることができよう。もはや「英語のロックのように」を目指すのではないし、かといってK-POPの移植を目指すわけでもなく、複数の言語の影がところどころに浮かび上がっているように思う。


 J-POPのガラパゴス性はしばしばその形式であったりメロディの癖であったりに求められるが、もっともクリティカルなのは声の扱いではないか。その観点からすればJO1が聴かせる声は興味深い観点を(2010年代を総括するかのように)与えてくれる。ほかのアクトにどのようにこの傾向が波及するかに注目したい。(imdkm)