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流し見が許されない朝ドラ『スカーレット』 通底する“映画的な哲学”を読み解く

2020年02月23日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『スカーレット』写真提供=NHK

「ハチさん。川原ちゃんな、白髪見つけたんやて」


 文字に起こしてしまえばなんら特別なことのない台詞で、『スカーレット』(NHK総合)はどれだけ観る者の心を震わせれば気が済むのだろうか。第20週「もういちど家族に」の116回は、まるで映画だった。あるいは「人生」そのものであった。


参考:『スカーレット』第121話では、信作(林遣都)と百合子(福田麻由子)が両親に温泉旅行を譲る


 息子の武志(伊藤健太郎)が自立し、長年背負ってきた「家族」から解き放たれ、独りっきりになった喜美子(戸田恵梨香)。その喜美子が「ハチさん、ハチさん」と“みっともなく”泣き叫ぶのを目撃した小池アンリ(烏丸せつこ)は、彼女の「今」を八郎(松下洸平)に語る。その締めくくりの言葉に、八郎はたまらなく愛おしそうな表情を見せた。様々に去来する思いを秘めながら、アンリ、喜美子、八郎、信作(林遣都)、照子(大島優子)はダンスを踊る。


 終盤わずか5分間のシーンで、それぞれの人生の喜びと苦さ、過ぎた日々の思い出も悔恨もすべて抱えて生きていく人々の姿が、大きな波のように胸に迫ってくる。「奔放なおせっかいおばちゃん」と見せかけて、アンリが大切なところは胸にしまい、喜美子の近況だけをそっと語るに留めたところが、八郎と、そして視聴者の心を鷲掴みにした。「核心の部分は言葉にしない」。それはこのドラマの哲学でもあるのだろう。


  『スカーレット』は、言葉以外の“言語”がじつに豊潤なドラマだ。台詞やナレーションに頼りすぎず、表情や間、しぐさ、総合的な空気感で“語る”シーンがとても多い。物言わぬ物(アイテム)さえも雄弁に何かを語る。草間(佐藤隆太)がかつての妻の幸せを祈り離婚届を置いてきた夜に、喜美子と投げあい空を舞った飴玉が、今も視聴者の脳裏を離れない。喜美子が荒木荘を去ったあと、ちや子(水野美紀)が慣れない手つきで作って独り涙しながら食べたお茶漬けの塩っぱさが、画面越しに伝わってきた。風来坊のようなアンリが置いていったストールをチラチラ眺めやる喜美子の心に、「友情」という感覚が芽生え始めたのが嬉しかった。


 示唆的な画を作り出すカメラワークも印象に残る。このドラマでは話者の顔ではなく、聞いている者の表情にカメラがフォーカスすることが多い。おかげで視聴者はその場面の中に入り込んで、登場人物たちといっしょに「うん、うん」と話を聞いているような感覚を味わうことができる。そして彼らの心情に深く共感してしまう。


 そもそも、このドラマは台詞そのものがすべてを言い切らない。普通に生活している人間が発するものとして自然でシンプルな言葉を使いながらも、ひとつの言葉に何重もの意味が込められていることが多い。言葉尻だけではない「含み」を持たせて重層的に見せることで、より視聴者の感情や想像力を刺激する作りになっている……なんて書いてみたところで、こんな拙い解説がまったくの野暮に感じられるぐらいに、この作品は人々の心の機微を自然に、そして繊細に描いている。台詞を台詞として感じさせず、生きている人間が発する言葉として視聴者に届ける。それがどれだけ至難の業か。


 人物が言葉を発していないあいだの「間」や表情も見逃せない。たとえば、離れて暮らしてから5年ぶりに父親と再会したときのことを、武志は「2人でたぬき蕎麦や」「昔となんも変わらん」「よう話したで」と楽しげな口調で話していた。しかしそれから数年後、八郎の口から語られた「2人でたぬき蕎麦」は違っていた。


 実際は長い長い沈黙があったこと、胸がいっぱいで蕎麦が喉を通らない八郎が食べ終わるまで、武志がじっと待っていてくれたことが明かされた。そこで武志と八郎の互いを思う気持ち、そして武志の喜美子への思いやりに気づかされるのだが、凡百のドラマならここで「武志、そんなこと一言も……」とかなんとか喜美子に言わせたかもしれない。しかしこのドラマはそれをしない。喜美子はただ黙って八郎の話を聞いている。聞きながら、心が泣いている。「武志、そんなこと一言も……」は、視聴者の心中に浮かびあがる。武志と八郎、そして喜美子の思いが、大きな音を立てて観る者の胸に響く。


  『スカーレット』は見えないもの、容易には言語化できないものを、げにも豊かに表現するドラマだ。原来、人の思いや気持ちなど完全に理解できるものではないし、本人でさえ明文化できないことが多いではないか。この作品はそういった「言葉で断じることのできない何か」をとりわけ大切に扱っている。それだけに、流し見では情報が拾いきれない。ぱっと見の華やかさや分かりやすさを重視し、効率化が叫ばれるこの時代に、ブレることなく丁寧な映像表現を続ける制作陣の覚悟は並々ならぬものだろう。脚本・演出の出色さもさることながら、演者が血脈、来し方から、ふとした仕草に至るまで人物を深く深く理解し、なりきって「生きている」姿を毎朝目にできるのは、なんと幸せなことだろうか。


 劇中、喜美子が命をかけて作りあげた自然釉の焼き物が映し出されるたび、このドラマそのものに似ていると感じる。自然にまかせて焼き、自然にできた力強い造形。それがそこにただ「在る」だけで、果てしない物語をこちらに語りかけてくる。小手先の装飾でごまかさず、あるがままの姿で「在らせる」--それがいかに技術と入魂を要する表現であることか。『スカーレット』がもつ品性は、作り手が「芸術と人生の物語」を描くにあたり、こうした本質に立ち返った結果ではないかと思えてくるのだ。


■佐野華英
ライター/編集者/タンブリング・ダイス代表。エンタメ全般。『ぼくらが愛した「カーネーション」』(高文研)、『連続テレビ小説読本』(洋泉社)など、朝ドラ関連の本も多く手がける。