2020年02月09日 08:42 弁護士ドットコム
表現の自由や美術のあり方、また電凸やテロ予告など、さまざまな問題を引き起こした国際芸術展「あいちトリエンナーレ2019」。 愛知県の検討委員会が昨年12月にまとめた最終報告では、芸術監督の津田大介さんに多くの責任が問われる形となった。
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これに対し、津田さんは「事実と異なる」と反論。あいトリ閉幕後も公式の場で積極的に事実関係の説明に奔走してきた。
渦中で批判を浴び続けた津田さんは「過去最大の炎上」としながらも、「結果的に過去最大の問題提起になった」と語る。あいトリを振り返るとともに、今後の展開も聞いた。(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)
——昨年9月の中間報告は、「芸術監督(津田さん)がキュレーターチームや事務局の懸念を振り切り、展示を強行した」とまで書いています。その後、最終報告書がまとめられましたがどのように受け止めていますか?
まず中間報告の結論は「表現の不自由展・その後」を再開することだったんですが、そもそも僕も再開を目指していることは共有されてました。
率直に、ここまで悪者扱いされると再開に向けての膨大な実作業に支障が出てしまうと感じました。中間報告は、あまりに事実と違う、僕個人の責任が厳しく糾弾されているものでした。訂正は叶いませんでしたね。仕方なく、短いコメントを出すに留めました。
中間報告と最終報告に、結構ずさんな部分があることに気がついているメディアの人間もいますね。
たとえば最終報告の32ページにある「大浦氏の新作映像作品の情報も含まれていた」という部分。実は中間報告では「大浦氏の新作映像作品の情報はなかった」と真逆のことが書かれているんです。
つまり事実誤認に基づいて「津田が事務局や知事などに隠して進めた」というストーリーを中間報告時点では作りたかったんだなってことがわかっちゃうんです。
また、中間報告では「誤解を招く展示が混乱と被害をもたらした最大の原因は、無理があり、混乱が生じることを予見しながら展示を強行した芸術監督の行為にある。そしてその背景にはそれを許す組織体制上の数多くの欠陥があった」と——つまりは「今回の騒動の最大の原因は津田大介である」と批判されました。
ここまで強く言い切っているにもかかわらず、最終報告ではしれっとその部分を削除して「全体の準備プロセスと組織体制」というふわっとした原因に変えている。そういう姑息な変更が細かく見ればたくさんあるので、いつか広く一般に知らしめたいなと思ってます。
——中間報告時点では、「芸術監督はINTEGRITY(高潔さ)を著しく欠いていた」という強い表現もありました。
最終報告書案ではきれいに消されています。中間報告の85ページの「ジャーナリストとしての個人的野心を芸術監督としての責務より優先させた可能性」も、最終報告と見比べるとかなりいい感じです。
率直にいって、気分のいいものではなかったですが、実はこの中間報告が出た翌日に文化庁の助成金の不交付が決定されました。一度専門家によって交付が決まっていた助成金で、理由は後付けされたものでした。そのような時に、内ゲバをしてるわけにはいかなかったんですね。
——文化庁の助成金不交付の理由は「展覧会の開催に当たり、来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上、補助金交付申請書を提出し、その後の審査段階においても、文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しなかったこと」とされていますね。
あまり報道されませんでしたが、そうした申告をする仕組みはなく、書類に記入する欄も存在しませんでした。
また、その後の国会でのやり取りや関係者への取材から明らかになったのですが、文化庁は8月上旬には不交付にする方針を内部で固めていたと。しかし不交付にする理由がなかったため、中間報告が出るのを待っていたというんです。
——なぜ中間報告を待ったんでしょう。
中間報告で、トリエンナーレ実行委員会や事務局、芸術監督のガバナンスを追求することは明白でした。
文化庁から、8月18日と9月19日に中間報告について進捗確認がありました。そして9月20日に、同じ「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業」に内定していた26件のうち「トリエンナーレを除く」25件の交付を決定。
9月25日に中間報告が発表されたのを待って、補助金適正化法第6条を根拠に9月26日に不交付を決定しました。募集にあたり、そうした申告をする仕組みはなく、書類に記入する欄も存在がなかったにもかかわらず、です。
——愛知県の大村知事はこの決定について不服申立てをする意向を示しています。
中間報告がいいように使われたことを、検討委員会のメンバーがどれだけ認識しているかはわかりません。
中間報告が出た後、最終報告のためのヒアリングでもその懸念は強く伝えましたが、最終報告でも「展覧会の開催にあたり、来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告しなかった」として、僕を糾弾していましたから。
これでは文化庁がデタラメに不交付を決めたのが正しいと言っているようなものです。
最終報告書は、抗議者・脅迫者だけでなく、行政手続きとして著しく問題の大きい不交付を決めた文化庁や、費用の不払いを検討している河村名古屋市長を利するもので、非常に問題が大きいと思っています。
——なぜ芸術監督の責任が重く問われたんでしょう。
再開については当時、賛否両論が真っ二つに分かれてました。再開の方針を固めたとしても、半分が反対しているものを動かすには、それ相応の理由を示す必要があります。
しかし、展示中止の責任を役所が負うとそれは「検閲」ということになります。そのため僕というパブリックエネミーが必要だったのだという認識です。
——最終報告では「抗議を超えた脅迫」まで発生し、「不自由展の中止はやむを得ない」と結論づけています。「電凸攻撃」は電話、FAX、メール合わせて1万件超(昨年8月段階)。しかし、電凸は想定されていたはず。対応に問題はなかったのでしょうか。
電凸の初期対応について、行き届かない部分があったことは事実です。僕だけでなく、事務局にも不手際があった。
電凸が殺到した初日と二日目に、大村知事に電話対応を改善してもらえないか交渉したのですが、『すぐにはできない』という回答でした。緊急時に臨機応変な対応ができるよう事前に検討していればよかったと、悔やんでいます。
事実を踏まえたうえで、本来、委員会で検証されるべきだったのは、展示を不快に思ってかかってくる電話の中に攻撃や脅迫があった場合、行政としてどう対応すべきか。そしてどれだけ警察と協力できるかという2点だと思います。今後同じようなことが行政の事業で起きた際に、ノウハウ化されるべきですから。
しかし、中間報告も最終報告もその部分の検証内容が異様に薄かった。
——脅迫行為では逮捕者まで出る事件にも発展しましたね。
8月2日に県美術館にガソリンテロが予告されるFAXが届き、警察に通報されました。委員会では『警察への被害届が8月6日になったのはなぜか』ということを検証していますが、これは警察に責任があります。
なぜか被害届を出させてもらえなかったのです。僕の事務所のスタッフがFAXの送信元の特定をして、その情報を提供して初めて、向こうから被害届を提出するよう持ってきたというのですから。
ある宗教団体のサーバーを踏み台にした脅迫メールもありましたが、こちらも警察はその団体に問い合わせてIPアドレスを調べることすらしていませんでした。
——不自由展の炎上は、作品を見ていない人たちにもネット経由でどんどん広がっていったのも特徴でした。多くが大浦信行さんの天皇の映像作品と、従軍慰安婦を象徴した平和の少女像への反発でした。大浦作品はこれまでも物議をかもしてきましたが、ここまで炎上したのは初めてだと思います。どうしたら、防げるのでしょうか?
「弁護士ドットコムニュースがインタビューした黒瀬陽平さんの記事( https://www.bengo4.com/c_18/n_10325/ )を読みました。
この論理を突き詰めていけば、結局のところ、作品を展示する側が忖度するなどして、特定の人たちを刺激しない展示をするしかない。不自由展の中止をめぐっては様々な識者から「キュレーションの問題」や「事前のリスク管理の不足」を指摘する声が上がりました。
しかし、芸術監督の立場から見れば、こうした指摘はすべて結論ありきの議論に聞こえます。事前にリスクを減らすことに注力すればするほど、あらかじめ「不自由展」をあきらめるのが適切だったという結論にしかならないからです。その結論自体が「萎縮」ですよね。
そして、この萎縮はあいトリが招いたものではないと思われます。もともと状況は悪くなっていていずれは直面した問題が、あいトリで明らかになった――つまりはこれが日本の現在地なんじゃないでしょうか。
これから何ができるのか、考えていくきっかけにすることが重要ではないですかね。騒動の引き金を引いた人間としても、今後、コミットしていかなければいけない問題だと思います」
——たとえば、どういったコミットになりますか?
まず、中間報告と最終報告については、もう出ちゃってるので大事なポイントをしつこく言っていくしかないかなと思っています。
たとえば、検討委員会は不自由展騒動の原因を殊更キュレーションとガバナンスの問題に求めました。
プロセスに問題があったことは否定していませんが、そもそもトリエンナーレを脅迫したり、激しい電凸を仕掛けた人のほとんどは「展示を観に来ない人々」です。見ずに文句を言う人にとって、キュレーションの質やコミュニケーションの総量は関係ないですよね。
そして電凸に対しては、大村知事が9月17日から「10分で電話が切れる」仕組みを導入するなどの対応に変えたことで、改善することができました。実はこれ、あるマスメディアの記事を大村知事が読んで納得し、指示したものなんです。
つまり、まだまだメディアにできることはたくさんあるということです。こうしたノウハウもたまっていくわけで、次回のあいちトリエンナーレにも生かされると思います。こうした経験は全国の公共施設や行政の文化事業に伝えていくべきです。
——ひろしまトリエンナーレをはじめ、電凸はすでに、他の文化事業にも連鎖的に広がっています。
作家で、近現代史研究家の辻田真佐憲さんも指摘していますが、保守的な考えを持っている人たちにとって、新しい金脈として発見されたのが現代美術だったわけです。昔は違ったのかもしれませんが、少なくとも近年、現代アートは政治と直接対決することがあまりなかったといえます。
僕たちメディアの人間はそういうことに慣れていますが、行政や文化事業に携わる人に免疫がなかったのかなと思います。
というのも、一時期、検討委員会愛知県のウェブサイト上で電凸の録音を公開していましたが、それを聴いたある新聞社の記者が『彼ら(=電話の主)はまだ紳士的だね』と話していたのが印象に残っています。
——今回、特に名古屋市の河村市長からの批判が強かったです。今、名古屋市では検討委員会を設置して、公金負担をするかどうかの話し合いをしています。昨年12月には、市長が会見や委員会で盛んに「大浦作品が出ることを知らされていなかった、津田さんにだまされた」と主張しています。
だましていません。問題になったので後でわかりましたが、いわゆるホウレンソウが滞っていた部分は報告書の通りです。こういったイベントの現場ではよくある話とは言われますが、硬い文書になると実際より深刻に受け取られやすいのかもしれませんね。
12月10日に河村市長が外国人記者クラブで行った会見で、9月30日にトリエンナーレ会場に赴いて「なぜ嘘を言うんだ」と僕に声をかけ、僕が何も反応しなかったと主張されてました。
これ、実は全然違っていて、「困るよ~ガハハハハ」と握手を求められたんですよね。つまり、河村市長が主張された「なぜ嘘を言うんだ?」というやりとりそのものをそのときにはしてないのです。
だってそう尋ねられたら絶対に「嘘なんかついてないですよ」と答えますよ僕は。周りに人もいたのですけど、まぁ度々そうでしたが、酔ってらっしゃるようだったので記憶も曖昧なのかもしれません。
——名古屋市の検証委員会では表現の不自由展の内容ではなく、『手続き上に問題がなかったか』を検証すると言っていますが、津田さんはご自身のヒアリングを希望されていますね。
最終的に、華麗に断られました。委員会の中でも指摘された委員がいらっしゃいましたが、行政法上は負担金を出さないということは難しい。100人の行政法の専門家がいたら100人がそう判断するとおっしゃる方もいます。
ポイントはここでもまた「手続き上の問題」を持ち出してくるところです。後から難癖をつけるにはそれしかないという手の内が見えます。
——批判の一つに、「表現の不自由展」は政治的プロパガンダであるという声がありました。
プロパガンダについては、最終報告に対し強い疑義があるので言わせてください。83ページの「『公的資金を使い、公的な場所で芸術の名を借りた政治プロパガンダを行った』と一部が批判される展示をみとめてしまった」という部分です。
公的機関から独立したアーティストが、自分の作品に政治的な意図を込めるのは、断じて“プロパガンダ”などではなく、“オピニオン”です。
そもそも不自由展の企画については、3月27日の時点で広く一般に向けて展示内容とコンセプトを公表していました。展示方法もその性質を考慮して、順路に組み込み観客に強制的に見せるのではなく但し書きを掲示したうえでゾーニングもしました。
それを「特定の考えを押しつけるための宣伝」と定義することには無理があります。プロパガンダという言葉は誤用されています。検討委員会はそうした批判そのものが不適切であると言及すべきでした。
——「わいせつである」として、特に厳しく規制されてきた性的な表現の作品は、なぜなかったのでしょうか?
わいせつとされた作品について、実はいくつか候補がありました。
最終的に選ばれなかった理由はそれぞれ違います。2015年の会田家の「檄」という作品を巡る騒動は、社会的に重要な出来事であったにもかかわらず、不自由展実行委で強行に拒否する委員がいて叶いませんでした。これは、不自由展実行委内でも意見が割れていましたが。
——当時の騒動を覚えています。「表現の自由」が問われた事件でした。
トリエンナーレの会場でもある愛知県美術館で2014年に開かれた写真展に出された、鷹野龍大さんの作品も候補にありました。これは、男性ヌードの写真で男性器が写っていたことから、警察から注意を受け、作品に布をかけるなどして展示した作品です。
当時、鷹野さんの担当をしていたキュレーターが、今回の表現の不自由展のアシスタント・キュレーターでもありました。写真展では鷹野さんの作品はゾーニングされていましたが、展示を見た匿名の人が警察に通報しました。
美術館の現場は、展示が続行できるよう戦いました。2008年に最高裁では、男性器を撮影したアメリカの写真家、ロバート・メイプルソープの作品のわいせつ性が否定される判決が出ています。それを知らないのかと主張したのです。
ところが、警察はかたくなで、館長やセンター長が猥褻物陳列罪の疑いで逮捕されるかどうか、という話になってしまった。
僕はそういう経緯も含めて展示するべきと思っていたし、警察も方針が変わっている可能性があると言いましたが、やはり作家が望む形での展示ができないのならばそれはやるべきではないだろうという結論になりました。
——確かに、性的な表現にはそうしたリスクもありますね。
美術作品として作られたけど、見る人によっては児童ポルノに該当するかもという作品も候補に挙がりましたが、わいせつ物以上にこれは難しいだろうとなしになりました。
他にも、ろくでなし子さんの作品も候補に上がりましたが、限られたスペースの中で、不自由展実行委が推す作品が優先されることになりました。
——たとえば、2013年にイギリスの大英博物館で展覧会が開かれ、評判となった春画はどうですか。日本国内ではなかなか展覧会ができる美術館がなく、2015年に初めて永青文庫で開催されたという…。
春画もあり得ました。ただ、不自由展実行委の関心はそちらの方にはなかったと思います。
——結果的に、政治的な表現が残ってしまった…?
不自由展のコンセプト自体は斬新なものでもありませんよね。それぞれが感じる「表現の不自由」は違います。
たとえば、子供向け乗り物図鑑『はたらくくるま』で自衛隊の戦車などの兵器が取り上げられていることが問題視され、増刷中止が決まった件に不自由を感じる人は少なからずいるわけです。極端にいえば、それぞれの「表現の不自由展」が問題なくできる国であることが大切だと思います。
——昨年10月に閉幕してもう3カ月になろうとしていますが、文化庁の補助金不交付問題はどうなっているのでしょうか?
現在、愛知県が不服申し立てをしていますが、昨年中にレスポンスがなく、いまもありません。不交付にする法的な理由が乏しく、文化庁も困っているんじゃないですかね。
このままいくと愛知県が訴訟に踏み切るでしょうが、それまでに撤回してもらうのが一番です。僕も責任を感じてますので、国会でこの問題がきちんと取り上げられるよう、与野党に働きかけていきたいと思っています。
——今回、表現の自由のあり方が問われました。一方で、政治的な分断が可視化されたとも感じます。
僕はここ数年ネット時代の『表現の自由』ということをテーマにして取材し、本も書いてきました。今回は過去最大の炎上を経験しましたが、過去最大の問題提起になったことは事実だと思います。
その経験を得たうえで見えることがあると思うので、これからも自分なりのやり方でこの問題に関わり続けていかなければと思います。この先どんな辛いことがあっても、たいていのことは耐えられるような気がしているので(笑)
——芸術監督として、相当な重圧がかかったのではないでしょうか……
最初の半月で7キロ体重が落ちました。会期中は眠れなかったですね。終わった直後は、毎日トリエンナーレで新たにトラブルが発生する悪夢を見ていました。それが徐々に2、3日に1回になって、今は10日に1回くらいまで減りました。
——あいトリで得たものはありましたか?
一番大きなものはボランティアのみなさんとのコミュニティです。会期中も、会期が終わったあとも、大勢のボランティアの人たちが僕を支えてくれました。今回のトリエンナーレでは、開幕前からボランティアと何回も交流会をやっていますし、説明会でも、あなたたちがトリエンナーレの主役ですと伝えてきました。
ボランティアの人から、「主役と言われたけど、本当かなと思ってきた。でも、表現の不自由展でああいう事件が起きて、自分たちが現場を守らなければと思えました」と言われたんです。
会期後に実施されたボランティアのアンケートの集計結果を昨日見たんですが、その熱量に泣けました。地元に残る人たちという意味では、職員とのつながりもかけがえのないものになりました。
みんながそれぞれの正義をぶつけ合うなか、ボランティアの人たちや職員は不満もそこそこにトリエンナーレを現場で支えてくれました。彼らの働きがなければトリエンナーレは途中で崩壊していたと思います。とても大きな恩があります。
だからこそ、次のトリエンナーレまで彼等との交流を続けて行くつもりです。そして、次の芸術監督が決まった時にそのバトンを渡す――そこまでが自分の仕事かなと思っています。