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アニメ映画『音楽』に至るまでのロトスコープの長き歴史 “邪道な手法”と言われる時代は終わった?

2020年02月04日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

『音楽』(c)大橋裕之/ロックンロール・マウンテン/Tip Top

 「ベース、ベース、ドラム。こんなバンド編成があるのか!?」


 アニメ映画『音楽』を鑑賞した、元バンドマンの知人が熱く語る姿が印象に残っている。岩井澤健治監督を筆頭に、少ないスタッフで7年間かけて4万枚以上描き、ロトスコープで製作した本作が、峯田和伸、井口理などのミュージシャンからも熱い支持を受け、話題を呼んでいる。本作で使われたロトスコープという手法が辿った歴史を振り返ってみたい。


参考:岩井俊二を追いかけ続けずにはいられない理由 『ラストレター』に込められた人生の重み


 ロトスコープはアニメーションにおける手法の1つだ。実写で役者が演じた映像を元に、体型や輪郭などを線で拾い、紙に描き写していくことで動きを作り出す。手法自体は古くからあり、1937年に製作されたディズニーアニメーションの『白雪姫』や、A-HAの「Take on Me」のPVなどでも使われている。日本では全編ロトスコープで製作されたテレビアニメ『悪の華』や、岩井俊二監督の『花とアリス殺人事件』が注目を集めた。


 その特徴は、人間の実際の動きを元にすることで、細かい動きをより緻密に再現することだろう。ダンスや演奏シーンは、想像では書くことが難しい上に音源と合わせる手間もあり、画面上のキャラクターを実際に踊っている、弾いているように見せるのは至難の技だ。こういったシーンにロトスコープを用いることで、キャラクターが音に合わせて踊っているように見せることができる。『君の名は。』序盤の神楽を踊る場面や『空の青さを知る人よ』のバンド演奏などでも、演舞や演奏を実写で撮影し、その動きをトレースすることで、魅力的な動きを作り出している。このように、日本では一部の場面で限定的にロトスコープを活用しているケースが多い。


 一方で、「ロトスコープは邪道」という価値観も存在する。“アニメーションは動きの創造”という価値観から、人間の動きをロトスコープでそのまま描き写す行為は、作品の個性が失われる危険もあるため、アニメーションの理想から外れていると考えられてきた。『美術手帖』2020年2月号では、岩井俊二監督が『花とアリス殺人事件』の相談のために鈴木敏夫プロデューサーの元へいったところ、門前払いのような扱いを受けた、という話もある。また『アニメスタイル004』では、『悪の華』の助監督である平川哲夫は、全編ロトスコープで撮るという話が来た時に「ふざけるな」と発言したと明かしている。


 筆者には全編ロトスコープで製作された『悪の華』も『花とアリス殺人事件』も、特に動きに関して違和感の大きい作品に見えた。日本のアニメはセル画枚数を節約するためにリミテッドという手法で作られてきた。これは1秒間24コマ(1秒間で24枚の絵が必要)で制作するところを、12コマ、あるいは8コマと枚数を減らす手法で、滑らかさはなくなりカクカクした動きに見えてしまう。一方で、日本のアニメはリミテッド映えをする動きを創造する方向に技術が進歩した。例えば走るシーンの絵の1枚1枚を細かく見ると、数枚にわたって地面に足がついていなかったり、あるいは足が3本に増える、逆に消えるなどの現実にはありえない絵を挟むことで、動いた時に快感が芽生えるように作られている。


 では、ロトスコープはなぜ違和感を抱かせるのか。その答えは“リアルすぎる”のだ。アニメにおいて現実的な動きに即したような、リアル志向の作品は多いものの、それらは人間の無駄な動きを排した絵として表現されている。一方で、ロトスコープは多くのアニメでは省かれてしまうような、無駄とも思える動きを拾ってしまうために、違和感を発生させてしまう。また、『悪の華』の場合はキャラクターデザインも実写の俳優の顔や表情を元に製作されており、デフォルメされた日本のアニメのキャラクターに慣れていると、いわゆる不気味の谷の現象が発生してしまう。そのために、演奏シーンなどの精緻な動きを描かなければいけないシーンのみに限定されている。


 一方で、岩井俊二は美術手帖にて「『アニメはこう動くんだ』と表現がパターン化されてきていて、実際に本物の動きから学ぶというのが欠けていたんじゃないか」と発言している。また、『花とアリス殺人事件』ロトスコープアニメーションディレクターを務めた久野遥子は「意識していない動きに、本当の面白さや細かさがあると思う」と語るなど、未だにあまり活用され尽くされていないロトスコープの可能性に言及している。ロトスコープとは目指す手法こそ異なるものの、片渕須直監督は「日本のアニメは方向がそろいすぎて、アニメーションの表現の自由を狭めてしまっている」と発言するなど、新たな手法に挑戦する必要性を説いている。


 『音楽』は、全編ロトスコープを用いた日本の長編作品では最も成功しているように見受けられた。本作は他の一般的なアニメ作品と比較しても、動きに対する違和感もあるものの、それ以上に絵が全く異なっている。線が細く多く、派手に動かす作品が増えている中で、本作の線は少なくて特別な技巧は感じない。もしかしたら自分でも書けるかもしれない、と思う観客もいるのではないだろうか。


 また「ベース、ベース、ドラム」のバンド編成など、作中で流れる音楽も型破りなものだからこそ、比較対象のない全くのオリジナルなアニメ作品となっている。さらに、アニメは動かすことが重要という意識が強い中で、本作は1秒や2秒というレベルでは収まらない“止め”のシーンがある。何もかもが異例づくしの作品なのだ。あまりにも型破りな作品だからこそ、音楽の初期衝動を描き切ることに成功している。


 重要なのは上手い下手ではないし、「バンドにはギターが必要」「ロトスコープはアニメ表現として邪道」という既存の発想を飛び越える姿勢が、その衝動こそが、最も尊いものだと伝えてくれる。大規模な商業アニメが後に続くのかはわからないが、本作の登場は、これまで一部の活用にとどまっていたロトスコープが再評価され、人間の身体性をより取り入れた新しい表現が次々と生まれる契機となる可能性も秘めていると感じさせられた。


■井中カエル
ブロガー・ライター。映画・アニメを中心に論じるブログ「物語る亀」を運営中。