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【ネタバレあり】『パラサイト 半地下の家族』が描く韓国社会の構図 “善悪”で動かない物語の特殊性

2020年02月01日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ポン・ジュノ監督の映画『パラサイト 半地下の家族』の興行収入が10億円を超えたという。筆者も二度鑑賞したが、最初に観たときは、その見事なストーリー展開を追うだけで2時間があっという間で、その表面上の面白さに気を取られていた。しかし、二度目を観て、やっと物語の表の部分以外も見えるようになってきた。今回は、映画のネタバレ部分も含めて考察してみたい。


参考:『パラサイト 半地下の家族』場面写真


●韓国社会を反映した登場人物たち


 本作は、ソン・ガンホ演じるキム・ギテクとその一家が暮らす半地下のアパートや、その近所の路上など、ほかの場所で進むシーンはあるにはあるものの、物語の大半は、IT社長であるパク・ドンイク(イ・ソンギュン)の一家の住む豪邸で展開されていて、その部分は、ワン・シチュエーションの舞台を観ているような感覚を受ける。


 ワンシチュエーション(に近い)映画といえば、クエンティン・タランティーノの2015年の作品『ヘイトフル・エイト』が思い浮かぶ。この映画を観たとき、密室の中の人間関係が、ただその人たちの関係性を描いているだけではなく、その人の背景、例えば南北戦争の元北軍の黒人、元南軍の兵士、イギリス人、メキシコ人、いつも殴られている女性の盗賊など、それぞれがその出自を背負ったキャラクターを演じているのであり、それが実際の社会での在り方と重なっているのだと解釈できた。


 『パラサイト』もまた、大部分が密室劇であるという意味では、登場人物は、その人個人のキャラクターだけでなく、韓国社会における社会的な役割や背景を背負っているのではないだろうか。


 例えば、キム一家の父親のギテクは、劇中にも描かれるように、1997年のIMF危機で職を失い、駐車場で働いたり、台湾カステラ店、フライドチキン店を経営したりと職を転々とした人である。これは、多くの父親たちがIMF危機後にこうしたフランチャイズの仕事に手を出した事実と重なる。また母親のチュンスク(チャン・ヘジン)はかつてはメダリストであったが、そんな経歴は今や何の役にも立たない。これも、何かの能力があっても、それが仕事を得るのに役に立っていない多くの母親世代を象徴しているのかもしれない。


 また息子のギウ(チェ・ウシク)は、家にお金がないために浪人しても十分な受験テクニックが得られず、大学にまだ受かっていない。妹のギジョン(パク・ソダム)も、美術の素養はあるのに美大には受かっていない。こうした若者は韓国にたくさん存在しているだろう。


 一方、パク一家の夫・ドンイクはIT企業の社長で、彼はお金持ちの象徴であり、その妻のヨンギョ(チョ・ヨジョン)は、若く美しく、そしておひとよしでちょっと騙されやすい。ヨンギョの生い立ちには、少し謎が多く、日本の感覚でいうと、もしかしたら、彼女は裕福な家庭で育ったわけではなく、その美貌で夫に選ばれたのかとも考えてしまうが、家事能力が皆無なところを見ると、家庭の中で家事労力を家族が担う必要のない階層で育ったことがわかる。


 彼女の娘のダヘ(チョン・ジソ)も、家庭教師をつけていても、あまり成績が良さそうに見えないのは、必死で勉強しなくてもよい環境であることの表れかもしれない(これは予想だが、彼女はいずれ「いい」海外の留学先に行くだろう。韓国ではどこに留学するのかにも格差があるという)。そして息子のダソン(チョン・ヒョンジュン)は、美術の素養があるように見えるが、落ち着きがなく、いつも何かにおびえている(ということにはいろいろ理由があったが)。


※以下、結末に触れます。


●“悪人”は1人もいない。だからこそ……


 ここからがネタバレを含むのだが、パク一家の豪邸には、パク一家が入居する前から働いていた家政婦(イ・ジョンウン)と、地下にはその夫(パク・ミョンフン)、つまり第三の家族が息をひそめていた。キム一家はこの第三の家族たちと争うことになる。


 物語には、さまざまな描き方がある。あるひとつの倫理観に従って描く物語ならば、悪意を持ったものは善意の人に成敗されたり自滅し、観たものは、最後にはすっきりした気持ちになることができるだろう。また、悪役にも、その人なりの一本の筋とでもいうものがあって、社会の規範には背いてはいても、彼だけの筋に従ってストーリーが展開され、それが共感される物語などもある。『ジョーカー』などがそのタイプの作品だろう。


 『パラサイト』はそのどちらでもない。善悪やその人なりの筋が物語を動かす動力ではなく、現実にある社会の構図が物語を動かしているのではないか。


 この密室劇の中で言えば、誰も悪人ではない。パク一家の豪邸の地下に存在する第三の家族である家政婦のムングァンとその夫のグンセも、人の家を間借り(寄生)してはいるが、悪人ではない。しかも、パク一家の食事が二人分減っているからといって、ムングァンは決してそれを盗んでいたわけではないとわかるセリフもある。


 もしも『パラサイト』が善悪で動く物語であれば、悪者ではないムングァンもグンセも悲しい結末にはならないはずだ。ではなぜ彼らが悪人でもないのに最初に悲しい結末になるかというと、社会では最も弱いものから犠牲になるからだろう。


 また、大きな諍いを生むきっかけや動機が物語の中にはないのにギテクやギウが第三の家族と死闘を繰り広げるのは、現実社会でも、競争したりいがみあったりする必要のない人たち、つまり階層が下のものが、より下のものを見下したり、いがみあったりしてしまう構図があるからだ。そして、第三の家族に唯一情けを感じていたキム一家の娘・ギジョンの結末もまた、彼女が悪い人間であったからそうなってしまったのではなく、たぶん社会の中でギジョンのような情けや優しさを持ったもの、そしてもしかしたら若い女性が、淘汰されてしまうことが多いという構図のせいだろうと解釈した。


 彼らの争いは、現実を半ば誇張して映し出しているのだ。


 現実社会を見てみると、お金持ちが頂点に位置する社会のシステムに何かしらの問題があり、下層にいる人々がそのことによって苦しんでいるにも関わらず、なぜか下層の人々が、その原因を作った支配階級に疑問を感じたりしないどころか、そのもっと下のものを蔑み、そのことで支配階級と同化しようとする構図をよく見かける。


 『パラサイト』では、中間にいるキム一家がパク一家とより近い存在になろうとしていて、彼らより下にいる第三の家族に憎悪を向けているという構図に、そのような現実が重なっているように感じた。


 このことは、キム一家の母親であるチョンスクが、パク一家、特に奥様であるヨンギョのことを「金持ちなのにいい人ではなく、金持ちだからいい人だ」と言っているセリフからもわかる。このセリフがフィーチャーされするぎると、パク一家は「いい人」ということで固定化されてしまいそうになるが、この映画は善悪で描かれた作品ではないわけであるから、キム一家や第三の家族と同じように、ヨンギョとていい人でも悪い人でもないし、チョンスクがパク一家の側に行きたいと思う無意識の願望がそう言わせているだけのように思える。


 それはポン・ジュノ自身がインタビューで、「私たち人間は、適度にいい人であり、適度に悪い人でもある。明確に天使か悪魔かを分けることはできません。実際に私たちの人生がそうであり、私たち自身がそういう存在であるというリアルさを込めたかったのです」(リアルサウンド映画部「ポン・ジュノ監督が『パラサイト 半地下の家族』に込めたリアリティ 社会との繋がりは必然に」)と言っていることからも明らかだ。


 しかし、パク一家の悪意のない“無意識”さは、キム一家にも何かを気づかせる。例えば、パク夫婦は誰かの助言を信じると、ものすごく軽い気持ちで人を解雇したり雇ったりもする。それは、なかなか仕事にありつけない人間たちにとっては死活問題であり、決してありがたいことではない。また、パク社長は、ギテクや家の使用人たちに対して、明確に一線を引いているし、それをセリフとしても口にする。そのことが、彼らが善か悪かを決めるものではないが、パク一家の中に、キム一家に対しての線引きは確実に存在しているのである。


 そう考えると、チョンスクは素直にパク一家のことを、「お金持ちだからいい人」と言ったのかもしれないが、これは単に「自分たちがお金がないことでしている苦労や争いを、彼らはしないでよいことがうらやましい」と言いかえをしただけなののではないだろうか。


 映画の後半、キム一家と第三の家族は、お金がない者同士だからこそ、パク一家に寄生する権利をかけて熾烈な争いを繰り広げることになる。それどころか、いきなりの豪雨でキム一家の家は浸水。粗末な避難所で暗澹たる気持ちで一夜を過ごす。一方でパク一家は、豪雨で被害にあった人たちの存在などひとつも知ることもなく普段通りの清々しい朝を迎える。


 キム一家と第三の一家の凄惨な出来事についても、パク夫婦はまったく知る由もない。そんな格差社会にあるやるせなさにギテクが初めて明確に気づいたときの顔を思い出すと、この物語が、韓国社会で誰と誰が争っているか、そしてそのことにまったく気づいていない人は誰で、それはなぜなのかということがわかるし、そんな社会の構造が物語を動かしているということが見えてくるのではないだろうか。(西森路代)