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『カイジ』シリーズが見せた日本映画としての可能性 藤原竜也のテンション高い演技の凄まじさ

2020年01月18日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『カイジ ファイナルゲーム』(c)福本伸行 講談社/2020映画「カイジ ファイナルゲーム」製作委員会

 アニメやゲーム、パチンコなどでも人気を集めている、福本伸行の漫画『カイジ』シリーズ(現在、『賭博堕天録カイジ 24億脱出編』が連載継続中)を原作に、藤原竜也を主演に迎えて実写映画化したのが、『カイジ 人生逆転ゲーム』(2009年)、『カイジ2 人生奪回ゲーム』(2011年)、そして9年ぶりとなる続編にしてシリーズ最終作と銘打たれた『カイジ ファイナルゲーム』の3部作だ。


参考:『カイジ』『るろうに剣心』 大作映画の人気シリーズ、ついに終幕の2020年


 ここでは、そんな本作『カイジ ファイナルゲーム』の内容とともに、ファイナルを迎えた映画版『カイジ』シリーズを前2作を含めながら総括していきたい。


 原作漫画の面白さは、なんといっても、主人公・カイジが挑戦する、バラエティに富んだギャンブルの複雑な展開だ。通常の物語であれば、主人公が一発逆転するような刺激的なアイディアをひとつ出せば成立するところを、二転三転、四転五転して、まだまだその先があるという物語を用意することで、娯楽作品として圧倒的な魅力を備えるに至ったのである。とくに、誰もが知るシンプルなゲーム“ジャンケン”を、株式投資のような頭脳戦にまで高めた、「限定ジャンケン」の先の読めなさは衝撃的だった。


 だが、そんな『カイジ』シリーズ映画化における問題は、そもそも作品自体が“映画向けではない”という部分だったろう。なぜなら、大きな魅力である原作の複雑な展開は、漫画という表現媒体が、文字を中心に成り立たせることができるという強みを活かしたことで実現したものだった。それをそのまま実写作品やアニメーションにしてしまえば、登場人物の心情や、賭けの状況説明といったものを、ほとんど音声によって表現せざるを得ない作品になってしまう。とりわけ、キャラクターの心の声を観客に聞かせるような演出は、映像作品として、可能な限り避けなければならないのが基本だ。映像の力や、言葉に表さない演技によって内容を表現することこそが、映像作品の本分であるからだ。


 だがアニメ版同様に、実写映画版は、そのような演出手法をとくに悪気もなく受け入れ、内面を言葉で説明していく方法を選択。さらには、通常声に出さないような言葉をそのままセリフとしてしゃべらせることで、複雑な展開を再現しているのだ。これは、ある種の価値観からいえば、映像作品としての“自殺”とも受け取れるような演出といえよう。


 一方で、本当にそれが映画の本質なのかという問いかけもあり得るだろう。アメリカで1927年に初めて商業作品として音声をとり入れた『ジャズ・シンガー』が成功を収めて以来、映画における音声の文化にも奥行きができていったのも事実だ。セリフが主体となる映画が低級だという指摘は、絶対的なものではないはずだ。その意味で、より複雑な内容を描くために、映画表現の作法を破ることは、むしろ挑戦的といえるかもしれないのだ。


 この演出が、はっきりと魅力を生んだ瞬間もある。第1作『カイジ 人生逆転ゲーム』において、香川照之が演じた、ギャンブル主催者「帝愛」幹部・利根川が、カイジを睨みつけながら「蛇め……! 蛇~っ!」と独白する描写は、異様な熱気がこもっており、ここは原作漫画をはるかに凌駕していて、私も好きな名シーンだ。


 そして、むしろ奥に引っ込んでいたと思われる、映像的な面白さも、この箇所で復活をとげている。心の中で「蛇め」とカイジを罵倒する利根川は、まさに蛇のように見開いた目でカイジを凝視するのだ。それはあたかも前衛的な“表現主義”とも接近を見せ、逆に“映像的”にすらなっていると指摘することもできる。本シリーズはTVドラマ風のコミカルな演出が散見され、いわゆる大作映画が持つ本格派な雰囲気は希薄かもしれない。けれども、そんないかにも大衆的に見える作品のなかに、むしろ芸術映画よりもさらに芸術に接近している部分が存在する場合もある。これこそが映画の醍醐味のひとつであり、媒体としての懐の深さではないだろうか。


 この香川の名演を引き出したのは、藤原竜也の、良い意味でのオーバーアクトにあるだろう。舞台で蜷川幸雄や渡辺えり、唐十郎などの演出家に鍛えられた 藤原は、キャリアの初期より、独自の演技世界を確立してきた存在だ。『バトル・ロワイアルII【鎮魂歌】』(2003年)の冒頭で演説する藤原のあまりに異様な表情を見てほしい。演出する側の意図を超えた狂気を放つ演技は、ジャック・ニコルソンのそれを彷彿とさせる。本作『カイジ ファイナルゲーム』においても、吉田鋼太郎演じる帝愛幹部・黒崎の顔面に顔を近づけ、あり得ないほどの至近距離で説教をする奇妙なシーンが楽しい。


 そう、香川照之も、第2作でライバル・一条を演じた伊勢谷友介も、そんな藤原の演技としての狂気に呼応するように、異様なテンションで役を演じていたことで、不思議な熱気が発生しているように思われる。そこから生み出される、演技者としての互いのライバル意識やコンビネーションが、シリーズの大きな魅力となっていたのは確かなことである。


 さて、最終作となった本作『カイジ ファイナルゲーム』の内容はどうだったのだろうか。前2作は原作に準拠しながら、映画作品として部分的に改変したり、オリジナルの展開を差し挟んでいたが、今回は完全にオリジナルだ。しかも、原作者である福本伸行が脚本家として第1席に名が記されている。新しい物語を打ち出すのであれば、原作者の力を借りるのが、最も説得力のあるものになるという考えなのであろう。


 今回登場するギャンブルも、全てオリジナルだ。ギャンブルのテーマパーク帝愛ランドで行われる「バベルの塔」「最後の審判」「ドリームジャンプ」「ゴールドジャンケン」……これらの内容は、福本のアイディアだと聞けば、なるほどと思えるような、福本作品『銀と金』や『賭博覇王伝 零』の要素を彷彿とさせるものとなっている。


 とはいえ、すでに漫画で完結していた、前2作に登場したギャンブルと比べると、完成度が低いと感じられるのも確かだ。なかでもメインとなる「最後の審判」は、富豪が支援者によって金を積み上げていくことで人間の器量勝負をするという試みは、非常に“福本的”である。だが、無頼の物語を描いてきた『カイジ』シリーズとしては、主体が伊武雅刀演じる富豪の側にあるため、ひりつくような興奮がなく、ギャンブルの内容そのものも、関係者による金の積み合いが中心となることで、カイジの存在感が希薄だと感じられてしまう。さらに、この勝負に勝つため、カイジは命を賭ける悪魔的なギャンブル「ドリームジャンプ」に挑戦することになるが、命までは賭けないスポンサーの勝利のために、カイジが命を賭けるほどの理由が見つけられないため、不可解な展開だと感じられてしまうのだ。


 福本作品のアイディアの基本は、メインの逆転展開を支えるための逆算した仕掛けを作っていくところにあるだろう。本作では、そこに向けて序盤に登場した無職の若者たちや派遣切りに遭った時計職人たちが勝利への鍵となるが、今回は描写があまりにもあからさまなので、整えられていく段取りが手に取るように分かってしまうのも厳しい。このあたり、福本の才能をもってしても、映画作品としての脚本づくりには経験が不足していたように思われる。これもまた、映画の奥深さだといえよう。


 とはいえ、これらのギャンブルには、いままで以上にメッセージ性がくわえられているというのも確かなことだ。今回の敵である黒崎は、多大なマージンによって、雇用ビジネスで労働者を不当に搾取する“派遣王”としての属性がくわえられた。


 本作は、東京オリンピック後に経済が著しく後退し、富裕層と貧困層の差が、いままで以上に広がってしまった日本が舞台になっている。とはいえ、これは現在の日本の社会状況とさして変わりがなく、まさにいまの戯画として本作の物語が設定されていることが分かる。


 描かれるのは、利益を追い求める政治家と資本家の結託によって、末端の労働者が虐げられているという状況である。絶望のなかで、命を賭けた「ドリームジャンプ」に挑むしかない人々の姿は、労働問題によって自殺率の高い日本の縮図として、非常に直接的に表現されている。それと対照的に、政治家や経済界のトップは、札束を目の前に“万歳”を行う。この極度にカリカチュアライズされたシーンは、直接的な描写から、スマートとは言い難いが、異様な迫力と新鮮な驚きがある。


 福本作品の面白さのひとつに、比喩的な描写を、そのまま絵にしてしまうというところがある。生きるか死ぬかのギャンブルに参加しながら気を抜いている姿を、そのまま“戦場で棒立ち”する絵で表したり、逆に死地で無防備な状態に陥っているキャラクターを無垢な赤子として表現するという部分だ。本作は、貧しくなっていく国で追い詰められていく貧困層と、そういう人々を踏み潰して逃げ切ろうとする特権階級のイメージを、そのまま“身も蓋もない”絵として映し出してしまうのだ。日本の映画作品において、近年ほとんど見られなかったような、ストレートな社会批判である。これが本作における最も興味深い点である。


 藤原演じる、底辺の象徴たるカイジが、そのような光景を前に、あの高いテンションの演技で「俺たちが“日本”だろ!」「何に“ベット”するか、俺たちに決めさせろ」と叫ぶシーンには、本作のギャンブル描写がいまいちであっても、それを乗り越えるほどの凄まじさがある。そこには、特権階級だけがルールを操り、利益を得るような政治への批判とともに、大多数の庶民自身も、主体性や自分の意見を持つことの大事さまでが示唆されている。


 近年の多くの日本の映画作品は、漠然とした社会批判を行っているとしても、このようにはっきりとターゲットや思想を明示した直接的な批判を避けてきたのではないだろうか。愚直とも思える表現が胸を打つのは、このようなストレートな言葉を誰もが言ってこなかったからではないだろうか。社会が自由にものを言えないような空気のなか、『カイジ』シリーズという、商業的な作品のど真ん中で、当たり前だが言いにくかったメッセージをぶち上げたという点については、評価せざるを得ないところがある。


 かつて大衆娯楽として隆盛をきわめたのが“映画”だ。しかし現在は、筆者も含めた増加する貧困層が快哉を叫べるような内容のものは少なく、表現する側が多方面の顔色を伺いながら、観客の方を向いていないのではないかと感じることも多い。その意味で本作は、映画というものを、本来の地点に立ち戻らせる可能性を見せてくれたといえる。そしてキンキンに冷えたビールに、ちっぽけで刹那的な幸せをしみじみと感じるカイジの表情を静止させることで、映画『カイジ』シリーズは、役割を正確に見出すことに成功したはずだ。(小野寺系)