※本記事は映画本編の内容に関する記述を含みます。あらかじめご了承下さい。
■『グエムル』や『スノーピアサー』……「システム」への疑念を作品に込めてきたポン・ジュノ監督
ポン・ジュノの映画にはいつも社会への疑念が根底に存在しているように思う。『殺人の追憶』(2003年)や『グエムル -漢江の怪物-』(2006年)は、韓国で実際に起こった事件に着想を得て作られ、そこに韓国におけるアメリカという存在への不信がちりばめられていた。
韓国、アメリカ、フランスで合作の『スノーピアサー』(2013年)では、温暖化を食い止めようとした結果、氷河期が訪れた地球で、大企業が作った列車の中にある階級社会をSF作品として描いた。筆者がこの映画で来日した監督にインタビューを行なったとき、「作品を一言で表すと?」という問いかけに対し、「『列車を壊せ!』はどうでしょうか。列車は映画のなかではシステムを意味しますから、『システムなんてクソくらえ』という意味でもあります」と語っていた。
■半地下に暮らす全員無職の一家と、高台の豪邸に住む金持ち一家の出会い
『第72回カンヌ国際映画祭』最高賞にあたるパルムドールを受賞し、1月10日から全国公開の新作『パラサイト 半地下の家族』もまた、場所を現代の韓国に移して「システム」を問う作品になっていると言っていいだろう。
この映画に出てくるのは、二つの家族だ。一つは、半地下の住宅で暮らす全員失業中のキム一家――父のキム・ギテク(ソン・ガンホ)、母チュンスク(チャン・ヘジン)、息子ギウ(チェ・ウシク)、娘ギジョン(パク・ソダム)の4人。ギウがひょんなきっかけから娘の英語の教師をすることになったのもう一つの家族が、高台の豪邸に暮らすIT企業社長のパク・ドンイク(イ・ソンギュン)の一家であった。
パク一家の心をつかんだギウは、妹のギジョンをパクの息子の美術の家庭教師に仕立て上げる。彼らがパク家の信頼を得ていく様子はコミカルに描かれるが、対照的な二つの家族の出会いは次第に予想もつかない物語へと展開していく。
ポン・ジュノの言う「システム」とは何か? それは、権力者や巨大企業、それによって富を得た人間と、その下支えをする労働者や、労働することにすらあぶれた人々の形成する格差社会のことである。
『スノーピアサー』では、人々が暮らす列車が、下層の人々が暮らす粗末な車両から、お金持ちの暮らすラグジュアリーな車両へと連なっており、列車自体が一つの格差社会になっていた。そんな格差社会が、細長い列車の中に形成されているのが非常に心もとないのだが、それが格差社会というシステムの脆弱さなのだとでも言いたげだった。そして、下層の車両の暗くてジメジメした様子が、半地下の住宅を思わせるし、お金持ちの暮らす車両は、そのままパク一家の暮らす家のようにも見える。
■「格差」や「貧困」は国を超えて共通したコンテクスト
『パラサイト』では、そんな格差を描きながらも、笑えるシーンもふんだんに盛り込まれている。例えば、パク社長の妻のヨンギョ(チョ・ヨジョン)は、美しくお金持ちらしい雰囲気をまとっているのに、どこか抜けたところがある。ギウが家庭教師一日目にパク社長の家を訪れたときも、彼がソウル大卒であるという嘘に気付かないのはもちろんのこと、授業を見せてもらい、ギウがネットで仕込んだような小手先のテクニックで教師然とふるまう姿に一瞬で心酔し、彼を信じ込んでしまう。
そんな「チョロさ」は、劇中「奥様はシンプルだ」と評され、その憎めないシンプルさに付け込むことで、キム一家はこの家に「寄生」することになる。ここには韓国人のブランド志向、学歴志向、紹介を重んじるコネ社会などに対するシニカルな目線もある。奥様が一生懸命に会話の中に混ぜ込む拙い英語も、そんなシニカルな笑いを誘うのだ。
笑いというのは視覚的、身体的に繰り広げられるものについては世界共通だが、こうしたコンテクストが必要なものは、それを共有していない限り笑うのがなかなか難しい。筆者が『グエムル』を2006年の公開当時に観たときは、韓国とアメリカとの関係などにあまり詳しくなくて、なかなか理解ができず、笑いどころがわからなかったが、『パラサイト』ではかなりわかることができた。これは韓国に詳しくなったということもあるが、それ以上に、劇中に描かれた「格差社会」と「貧困」というものが、アジアでは共有されたコンテクストなのだと実感させられ、同時につらい気持ちにもなった。思えば、近年の『カンヌ』パルムドール受賞作は、是枝裕和の『万引き家族』にしろ、ケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』にしろ、格差や貧困がテーマの作品が多い。
また、同じ韓国の映画として、イ・チャンドン監督の『バーニング』も去年日本公開された(この作品も『カンヌ』で『万引き家族』と同様にコンペティション部門に出品され、高い評価を獲得した一作である)。『バーニング』は、村上春樹の短編『納屋を焼く』が原作となっていて、物語の骨組みになる出来事は共通しているのだが、出来上がった映画はまったく異なる解釈のものとなっていた。
物語の舞台を現代の韓国に移した『バーニング』では、主人公の「僕」が、消費社会の中で違和感を感じ、文学を志しながらも貧困のさ中で暮らしている青年になり、「彼」は謎の富裕層でありながら、そのことに退屈している人物に、そして「彼女」は、そんなふたりの間にいて、「僕」ほどは教養を持たず、でも「彼」のような世界を求めて消費社会をさまよう女性として描かれる。結局「彼女」は、「彼」の退屈を埋めるちっぽけな存在として扱われ、そのことに「僕」が憤るというのが、筆者の見たこの映画に対しての感想だ。
原作は1980年代の作品で、誰もが豊かさを求められる時代を描いていたというのに、映画の中の2010年代の終わりには、誰もが豊かさを求めた末に世の中が便利になり、それを手にいれたかに見えたが、実は格差が広まっている。この映画が原作からがらりと様変わりし、格差社会の「システム」の矛盾を突いた作品になっていたのが興味深かった。
■「計画」が水泡に帰す流動性のない社会。それでも垣間見える「諦めの悪さ」
『バーニング』から見えたのは、「僕」のように、努力して勉強をして、知識や教養を身につけても、超えられない壁であった。
韓国では現在、英語を勉強するだけでは足りず、三か国語以上を身につけないと良い職にはつけないという話も聞く。大学を出ただけではいい職につけず、富裕層やそれを目指す人々は、子供にせっせと語学を身につけさせ、よりよい留学先を見つけるのに必死だという。そのことは、『パラサイト』の中でギウの友人が留学することや、パク社長の家で働く使用人たちが、必死でその職にしがみついていること、パク社長の娘や息子が幼いころから家庭教師をつけて備えていることからもわかるだろう。
ギウやギジョンも決して知識や教養がないわけではない。ネットで検索すれば知恵は拝借できるし、人を信じさせる対人スキルもある。母親のチュンスクだってもともとはハンマー投げのメダリストであったし(メダリストとポン・ジュノと言えば『グエムル』のペ・ドゥナもアーチェリーのメダリストであった)、父のギテクであっても心地の良いコーナリングを心掛けられるような運転テクニックも持っている。「勉強なんかしないでも大丈夫だよ」と教育を放棄している一家でもないし、そんな小器用な一家であっても、韓国社会ではこぼれ落ちてしまう。その背景にはもちろんIMF危機(1997年に韓国を直撃した通過危機)があるということも、ギテクがやってきた歴代の職業についてのセリフから推測できるように描かれていた。これらを理解するためにも『国家が破産する日』や『エクストリーム・ジョブ』などの韓国映画を見るのもいいだろう。
日本ではまだまだ「勉強しなくても生きる道はあるよ」というアドバイスもある。だが、韓国の競争社会においては通用しないだろうし、努力をして自分の世代よりもより良い生き方をしてほしいという親から子への願いが大きいように感じる。その願いが容易に叶わないことが悲しみであるし、どんな境遇に生まれたかでその後の人生が決まるという流動性のない社会による不幸を、日本よりも強く実感しているのではないかと感じた。
『パラサイト』では作品を通して「計画」という言葉が印象的に出てくるが、現実の社会の中では、いくら「計画」したからといって、どうにもならないこともある。その「計画」の中には、「努力」を信じる想いや「希望」がたくさん詰まっているようにも思えた。努力しても社会の中に流動性がないならば、そのための「計画」も意味を持たない。映画の中では、それでも「夢見ること」を諦めない気持ちも描かれるのだが、そのことが逆にどうにもならない現在を際立たせていて、やるせない気持ちになる。しかし、どうにもならない世の中で、この「諦めの悪さ」だけが希望でもあるのだと感じさせる結末だった。同じような格差社会の中にある日本には、果たしてこの「諦めの悪さ」は存在しているのだろうか……。
(文/西森路代)