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スティーヴン・キング原作映画、成功の秘訣は? 『IT/イット』『ドクター・スリープ』から考える

2019年12月19日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

『ドクター・スリープ』(c)2019 Warner Bros. Ent. All Right Reserved

 スティーヴン・キングの小説を原作とする作品が先月から来年1月にかけ、立て続けに3作も公開されます。1990年公開『IT』のリメイクである『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』、『シャイニング』の続編である『ドクター・スリープ』、そして1989年の『ペット・セメタリー』のリメイクです。どの監督もキングの熱狂的なファンですが、この3作を比較すると、近年のキング原作作品にみる映像化の難しさと、成功の秘訣のようなものが見えてきました。


参考:『ドクター・スリープ』に見る、マイク・フラナガン監督の魔術的ストーリーテリング


■スティーヴン・キング小説の特徴
 スティーヴン・キングの小説はホラーにジャンル分けされますが、一般的なホラーとは異なります。キングが得意とするのは、登場人物を徹底的に掘り下げることで、読者に登場人物の直面している恐怖を共感してもらうスタイルです。また大きく分けると、共感できるからこその恐怖、全く共感できない異質に対する恐怖というパターンがあり、映像化する上では後者が比較的簡単と言えます。


 『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』は、登場人物を丁寧に掘り下げて怖がらせるという点では失敗しているかもしれません。ペニーワイズが人々の弱さや恐怖につけ込むという設定なので、ルーザーズクラブ全員の心の弱さを掘り下げるのは作品上重要です。しかし、映画という限られた時間の中では、それぞれのストーリーを掘り下げることができず端的になってしまい、「観客に共感してもらう」とは程遠い結果になってしまいました。


■キング小説を映画化する上での重要点と誤算
 スティーヴン・キングの小説を映画化する上で最も大切なのは、作品を読んで感じた恐怖をそのまま映像化して観客にも共有してもらおうと思えば思うほどつまらなくなっていくのを理解することだと思います。キングの描く恐怖を映像に落とし込むことは非常に難しいのです。


 すでに書いた通り、キングの作品は「日常の中に潜む違和感」から始まり、「共感力で読者の恐怖を引き出す」のを得意としています。しかし、その方法では視覚的に緩い絵の連続になってしまい、刺激を求めて劇場に足を運んだ観客を落胆させてしまいかねません。また、小説に書かれたことを素直に映像化すると、ファンタジー要素が強く出てしまうこともあります。


 そこで、作品を引き締めるため、予測しなかったタイミングで大きな音を出すといったジャンプスケアを多用して一時的に観客を驚かすといった荒業に出る監督も少なくありません。しかし、ジャンプスケアは諸刃の剣。安っぽい手法ですし、多用されると観客も苛立ちを感じ始めます。その点、『ドクター・スリープ』は、キング作品の長所も短所も、『シャイニング』を取り巻く問題も熟知した上で巧妙に作られた作品といえます。


■絶妙なバランスを保った『ドクター・スリープ』
 スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』しか鑑賞していない人にとって、『ドクター・スリープ』は、その存在意義を問いたくなるような作品かもしれません。『シャイニング』との関連性は薄く、ラストに登場する展望ホテルでさえ、まるで辻褄合わせのねじ込みに見えたでしょう。しかし、本作は小説版を丁寧に映像化している上に、最後は『シャイニング』問題を「展望ホテルを焼き払う」というキング小説のラストに合わせる形で収束しています(『シャイニング』問題とは:スタンリー・キューブリックが原作の内容を大幅に変更したことで、スティーヴン・キングが激怒。今なおキューブリックの『シャイニング』を酷評している。原作と映画で決定的に違う部分は、ラストで、キューブリックは氷で終わり、キングは火で終わる。)。


 これは、マイク・フラナガン監督が、小説の大ファンである一方で、キングを盲目的に崇拝するのではなく、彼の小説はそのまま映画化しても面白さが半減してしまうということを理解していたからでしょう。


 また、映画『ドクター・スリープ』を映画化する上で「キューブリックファンにもキングファンにも納得してもらえるものにする」と決めていたのもプラスに働いたと思います。映像化するとボヤけてしまう部分は潔く削ぎ落とした上で、キューブリックの『シャイニング』からは重厚感のある音楽を、キングの原作からは、丁寧に書かれたキャラクターアークと目を覆いたくなるような残虐描写と「回復」というテーマを引っ張っています。


 物語の中盤で登場する残虐シーンは映画史に残るほど残酷で、その迫真の演技は脳裏から離れず、断末魔の叫び声は耳から離れることがありません。このやりすぎともいえるシーンが全体を引き締めているため、ジャンプスケアのような、大きな音と衝撃で怖がらせる安っぽい方法で観客を驚かせる必要がなく、最後まで低空飛行の怖さを感じ続けることができていると思います。


■「そこはかとなくダサい」の巧妙な使い方
 バランスの良さには、キング作品に見られる「そこはかとないダサさ」の加味も含まれます。


 スティーヴン・キングは生粋の小説家であり、彼の頭の中に思い描く、深い霧が徐々に侵食していくような重苦しい恐怖を文字にするという点で他に類を見ない天才です。しかし、その頭の中をひとつの映像にして他人と共有させようとなると、途端にダサくなってしまう傾向にあると、私は思っています。


 キングの初監督作品『地獄のデビルトラック』はその傾向が顕著です。


 このトレイラーは、キングが「自分の作品は多くの人たちによって映画化されたが、自分の作品を正しく伝えようと思って、自らメガホンを握った。楽しかった。自信作だ!」と言っているものです。のちに、『地獄のデビルトラック』は失敗であったことを認めていますが、私にとってキングの頭の中=『デビルトラック』なので、正直なところセンスは壊滅的だと思っています。


 また、自身の小説をもとに脚本を書いた場合でも、同様のことが起こります。例えば、1989年に公開された『ペット・セメタリー』は、キングが脚本を担当していますが、繰り返し登場する「お助け幽霊パスコー」のおかげで、映画版は恐怖要素が大幅減。小説は、愛ゆえに最悪の決断をしてしまう父を書いた悲しき傑作ホラーであるにも関わらず、映画は、笑顔が素敵なおせっかい幽霊に引っ掻きまわされるドタバタゾンビものであることを否定できません。


 つまり、読者がキングの小説を「怖い」と感じるのは、読者の想像力に依存する部分が強く、キングはその恐怖想像力を最大限引き出すのが天才的に上手いだけで、キングのアイディアをそのまま映像に落とし込もうとすると途端にダサくなる可能性があるのです。


 そして、『ドクター・スリープ』でもそんなダサさをしっかりと感じられます。例えば、それまでの重苦しい展開から急に「そこはかとなくダサいファンタジー展開」になることが多々あります。その「ダサさ」は、自分たちがスティーヴン・キング原作の作品を見ていることを繰り返し念押ししてくれるようです。劇中で、キングのカメオ出演を見なくとも、キングの存在を感じられるのは珍しく、貴重だと感じます。なお、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』でも、ペニーワイズがダンスするという壊滅的にダサいシーンがありますが、あれは「そこはかとなく」という微妙なさじ加減がなく、そこだけ悪目立ちしているのでキングっぽさを出すことに成功しているとは言えないでしょう。あくまでストーリー上で違和感を出す程度のダサさが重要なのです。


■3作に見る監督の思い
 『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』と『ドクター・スリープ』と『ペット・セメタリー』を見ると、監督のキング作品に対する思いと、その映像化の困難さが伝わってくるようです。ボリュームはありますが、この機会に原作の小説を手にとってみると、なぜこんなにもスティーブン・キングの作品が愛されるのか、キング原作の面白味のない映画が量産されているのか、モンスター級の名作映画が生まれることがあるのかが理解できると思います。


■中川真知子
ライター。1981年生まれ。サンタモニカカレッジ映画学部卒業。好きなジャンルはホラー映画。尊敬する人はアーノルド・シュワルツェネッガー。GIZMODO JAPANで主に映画インタビューを担当。