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「あいトリ騒動」が浮き彫りにした「マイノリティに冷たい日本社会」…京大・曽我部教授

2019年12月07日 10:22  弁護士ドットコム

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ことし夏から秋にかけて、大騒動となった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」(あいトリ)。


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慰安婦を象徴する「平和の少女像」や「昭和天皇の肖像」をあつかった作品が展示されたことをめぐっては、SNS炎上だけでなく、脅迫事件まで発生して、企画展「表現の不自由展・その後」が8月1日の開幕から、わずか3日で中止に追い込まれた。



すったもんだの末に、「表現の不自由展・その後」は、閉幕1週間前の10月8日に再開されたが、文化庁が、補助金の全面不交付を決定するなど、その影響はアーティストや美術関係者だけにとどまっていない。



この間、愛知県は検証委員会を設置して、中間報告をまとめている。県によると、トリエンナーレのあり方については、検証委員会の後継である検討委員会が12月中旬に最終報告を公表する予定だ。



検証委員会の委員で、京都大学大学院法学研究科の曽我部真裕教授(憲法)は、「あいトリ」をめぐる騒動を「表現の自由」の観点からどのようにとらえたのか。曽我部教授に聞いた。



(中間報告)あいちトリエンナーレのあり方検証委員会
(https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/259465_883960_misc.pdf)。



●「天皇」というタブーが根強くある

――今回の「あいちトリエンナーレ」の騒動をどのようにとらえたか?



「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれたこと、補助金が不交付になったことも含めて、いろいろ問題があったと思います。結果的に、あり方検証委員会(その後、「検討委員会」に名称変更)ができて、報告書がつくられました。今後の議論の素材が提供できたでの、しっかりとそれらを生かしていくべきだと思います。



――「表現の不自由・その後」が中止に追い込まれたことについては?



やはり、日本には「天皇」というタブーが、根強くあるんだということが可視化されました。中止の判断はやむをえなかったと思いますが、準備不足だった面も否めません。そうは言っても、一番悪いのは、攻撃した側です。実行委ばかりを責めるだけではいけないと思います。



――キュレーション(展示企画)については?



なかなか申し上げにくいところですが、「展示の説明が不十分だ」といえばそうだったと思います。「表現の不自由展・その後」の主催者からすると、「作品をして語らしめる」「作品そのものから感じてほしい」というスタンスだったと思います。ただし、その展示の説明を十分にしたら、批判がおさまったかといえば、微妙な感じもします。



やはり、ガバナンスに問題があったと思います。不自由展の主催者と実行委の間で、なかなか意思疎通がうまくいかなったということです。中間報告は「芸術監督の責任が大きい」という評価です。結果的に、最終責任者は芸術監督なので、そういう評価も可能ですが、実際問題としては、お互いに行き違いがあったということだと思います。



●率直な議論ができない傾向がある

――河村たかし・名古屋市長が中止をもとめる発言など、批判を繰り返したことについてはどう考えればいいのか?



かなり微妙なところです。個人的には彼の意見には反対ですが、実行委の副委員長であり、たしかに圧力や攻撃を助長したとはいえますが、違法であるとか憲法違反であるとかまでは言えないと思います。政治家たるものは、節度を持って、ということですね。政治家の倫理の問題だと思います。



一方で、河村市長の意見も少なくない人たちに支持されると思います。そして、「芸術祭は楽しいものであるべきだ」ということは、ごく普通の人たちにとっては当然かもしれません。



しかし、芸術は、既成概念を壊し、マジョリティにとって不快なことを表現することがあります。かならずしも、美しいもの、癒やされるものだけではありません。ところが、芸術というものに対する理解がかなりすっ飛ばされて、政治リーダーが素朴な感情だけで語ったのは、非常に残念でした。



――作品に対する理解、背景知識が必要だったことは?



芸術の専門家ではないので、語る資格はありませんが、表現の自由からいえば、メッセージがクリアだろうが、そうでなかろうが、表現としては「許される」ということです。そして、公権力が個別の作品の評価に立ち入らないということが大事です。もちろん、社会的な批判はあってもいいのですが、暴力的に、あるいは権力的につぶそうとすることは許されません。



その表現を許容したうえで、それぞれが感じればいい、つまらないと思えばそればいい、ということです。そういう「表現の場」を奪ってはいけません。できるだけ、いろいろな意見が社会の中にあるような状態が望ましいからです。ところが、日本は、率直な議論ができない傾向が強いのではないでしょうか。



●影響力がある人は節度がもとめられる

――政治家や芸能人が、SNS上で展示を批判したことは問題なかった?



非常に線引きがむずかしいと思います。たとえば、影響力ある人が電凸を呼びかけるのは、不適切だと思います。ただ、「こういう作品はおかしい」「賛成できない」と意見を述べることは、不適切とまではいえないかもしれない。政治家のなかでも、無関係な自治体の長の発言と、権限がある人が発言するのとでは、結論が変わってくると思います。



――無関係の自治体の長でも、SNS上で影響力がある。



影響力の働き方は、いろいろなルートがあります。有名人が言えば、それに勢いを得て一般人が強くものを言ったり、行政などの意思決定にもつながったりする場合があります。立場によるので、何とも言えませんが、一般論としては、影響力がある人は節度がもとめられると思います。



―― 一般人によるツイッターの影響については?



ツイッターの少なくとも一部は、集団分極化の世界です。いくら順序立てて説明しても、あまり理解してもらえない世界になっています。今回問題とされた映像作品も、すべて見れば、侮辱的な意図でないようであることはわかると思いますが、怒っている人たちは意図が何だろうが、そういう表現形式が許されないと言っている。もちろん、そう感じる人がいても良いですが、その表現形式が違法でない以上、世の中に存在することは許されるということです。



展覧会のクオリティについては、いろいろな評価があるでしょうが、だからといって電凸攻撃までしていいわけではありません。展覧会の評価は、まさに芸術関係者あるいは観客によります。批判されれば、ダメな展覧会だったということなので、法律家による評価は、展覧会の芸術的なレベルには及びません。



それも含めて,「キュレーションが稚拙だった」という批判もありますが、だからといって、頭ごなしに中止できるわけではありません。実際、キュレーションにたずさわった人たちの資質についても、素人には判断できません。専門家の共同体の中で評価される話ですよね。



芸術監督についても、芸術監督をえらぶプロセスがあって、その中で選ばれているわけです。結果として、批判されるようなものをつくったとしても、あとづけ的に「ダメだった」とはいえません。とりわけ、芸術部門がうまく機能しないからといって、頭ごなしに展示をいじることはできないと思います。



だからこそ、仮に政治的に偏っていたとしても、自治体がそれを支持しているという話にはなりません。そういうことが、河村市長を含めて、批判者たちには、まったく理解されないところがあります。



――理解されないことは、仕方ないのか?



この観点からは、これまで一般社会でほとんど議論されていません。「表現の不自由展」が問題になったように、背景になった公立美術館のおける展示の中止が、その辺りをあいまいにしてきたからだと思います。これだけ大事になったのだから、今後きっちり検証・整理して、美術館の自律性や、芸術の自由はどういうものか、という理解・コンセンサスをつくっていくような議論がもとめられると思います。



●「表現の自由」の意味がバラバラに使われた

――文化庁の補助金不交付については?



本当に手続き上の理由なのかどうかということですね。いろいろな事実関係の中で、そういう説明が本当に成り立つのか、ということです。



全体的にみて本当に手続き上の問題なのか。不自由展はトリエンナーレのごく一部にすぎないのに全額不交付というのはバランスを欠いていないか、といった疑問があります。文化庁は全体として不可分であると説明しているようですが、当然に不可分だとは言えないと思います。



しかも、実際に再開したわけです。そういう意味では、異例な決定なのに、あまりにも説明が不十分です。客観事情を全部みたときに本当に手続き上の理由ということが整合すべきか、隠された動機があるのではないか、審査すべきだと思います。また、仮に、形式的・手続き的な理由であっても、事後的に不交付になると、今後への影響が大きいと思います。



――不交付による「表現の自由」への影響は?



手続き的な理由ということであれば、憲法学が想定している、典型的な「表現の自由」の場面ではなく、憲法的な議論をしようとすると、複雑な議論が必要になります。他方、一定の内容の表現をしないことを条件として、補助金を出す、出さないということになってくると、「表現の自由」にかかわってくると思います。



――「表現の自由」のとらえかたがバラバラだ。



みなさん、専門家じゃないので、そこのギャップが生じるのはやむをえないと思います。不自由展中止が問題となった際、ある人たちは、芸術監督の要望を聞き入れることも「検閲」だと言っていました。たしかに「表現の自由」「検閲」という言葉が、人によって違う意味で使われて、混乱している部分もありましたね。



●マイノリティに対する「冷たい視線」をとりのぞくには?

――「検閲」という言葉も。



「検閲」という言葉は多義的で、唯一正しい「検閲」の意味というものはありませんよ。ただ、憲法の「検閲」については、判例があります。しかし、社会の中で、それ以外の意味で使うことは自由です。ただし、意味が違うと、混乱が起きるという話です。



「検閲」ならすべて許されないのか、ということもあります。安全上の理由で中止になったのも「検閲」で許されないという人もいますが、それは言い過ぎで、ある種の芸術至上主義を感じます。



もっとも、不当さをアピールするためにそういう言葉を使っている場合と、実際に中止判断が法的に見て許されるのかどうかという場合でも事情が違ってきます。アーティストが、理由の如何を問わず、作品が展示中止になったことを「検閲だ」とアピールすることは自由です。



――「検閲」という言葉がひとり歩きした?



なんでもかんでも「検閲」という言葉が使われて、混乱していたのはたしかです。前提の違う人たちの議論は、本当に丁寧にしないとなかなか成り立ちません。また、お互いがわかろうとしないといけません。



――「表現の自由」が理解されていないのではないか?



いろいろな人権全般についてそうだと思います。



日本はマイノリティに冷たい社会ですが、人権を一番必要としているのが、マイノリティなわけです。マイノリティに対する冷たい視線と、彼らが人権を主張するとわがままと捉える風潮があると連動しています。構造的な問題だと思います。



――どうすればいい?



たとえば、裁判所がマイノリティの権利を積極的に救済したり、国会が多様性を尊重する立法をすることなどで、社会の変化をあと押しできると思います。そもそも、社会には多様な人々が現に存在します。それを否定しても、現実と合いません。だから、現実的であろうとすれば、多様性を尊重していかざるをえません。それこそが「1億総活躍」だと思います。いずれにせよ、今回の騒動は、「社会にはいろいろな考えをもっている人がいる」という事実を認められない人がいるということが、浮き彫りになったんだと思います。