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「銭湯映画」は時代を映す“鏡”ーー世の中の変化に合わせて生まれた、新しい意味と物語性

2019年11月30日 14:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『わたしは光をにぎっている』(c)2019 WIT STUDIO/Tokyo New Cinema

 松本穂香主演の映画『わたしは光をにぎっている』が好評だ。一緒に暮らしていた祖母の入院を機に、ひとり東京に出てくることになった20歳の女性・宮川澪(松本穂香)が、さまざまな人と出会いながら、自分の“居場所”と“やるべきこと”を見つけてゆく物語。その監督である中川龍太郎は、リアルサウンドのインタビューで「人の感情よりも、それを司る空間を描きたかった」と語っている。“感情”よりも“空間”。そこで重要になるのは、本作の舞台となる“空間”――澪が東京で身を寄せる父の親友・京介(光石研)が経営する“銭湯”だ。内向的で人付き合いが苦手な澪は、やがて自らもその銭湯で働くようになる。彼女たちが暮らす街は、昔ながらの飲み屋街として知られる東京・葛飾区の立石に設定されているが、“銭湯”の外観及び内部は、東京・清瀬市にある「伸光湯」(現在は休業中)で撮影されたという。


【動画】『わたしは光をにぎっている』銭湯の開店前準備シーン映像


 それにしてもここ最近、銭湯を舞台とした日本映画をよく観ているような気がする。物語の舞台としてのみならず、その“空間”そのものが大きな意味を持つ昨今の“銭湯映画”。無論、往年の名作ドラマ『時間ですよ』シリーズ(TBS系)を筆頭に、いわゆる“庶民の暮らし”を象徴するものとして、銭湯を舞台としたドラマや映画は、これまでも数多くあった。けれども今日の銭湯は、もはや我々の暮らしの中心にあるものとは言い難く、むしろ“再発見”すべき場所として、新たな意味や物語性を持ち始めているように思うのだ。その意味で、ひとつエポックメイキングとなったのは、やはり映画『テルマエ・ロマエ』(2012年)と、その興行的な成功だろう。阿部寛扮する古代ローマの浴場設計技師・ルシウスが、なぜか突然日本の銭湯にタイムスリップ。そこで日本の銭湯の素晴らしさを、文字通り“発見”する物語。ちなみに、ルシウスが最初にタイムスリップして日本の銭湯に現れるシーンは、東京・北区の「稲荷湯」で撮影されたようだ。そこには、震災後という時代的な雰囲気も、少なからずあったのかもしれない。見ず知らずの人々が、緩やかに交流する“パブリック”な場所としての“銭湯”。それを我々は、ルシウスともども“再発見”したのだ。


 以降、銭湯を舞台とした物語は、『時間ですよ』のような“ホームドラマ”ではなく、先述の中川監督が言うように、「昭和の時代には存在したかもしれない、人と人が繋がれる空間」としての意味合いを強く持ち始めていく。たとえば2016年、『孤独のグルメ』(テレビ東京)と同じスタッフが生み出した『昼のセント酒』(同)というドラマ。戸次重幸演じる主人公が、外回り営業のついでに都内各地の銭湯を訪れるという趣旨のこのドラマは、日常のなかに潜む非日常、あるいは町のエアポケットのように、昔から変わらずそこにある各地の銭湯を“再発見”すると同時に、その居心地の良さと快適さを改めて我々に感じさせてくれるようなドラマだった。そして、同年の秋に公開された、宮沢りえ主演の映画『湯を沸かすほどの熱い愛』。夫婦で銭湯を営みながらも、夫の失踪後は銭湯を休業し、パートで働きながら娘を育てあげた主人公が、末期がんであると診断されるところから物語が動き始める本作は、銭湯の“再建”と家族の“再生”が重ね合わせられた、ある意味とても現代的な映画となっていた。


 その外観は、栃木・足利市の「花の湯」で、内部は東京・文京区の「月の湯」(現在は廃業)で撮影されたという本作で商業映画デビューした中野量太監督は、“銭湯”を自身のデビュー作の舞台とした理由について、東京銭湯のインタビューで次のように語っている。「知らない人同士がひとつの湯船に入ってくつろいだり、癒されたりする銭湯という場所が、自分のテーマにどんぴしゃに合ったからです」。“知らない者同士”が、緩やかに交流する場所としての“銭湯”。それは、冒頭に挙げた映画『わたしは光をにぎっている』にも共通するテーマである(それは、昨今の“サウナ・ブーム”についても言えるだろう)。かくして、かつての“ホームドラマ”とは異なる、新たな“ふれあいの場所”として銭湯を描いた本作は、多くの人の感動を誘うと同時に、その衝撃的な結末と、そのタイトルが本当に意味するものが大いに物議を醸しつつも、結果的に翌年の日本アカデミー賞で最優秀女優賞をはじめ6部門に輝くなど、一定の評価を獲得した。しかし、この映画は、懐かしさや親しみやすさだけではない、現在の銭湯が置かれているシリアスな状況も、ある意味浮き彫りにしてみせたのだった。施設の老朽化や人員不足、そして何よりも利用者の激減など、現存する銭湯の多くは、経営的な問題を抱えているのだ。


 実際、『湯を沸かすほどの熱い愛』に登場する銭湯は、もう長いあいだ休業中という設定だった。というか、そもそも主人公が“末期がん”という設定は、観る者に確かな“終わり”を予感させるものであり、それはある意味“銭湯”そのもののメタファーであったと言えるだろう。さらに言うならば、映画『わたしは光をにぎっている』のキャッチコピーである「どう終わるかって、たぶん大事だから。」が、いみじくも表しているように――そう、近年の“銭湯映画”は、知らない人同士の“交流の場”というポジティブな意味合いだけではなく、“失われつつある場所”という意味合いも、強くあるのではないだろうか。そこに、どれほど居心地の良さを覚えようとも、それはもはや、いつまでも続いていくものではないだろうという“予感”。それが今日の“銭湯映画”に、深い陰影と奥行きを与えているように思うのだ。しかしながら、そんな昨今の“銭湯映画”のトレンドに、新たな一石を投じる強烈な映画が登場した。昨年の東京国際映画祭スプラッシュ部門で監督賞に輝いて以降、世界各地の映画祭で賞に輝くなど、国内外で高い評価を獲得している田中征爾監督の映画『メランコリック』(2018年)だ。


 名門大学を卒業したものの、ろくに働きもせず実家暮らしを続けていた青年が、ひょんなことから近所の銭湯でアルバイトをすることになる物語。千葉・浦安市の「松の湯」をロケ地として撮影された本作(ちなみに、この銭湯は映画『ケンとカズ』のなかにもチラリと登場する)は、銭湯という“空間”に新たな解釈を与える画期的な一作となっていた。たまたま訪れた近所の銭湯で、高校の同級生の女の子に再会した主人公。その偶然に気を良くした彼は、その後銭湯に通い続けるどころか、そこでアルバイトを始めるのだった。自宅にひきこもりがちで、他者と接する機会もほとんどなかった彼の物語は、そこから急速に動き始める。ここまではいいだろう。


 しかしながら、彼はやがて知ることになるのだ。その銭湯が閉店後、裏社会の死体処理場として使われていることを。そして、彼以外の従業員は、その事実を知るどころか、実際にその作業に従事していることを。人が大の字になって横たわれる広さがあり、水回りも良いので後片付けも楽。しかも、最後はボイラーで焼くこともできる――なるほど、これほど好都合な場所が、他にあるだろうか。倫理的なことはさておき、これは新たな“発見”だったと言えるだろう。しかも、経営的な赤字を補う、それなりの収入も得られるという。一見すると、ごく普通の昔ながらの銭湯であるにもかかわらず、そこには利用客も知らない深い“闇”が広がっていた。そう、昔と同じであるはずなどないのだ。時代は刻々と変化し続けているのだから。こうして『メランコリック』は、“再発見”や“ふれあいの場所”としての銭湯から、さらに一歩進んだ意味合いを、映画のなかで描き出してみせたのだ。


 歌は世につれ、世は歌につれ……とは、歌謡曲の世界でよく言われることだけど、“銭湯映画”もまた、世の中の変化に合わせて、緩やかに変化を遂げている。かつての『時間ですよ』のような賑やかな場所から、“再発見”される場所へ。さらには、失われつつある場所、そして利用客ですら知らない、秘密の仕事が行われている場所へ。来年に東京オリンピックの開催を控えた今、都市の再開発や外国人客の受け入れなど、銭湯はまたしても新たな変化のときを迎えている。そのなかで失われてゆくのか、あるいは新たな形で生まれ変わってゆくのか。ちなみに、『メランコリック』の上映会を行った東京・渋谷区の「改良湯」や、『わたしは光をにぎっている』のトークイベントを行った東京・杉並区の「小杉湯」など、入浴以外のイベントに積極的な銭湯も、現在は数多く存在している。そして何よりも、そんな変化する時代のなかで、“銭湯映画”は果たして今後、どんな物語を描き出してゆくのだろうか。時代を映す“鏡”としての“銭湯映画”に、引き続き注目していきたい。


(麦倉正樹)