■「強者」の肉食獣と「弱者」の草食獣が共存する動物たちの世界が、現実の社会問題を想起させる
2016年より『週刊少年チャンピオン』で連載が開始され、『マンガ大賞2018』や『文化庁メディア芸術祭』マンガ部門新人賞など多くの賞を獲得した板垣巴留による漫画『BEASTARS』。アニメ版が放送・配信開始された今こそ、2010年代を代表する「動物版ヒューマンドラマ」漫画と言える本作を紹介したい。
二足歩行の動物たちが暮らす世界を舞台にしたディズニー映画『ズートピア』と比較されることも多い本作(ただし前身となる連載『BEAST COMPLEX』のほうが発表は先)ではあるが、大きな違いは「肉食獣の草食獣への食欲」だろう。『BEASTARS』において、「強者」とされる肉食たちは本能を抑えながら暮らしており、「弱者」の立場に置かれる草食は彼らに怯えつつ共生しているのだ。現実の「ヒト科」社会とはかなり事情が異なる。
しかしながら、この作品の面白い点は、動物たちの世界を通して、ステレオタイプやジェンダーにまつわる問題、表現「配慮」への反発、そして共生社会の難しさといった現実のソーシャルイシューを想起させるところだ。
■草食獣への食欲を抑え込まれた肉食獣。共存共栄志向の中でもなくならない「食殺」事件
寮制高校を舞台とする漫画『BEASTARS』の物語は、学園内で起こった生徒間の「食殺」事件、そしてオオカミのウサギへの恋という2つの禁忌で始まっていく。
まず、基本的な世界観を説明しよう。作品にヒト科の姿はなく、舞台となる街には鳥類を含む肉食と草食が半々のバランスで生活している。つまり、フラミンゴからネズミ、シマウマからヒョウまで、生態も体長も異なる種族がともに暮らしているのだ。
それゆえ、社会には数多のルールが存在している。最大のタブーは動物を食べて殺す「食殺」であり、公の場で肉食獣が草食獣に牙を剥くことすら法で規制されている。肉食も禁止されているため、ライオンやトラなどの肉食獣はタンパク質を豆や乳製品から摂取する文化が整備済みだ。それでも、肉食獣が草食獣を食べる事件は無くなっていない。むしろ、共存共栄志向が高まるなか「食殺」が増えているとされる。
「お前たち肉食動物にとって俺たちはしょせん食い物なんだ そんなわけがあるか 下等なのはそっちの方だぞ お前ら肉食獣なんてみんな怪物だ」(第1話より、肉食獣に食殺されたアルパカのテムの言葉)
■死と隣り合わせで生きる草食獣。「弱者」のレッテルに抗い、「対等な瞬間」を味わおうとする者も
「弱者」とされる草食獣は死と隣り合わせの日々だ。身体の大小と強弱がもたらす影響も大きい。たとえば、学校の廊下でゾウの生徒とぶつかったリスは、それだけで全身を複雑骨折してしまう。経済界を牽引する企業幹部も肉食が多いようで、草食の地位向上や英雄的存在を求める声も大きいことがわかる。他方、「弱者」のレッテルから生じる問題も度々描かれている。「か弱く可哀想な存在」として扱われ続けた小型草食獣の女子が「対等な瞬間」を味わうために男たちとのセックスを繰り返すエピソードは、そのまま人間社会のジェンダーやフェミニズムの問題にも当てはめられそうな密度すら感じさせるものだ。
■「肉食が報われない時代」「草食至上社会」という不満や、「有害な男らしさ」問題を想起させるライオンの描写
「強者」とされる肉食獣たちも不満を募らせている。舞台となる寮制高校において、近づいただけで草食におびえられる日々を送る肉食の生徒たちは、他者に危害を加えぬよう本来備わっている肉体の力も抑えている状態だ。隣人への食欲を抱える存在として「怪物」だと貶められる場面もある。肉体的・社会的な「強者」への抑圧も強い社会なのだ。作中では、共生志向の世の中を「肉食が報われない時代」「草食至上社会」と表す肉食獣も散見される。
一方で興味深いのは、「強者」のステレオタイプを演じつづけたライオンの物語だ。「百獣の王」であることこそ肉食獣の幸福だと教えられた彼は、草食獣たちからの恐怖の視線によっても虚勢を誇大化させた結果、自らが演技した「強者」像に呑み込まれるアイデンティティ不全に陥る。近年注目が高まっている「有害な男らしさ」問題を思い出したりはしないだろうか。
■草食への「配慮」表現と、「配慮」を強める風潮への反発
イメージがもたらす影響の考慮も定着しているようで、「配慮」に関する描写も目立つ。高校の演劇部ですら、肉食獣演じる死神のキャラクターが草食獣の魂を狩る公演は「タブー視されてきた配役」「あまりに現実そのもの」だと指摘される場面がある。
他方、「配慮」に偏る風潮こそが本当の悪を取り逃がすとする反発も描かれる。言うまでもなく、SNS上の批判によってコンテンツ取り下げが連続するキャンセルカルチャー問題や、それを恐れてリスク回避に走る企業群など、今日の現実社会で行なわれる議論と同期するかのような内容だ。
■肉食の本能を抱えながら小さなウサギに恋したオオカミの男子高校生。「無害なオオカミ」になることは可能なのか?
「レゴシが突如出会ってしまったものは 小さな小さな 1匹のウサギと 自分の本能だった」(第3話より)
あまりに多様な世界で禁忌の初恋に落ちてしまった者こそ、『BEASTARS』の主人公、ハイイロオオカミのレゴシだ。イヌ科最大の強靭な身体を持つ彼は、無口なこともあって草食の生徒から特に恐れられる存在だが、ある夜、ドワーフウサギのハルに襲いかかり食べようとしてしまう。それが未遂に終わったあと、レゴシに残されたものは、肉食獣が抱く本能への嫌悪と、小さなウサギへの恋心だった。
『BEASTARS』の世界において、異種族カップルはマイノリティーとされる。なかでもレゴシとハルのような、大型肉食獣と小型草食獣の組み合わせは「食殺」のリスクが宿るタブー領域だ。その想いは恋なのか食欲なのか、多くの人が疑ってかかる。当のレゴシは、苦悶しながら草食獣たちの立場に考えを巡らせるようになった結果「無害なオオカミ」を目指し始める。
現実社会で例えるならリベラルな姿勢と言えるが、無論、一筋縄ではいかない。周囲からは「偽善」「弱者ごっこ」「同族嫌悪」などと批判を受けるし、「草食全体を気にかけることでウサギへの恋を発散している」という指摘も受ける。レゴシと食事をともにするだけで身体が震えてしまうハルにしても、想いを寄せてくる彼をきつく否定する。
「常に死と隣り合わせの動物の気持ちなんて知りもしないくせに 誰かに愛されることもないまま肉食に食い殺されるかもしれない そういう不安があなたにはないんだから 私のこと理解するなんて一生無理よ」。
■「草食との理解」を探るオオカミと、「肉食の本能」と直面するアカシカ。共生を謳う矛盾だらけの世界に対峙する高校生たち
種族の違いと本能が大きな影を落とす『BEASTARS』の世界だが、これで平等と相互理解を目指すなど、無理があるとお思いだろうか。じつは、矛盾する「大人」への不信こそ、本作の一大テーマだ。成人した肉食獣の多くは、分別をわきまえて生活する一方、裏社会の市場で草食獣の死肉を買って食べているのである。もちろん主人公のレゴシは大人たちの嘘に憤慨し、自分なりの「草食との理解」を探ってゆく。
一方、もう一人の主人公とも言える、草食にして学園のカリスマ、アカシカのルイは、レゴシとは反対の道をたどりながら「肉食の本能」へと直面する。共生を謳う矛盾だらけの世界で高校生たちが織りなす恋と友情、衝突と成長のドラマは、紛うことなき青春劇と言えるだろう。
■私たちと「近くて遠い」作品世界。本当の多様性とは、理解とはなんなのか?
『BEASTARS』の世界を一部紹介してみたが、現実社会と投影してしまう要素はあっただろうか? 前述してきたように、「強者」と「弱者」の構図は、男性や女性といったジェンダー差異による問題、はたまた少数人種などの社会的マイノリティーの境遇にも一部似ているかもしれない。
しかしながら、結局のところ、『BEASTARS』は人間社会とは異なる。たとえば、年上のハルに対するレゴシの恋は「ロリコン」と形容され、医師からは「関係を断ち切れ」と厳重注意される。今日の日本社会において、長身の男子高校生が小柄で童顔な先輩女子に恋をしたとしても、そうした反応を大真面目に受ける事態はレアケースだろう。
動物たちの複雑なドラマは、私たちと「近くて遠い」。だからこそ、読み手に普段よりも自由で柔軟な思考をもたらす力があるのではないだろうか。本当の多様性とはなにか、理解とはなんなのか。現実世界の制限を飛び越えることで読者に新たな視点を授ける『BEASTARS』は、フィクション表現の可能性を象徴するような意欲作だ。
(文/辰巳JUNK)