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『HUMAN LOST 人間失格』が描く、SFダークヒーローと“太宰文学”の深い結びつき 『AKIRA』『踊る大捜査線』のオマージュも

2019年11月28日 13:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2019 HUMAN LOST Project

 いまもなお、その作品によって多くの読者に影響を与えている小説家・太宰治。その代表作にして最後の完成作となったのが『人間失格』だ。そんな、幼少期から27歳まで、廃人になっていく一人の男の自意識を綴っていく昭和23年(1948年)発表の小説が、まさかアニメ化され、“近未来のディストピア化した日本で、異形のダークヒーローが熾烈なバトルを繰り広げる”といった内容の、SFアクション映画として生まれ変わることになろうとは、太宰はもちろん、誰もが予想できなかったことだろう。


【動画】『HUMAN LOST 人間失格』本予告


 ここでは、そんな凄まじい飛躍を見せつけた、本作『HUMAN LOST 人間失格』の内容を追いながら、太宰の小説『人間失格』との絶妙なつながりについて語っていきたい。


 本作の起点になっているのが、スーパーバイザーを務めた本広克行。作中の徹底した管理・監視社会のイメージは、自身が総監督を務めたアニメーション作品『PSYCHO-PASS サイコパス』を連想させるところが多い。


 そして監督は、『アフロサムライ』で国際的な評価もある木崎文智が担当。フル3DCGによるアニメーションは、『GODZILLA 怪獣惑星』シリーズや『Star Wars: Resistance』などの大作が続くポリゴン・ピクチュアズが制作している。


 なかでも“肝”となっているのは、太宰の文学性と日本のSF、CGによるアクションの魅力を併せ持った脚本を書くことを依頼された、小説家・冲方丁であろう。この難題を突きつけられながら、物語を成立させた冲方の今回の仕事は、本作に大きく貢献している。


 舞台となるのは、医療制度が発達し、“無病長寿大国”となったことで、元号が継続し続けている“昭和111年”の日本。その高度な医療システムとは、無線ネットワークを利用し、遠隔から適切な医療行為や体調管理を迅速に行うというもの。これによって日本国民は、半ば“死”から解放されているのだ。


 そんな医療革命により、1日19時間もの労働が実現したことで、本作の日本は、再び経済的な繁栄を実現している。死なないで延々と働き続ける……。それは一般的な労働者たちにとって、とんでもないディストピアである。さらに環境に配慮しない経済活動が続いたことで深刻な汚染が進み、特権階級の住むクリーンなエリア“インサイド”の外側では、労働者たちがガスマスクを装着して職場に通勤している状態だ。


 長寿や勤勉さを誇る国民性というのは、もともと日本が強みとしていた部分だったはずだが、それらがここではグロテスクなものへと変貌してしまっているのが面白い。環境保護の軽視や、残業が当たり前となっている状況、経済格差など、現在の日本の社会問題が何一つ解決されないまま、経済発展に執念を燃やし、行き着いた先が、この悪夢のような長寿・労働社会なのだろう。そんな皮肉めいた設定が、われわれが生きる現実の社会への痛烈な風刺となっている。


 そんな日本で繰り広げられるのが、市民を管理する当局と、若者たちを中心とする反逆者のグループとのバトルだ。前半の見どころとなるのが、『AKIRA』を想起させる、未来型バイクに乗ったチームの暴走シーン。持たざる者たちである彼らは、包囲網を突破して、富裕層の暮らす“インサイド”に突入しようとする。その入り口となっているのがレインボーブリッジ。当局は暴走チームの侵入を防ぐべく、そこを封鎖しようとする。この描写は、本広克行監督の『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ! 』のセルフオマージュともなっていて、楽しい部分だ。


 そして木崎文智監督の、容赦のないバイオレンス演出が鮮烈だ。異形のヒーローと警察の装備との競り合い、そして異形 VS. 異形の凄絶な戦闘など、かすり傷などでは済まない攻撃の応酬によって、緊張感と終末感が強められている。


 物語の面では、このようなアクションや近未来の社会の描写が散りばめられつつも、太宰の『人間失格』を踏襲し、主人公・大庭葉蔵(原作では葉蔵)の自意識がテーマとなっているのが特徴的だ。そして、原作に登場する登場人物の名前が、本作のキャラクターに対応し、その性質を受け継いでいる。余裕があれば、小説を読んでから本作を鑑賞すると、より深くまで楽しめるはずである。


 それでは、本作におけるキーワード、“人間失格”とは何なのか。それは、文字通り“人間の姿でなくなってしまうこと”を意味している。作中の日本国民が常時接続されている医療システムには、じつは重大過ぎる欠陥があった。システムと肉体の接続をカットすると、制御されていた体組織が暴走を開始し、化け物のような姿に身体が変化してしまうのだ。つまり、日本国民は死を克服する代償として、すでに化け物に変えられていて、技術の力で体内の活動を押さえつける操作が常時行われていることで、人間の姿かたちをなんとか保っていたということである。ここでは本作は、人間がおそろしい存在に変化する恐怖と悲しみをショッキングに描いた『デビルマン』に接近している。


 システムの影響から逸脱した葉蔵は、そのような異形の姿に変身することで強大なパワーを得る、異能のダークヒーローへとなっていく。ここで生じる、人間から離れていくという苦悩は、『仮面ライダー』シリーズや『サイボーグ009』など、いくつものヒーロー作品で、同様の苦悩を表現した石ノ森章太郎作品にも見られ、日本の後進の作品に受け継がれた定型的な要素といえよう。


 だが、“自分は人間なのか、そうでないのか”という苦悩は、もともと太宰が小説で書いた、周囲の人々と自分が違うと感じることで悩み続けた主人公の心情と重なってもいるのだ。


 小説『人間失格』は、そうやって自己嫌悪を重ねながら転落の道を歩む主人公の日々を描いている。だが同時に、ある登場人物によって、主人公の苦悩とは裏腹に、とても良い人間だったとも語られているのである。


 社会に生きる多くの人々は、自分が紛れもなく“人間らしい人間である”と信用しきっている。しかし主人公は、人間であろうとして、それでも人間性を獲得できないという強迫観念にさいなまれている。このような繊細さを持ち、周囲の人間から疎外されていると感じる者こそが、じつはより“人間的”なのではないだろうか。


 哲学者ブレーズ・パスカルは、「人間は一本の葦に過ぎない。 だがそれは考える葦である」と記した。 これは、人間は本質的に孤独で弱い存在だということを示すとともに、ものを考えることのできる素晴らしさを持っているということを表している。つまり、考え悩むこと自体に人間らしさが宿っているということだ。


 本作で日本に住む人々のほとんどは、人間の姿をしてはいる。だが、その中身は異形の存在に、知らず知らずにすり替えられてしまっている。それは多くの人々が、自分の生きる意味などを考えず、与えられた境遇のなかで疑問を持たずに、ただ生かされていることで、人間性を奪われていることを表しているのではないだろうか。それに比べると、むしろ人間のかたちを失い、苦悩のなかで自分の生き方を選びとっていく葉蔵こそが、人間の生き方を体現しているように思えるのだ。このように、人々の考える“人間らしさ”をひっくり返そうとすることこそが、じつは太宰が『人間失格』に込めた想いだったのかもしれない。


 このように考えると、SFダークヒーローと“太宰文学”という、一見すると全く違うと思えるものをベースに描いた本作の要素は、じつは深いところで結びつけられていると感じられるのである。こういった奥行きがあることが、本作の価値を高めているといえよう。


※大庭葉蔵のぞうは旧字体が正式表記。
※木崎文智の「崎」は「たつさき」が正式表記。


(小野寺系)