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深田晃司監督初のドラマ『本気のしるし』、“わかりにくさ”から生まれる独特の中毒感

2019年11月19日 10:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『本気のしるし』(c)星里もちる・小学館/メ~テレ

■退屈な男と危険な女が出会い、ふたりは地獄へ堕ちていく


 もし打ち上げ花火があったとして、住宅街の真ん中にあるような公園で、夜中にそれを上げるかどうか。たぶん大抵の人はやらない。騒音が気になるし、近所迷惑になる。それが世間の常識というものだ。けれど、この物語のヒロイン・葉山浮世(土村芳)はまるでそんなことを気にしない。諌める主人公・辻一路(森崎ウィン)に対して「つまらないの」と小さくふてくされ、隙をついて勝手に打ち上げ花火を上げてしまう。禁止されていることでも、やりたいと思ったらやる。無計画で、無軌道で、だからこそほっておけない、魔性の女だ。


 ドラマ『本気のしるし』(メ~テレ)が面白い。『淵に立つ』で第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞した深田晃司監督がメガホンをとり、『レディ・プレイヤー1』でハリウッドデビューを果たした森崎ウィンが主演を務める。メ~テレでは、石井裕也監督の『乱反射』、今泉力哉監督の『his~恋するつもりなんてなかった~』など、近年実力派の映画監督とタッグを組んだ作品づくりが目立つが、今作もその系譜に連なる秀作だ。


 原作は、星里もちるの同名漫画。運転していた車が踏み切りで立ち往生し、あわや電車と衝突の危機に瀕した浮世を、偶然通りがかった辻が救い、そこからふたりの名前のつけられない関係が始まっていく。


 近年の人気ドラマのメソッドは、スピード感ある編集とハイテンポな会話が鉄則。だが、深田監督のつくるドラマはそれらと一線を画す。血が沸騰するような“熱狂”的な面白さではない。むしろ何だか掴みどころがないままに、その手ざわりを探っていたら、いつの間にか手のひらが真っ赤に膨れ上がっていた“低温火傷”のような面白さだ。


 とにかく出てくる登場人物がみんな奇妙なのだ。中でもヒロインの葉山浮世は名前通り浮世離れにも程がある。お金にだらしなく、すぐバレるような嘘を平気でつき、かと言って悪辣というわけではなく、借金取りの取り立てに怯え、言われるがままに風俗に沈められそうになるなど、とろくて愚かで隙だらけ。よく気が利くとか、おしゃべりが上手とか、そういう長所もない。はたから見れば、地味で垢抜けない、十人並みの女性だ。


 だが、そこが男たちを惹きつける。男の庇護欲を掻き立て、いつの間にか彼女といる時間に安らぎを覚える。黒木華と同じ京都造形芸術大学映画学科俳優コースで演技を磨いた土村芳が、この得体の知れない女を魅力的に演じている。


 そんな浮世に振り回される主人公の辻も、やはり奇妙だ。一見すると真面目なサラリーマンだが、同じ職場の細川先輩(石橋けい)とみっちゃん(福永朱梨)に二股をかけ、しかしどちらに対しても本気ではなく、悪びれる様子もない。だからと言って、軽薄なお調子者でもなく、赤の他人である浮世にお金を貸したり、トラブルがあるたびに駆けつけたり、義理堅い一面も持ち合わせている。


 不可解なのが、その行動が下心ありきではないからだ。辻は浮世に手を出さないし、むしろ苛立たしげに声を荒げる場面の方が多い。原作ではモノローグがあることで、もっと辻の内面を容易く読み取れるのだけど、ドラマではそういったわかりやすい解説はあえて排除された。その分、平坦な毎日に突如現れた浮世という刺激物に、どうしようもなく惹きつけられてしまう理由を丁寧に表現しなければならないのだが、森崎ウィンはこの難しい役どころを、よく理性的に演じていると思う。


 まるで本心のわからない辻と浮世。ただふたりがずるずると地獄に堕ちようとしていることだけはわかるから、ますます目が離せなくなる。


■簡単にわからないからこそ、わかりたいという心理が生まれる


 こうした奇妙な世界観を築き上げているのが、異才・深田晃司だ。今作では、テレビドラマには欠かせない劇伴がほとんど用いられていない。生活音のみで淡々と描かれていくので、視聴者はまるで辻と浮世の転落劇を覗き見しているような感覚になる。また、劇伴がほとんどないからこそ、生活音が異彩を放つ。印象的なのが、辻の部屋にある水槽の音だ。特に第2話で、水槽越しに辻と細川先輩のやりとりを映し、その声を水音でかき消す演出は、何とも不穏だった。絶え間なく流れる水の音が通奏低音となって、不気味さを引き立たせている。


 そして、テレビドラマでは当たり前に使われているカットバックがほとんど使われていないのも特徴的だ。一般的に、二者の会話を撮るとき、話し手と聞き手、それぞれのアップを交互に切り返すことで、お互いの心情を映像で切り取り、編集のリズムを生む。だが、今作では多くを引きの画で処理し、どちらかが話しているときに、もう一方の顔はほとんど映らないことが多い。こうした「あえて映さない」美学が、今作では随所に見られる。顔が見えないことにより、視聴者はおのずと今どんな表情をしているのかを想像する。わからないことが、逆にわかりたいという心理を生むのだ。


 顕著だったのが、第5話のラスト。結婚をちらつかせるも「ごめんなさい。今の本心じゃないの。やっぱり今まで通りでいましょう」とすがる細川先輩の表情はまったく映らない。彼女がどんな顔をしているかわからないまま、その背中で第5話はエンドを迎える。これが、一瞬でも彼女の表情を抜いてしまったら、途端に凡庸なシーンになっていたはずだ。徹底的にわかりやすさが求められる昨今のテレビドラマにおいて、深田監督の「わかりにくさ」は独特の中毒感を生んでいる。


 何より非凡なのが、原作の巧みなアレンジだ。監督自身が長年映像化を熱望していただけあって、物語そのものは原作に忠実な展開となっている。大きく違うのは、辻の会社が原作では文具店だったのが、ドラマでは玩具メーカーに変更されていること。そして、辻がザリガニを飼育していることだ。


 冒頭で紹介した花火シーンは、辻が玩具メーカー勤務だから生まれた場面。ワンシーンで辻と浮世の性格の違いを表す秀逸なアイデアだったと思う。また、ふたりが初めて出会ったコンビニで浮世が買った商品は、原作では冷凍ハンバーグだったが、ドラマではしゃぼん玉の玩具になっている。ふわふわと行きどころがなく、ふれたら簡単に壊れるしゃぼん玉は浮世のキャラクターを代弁しているし、何よりその儚さがふたりの未来を暗示しているように思えてならない。


 水槽の中で飼われたザリガニは、辻自身のメタファーだろうか。エサが少なければ平気で共食いもする凶暴なザリガニ。退屈な日常に飼い慣らされた辻自身の獰猛さや破滅願望が、清潔な水槽の中で暮らすザリガニと重なるものだとしたら。この先に待っているものは、穏やかではないだろう。


 静かに狂う人々の冷めた高熱に、気づけばヒリヒリと胸を焼かれる異色の恋愛サスペンス。地上波では愛知・岐阜・三重の東海3県と神奈川(テレビ神奈川)でしか放送されていないが、各話放送終了後にはTVer、GYAO!で配信も行っており、現在は第1話からの見逃し配信が無料で視聴できる。埋もれさせるには惜しい秀作だけに、ぜひ今からでもチェックしてほしい。(文=横川良明)