2019年11月14日 15:32 弁護士ドットコム
狭い空間、狭い人間関係の中で、ひたすら司法試験の勉強を続けるロースクール生たち。彼らはどんな思いを抱えているのか。今回、ロースクール出身の加藤渡さんが作った小説をお届けします。
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この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません
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「…飛び降りなくてもよかったのに」
僕の言葉に、真紀子はちらりとこちらを見ただけで何も言わなかった。僕と真紀子は、自習室棟の休憩室にいた。
ロースクールの同級生である木下が法学部棟の屋上から飛び降りた、という知らせを受けたのは二日前、司法試験まであと一か月あまりという時期のことだった。受験に追い詰められてしまったのだろうということは誰の目にも明らかだった。特別親しいわけではなかったけれど、木下の自殺未遂は、彼と同じ受験生である僕たちに深い衝撃を与えた。
「死んだら終わりなのに…何も、飛び降りなくたっていいのに」
言っても仕方ないとわかってはいたけれど僕は、繰り返さずにはいられなかった。
「終わりにしたかったんでしょ?正直、私も気持ちわかるよ」
耳を疑った。ローで出会った真紀子と付き合って1年半ほどが経つが、いつも前向きで努力家な彼女がそんなことを言うなんて、信じがたかった。
「本当に?死にたくなる気持ちが?」
彼女は小さく頷いてから、口を開いた。
「自分、何してるんだろうって思うこと、ない?同い年の子たちは皆もうずっと働いてて、キャリア積んだり結婚したり出産したり、生産的なことをして社会に参加してるのに。自分は親に大金出してもらって働きもせず勉強だけして、でもいつ受かるかも全くわかんなくて将来が見えなくて…もう、疲れた」
「でもさ、何浪もしてる人だってたくさんいるわけだし」
僕が反論をすると、真紀子は力なく息を吐いた。
「そういう風に、下には下がいるみたいに考えるのは…」
彼女が言い終わる前に突然、勢いよく扉が開いた。
「ねえ知ってる!?木下くんが飛び降りたんだって!」
入ってきたのは大原さんだった。真紀子が溜息を堪えるように顔をしかめた。年齢不詳ではあるけれどおそらく30代後半から40代前半くらいであろう大原さんは、主婦だったが離婚したことなどをきっかけにロースクールに入学したらしい。大原さんはもともと僕らの1学年上の先輩なのだが、去年の司法試験に落ちてしまい、そのまま自習室に残って勉強を続けていた。
年齢のせいか性格のせいかはわからないが、やや独善的なところがある大原さんのことを、真紀子は嫌っている。けれどもちろん自分が嫌われていることなど知る由もない大原さんは、僕らの座っていた椅子に勢いよく近づいてきた。
「信じられない!だって木下くんって別に成績も悪くなかったわよね?むしろ優秀だったじゃない?私ほんとにもう、びっくりしちゃって…ねえねえ、それでね、私、思ったんだけど、皆で木下くんに、お見舞いの品でも贈った方がいいんじゃないかしら?」
「やめた方がいいと思いますよ」
真紀子は顔を上げることなく静かに言った。
「そうかしら?でも…」
「彼は、自分が皆の勉強時間を奪うようなことになるのは嫌だと思います」
吐き捨てるように言い放った真紀子の顔を、僕は驚いて見つめてしまった。彼女はいつも、大原さんとの関わりを極力避けるか当たり障りなく接するかのどちらかなのに。今回はよほど、我慢ができなかったのだろう。
大原さんは不意を突かれたように一瞬黙った後、口だけで微笑んだ。
「…さすが、予備に受かってる人は、私みたいな浪人生とは、時間の使い方が違うのね」 「そうやって人を成績でしか見ないあなたみたいな人がたくさんいるから、彼が、あんな風になっちゃったんじゃないの?」
真紀子が声を荒げ、立ち上がって部屋を出て行った。僕は一瞬凍りついた後、大原さんと目を合わせないように会釈して、急いで彼女の後を追った。
泣きながら自習室棟を飛び出していた彼女に追いついたのは、法学部棟の入口あたりだった。
「真紀子」
彼女の腕をつかみ、近くのベンチに座らせた。
「真紀子の気持ちはわかるけど、大原さんも直前期で追い詰められてるんだよ。しかも、あの人は二回目だしさ」
「わかってる、わかってる。大原さんが嫌だっただけじゃなくて…この空気が辛いの」
「この空気?」
「ストレートで受かった人はすごい、予備抜けはもっとすごい、そうじゃない人はちょっとね、みたいな、この空気」
「でも、それは仕方ないよ…」
「去年の年末にね、ゼミの忘年会で、予備で受かって今もう四大事務所で働いてる同級生に久しぶりに会ったの。そのときに彼がね、ローに行くなんて負け組だ、みたいなことを言ってたの。彼からしたら、司法試験落ちるなんてありえないぜくらいの感覚なんだろうね。実際、そんなようなことも言ってたし」
「うん…」
「そういう感覚はおかしい、合格までの時間とか成績とか就職先なんかで人の価値は決まらない、そもそも皆おんなじ価値を持ってるんだって、思ってるつもりではいる。でも、私も、どっかで大原さんのこととか見下してる気がする。何回も受験してる人を見て、自分はこうはなりたくないって気持ちがないって言ったら嘘になる。自分はまだマシだなってどっかで思ってる。そうやって下を見て安心してるところがあるくせに、自分の状況には劣等感しかなくて…」
その後、自習室に戻って勉強をすると言い張る真紀子を説得し、いったん短時間でも自宅に戻って休むべきだと引っ張るように彼女を大学のすぐ裏のマンションまで送って行った。
地方から上京して、生活費や家賃の仕送りも受けている彼女は、実家暮らしの僕よりも、親に対する罪悪感が強いのだろう。
自習室棟に戻ると、入口で上田さんに出会った。彼は今までに4回受験をしている。つまり、今年が最後のチャンスという崖っぷちの状況にある。その割にいつも飄々としていて誰に対しても変わらぬ態度で接する彼が僕は好きだった。
「清水、しけた顔してんなぁ」
いつもと同じ上下のジャージ姿で、スリッパを引きずるように近づいて来た上田さんが、僕の顔を見てへらっと笑った。
当たり前じゃないですか!と叫びそうになって、ぎりぎりでぐっと堪えた。今日だけは、彼のマイペースさが、疎ましかった。
「この時期、上田さんみたいに余裕のある受験生は、稀だと思いますよ」
咄嗟に嫌味が口をついてしまい、一気に後悔が襲ってきた。弁解を重ねようとしたとき
「あ、俺、やめたから」
上田さんが何を言っているのか、わからなかった。
「何の話ですか?」
「俺、司法試験受けるのやめたんだわ。だからここ来るのも今日が最後。最後に清水に会えてよかったわ」
「え、やめるって…今年、受験しないんですか?」
「そう言ってんだろ」
「なんでですか?いや、っていうか、受けましょうよ。あとちょっとの辛抱じゃないですか。せっかく今まで頑張ってきたのにここでやめたら、今までの努力が無駄になっちゃいますよ」
「…やっぱ、そう思っちゃうんだなぁ」
「どういうことですか?さっきから上田さんが何を言っているのかが全然…」
「俺もさ、そう思ったんだよ。飛び降りた木下って奴のこと俺はほとんど知らなかったから、実際のところはなんもわかんねぇくせにさ、あいつが飛び降りたって聞いた時、俺も、そう思ったの。死んだって、今まで頑張ってきたのが無駄になるだけじゃね?って思ったんだよ」
「だって、そうじゃないですか」
「じゃあ、何度も受け続けて結局受からず、他の道に進んだ奴がそれまでしてきてことは無駄になんのか?」
胸を、とんっと突かれた気がした。言葉に詰まった僕を気にする風もなく上田さんは続けた。
「皆よく言うじゃん?勉強してるけど、今何でここにいるのかわかんないーとか、今何のためにこれやってるかわかんないーとか。就職できるなら今すぐにでもしたいーとか。でももうここまで来ちゃったからやるしかないんだ他に選択肢はないんだって、自分に言い聞かせて、勉強してんじゃん?俺さ、そういう奴らのこと、ちょっと馬鹿にしてたんだよ。自分が心底やりたいわけじゃないのに、やらされてるの、だせぇって。でも、木下が飛び降りたって聞いたとき、俺ん中に、今までの努力無駄じゃんって思った自分がいたんだよ…自分にもそういうとこあったんだなって思ってさ」
「そりゃ、そうですよ。当たり前のことですよ。だってそれが現実じゃないですか」
僕は、自分でも意外なくらい必死に反論をしていた。なぜか、真紀子や木下の代弁をしなければいけない、というよくわからない衝動に駆られていた。
「でも俺はそう思いたくなかったんだよな。何かにやらされるみたいな気持ちは、一切持たないでいたいんだよ」
「でも」
「俺は、人生で、達成しなきゃいけないタスクなんてひとつもないと思ってんの」
「…」
「俺が生まれたのは、俺が望んだからじゃない。俺の親父とお袋がセックスして、半強制的にこの世界に引きずり込まれたわけだろ?だったらどう生きたってよくね?」
「それは、そうですけど、でも、お金を稼いで、生きていかないと」
「稼いでるって、こう見えても。それにさ、金って絶対稼がないといけないわけ?」
「だってそうしないと、生活が」
「生活保護受けたっていいわけじゃん。それ、清水はダメだと思ってんの?病気とか事故とかの不可抗力以外で、生活保護受けてる奴は、クズだとか思ってんの?」
「…」
「いや、いんだよ、思ってたって。全然。それを否定するつもりはない。ただ俺は、なんだっていいじゃんって思いながら生きてたいんだよ。俺は弁護士になってさ、悩んでる人たちに、なんだっていいじゃんって言いたかったんだよなぁ」
「だったら、なりましょうよ、弁護士」
「だめだ。今、俺の中には、今までやってきたことが無駄になるからっていう後ろ向きな推進力がある。それに今日気づいたんだ。俺の思考は今、毒されてんだ。それに気づいた状態で続けることはできない」
「でも、今年が最後のチャンスなのに。後で気が変わったらどうするんですか」
「そしたらまた予備受けるよ。清水。人生なんてな、どうにだってなんだよ」
「でも…」
「じゃ、俺は、荷物引き上げて帰るから。またな」
そう言って彼はひらりと片手を上げて、自習室に向かって行った。
めちゃくちゃだ、と思った。彼の言っていることが論理的だとも説得的だとも思えなかった。でも僕は、彼に、それ以上反論することができなかった。僕は、その熱量に、圧倒されていた。
逃げてるだけじゃないか、逃げてる自分を正当化してるだけじゃないか、と思う自分がいる一方で、彼の後ろ姿に、闘志を見ずにはいられなかった。混乱していたし反発していた。でもどこかで、爽快さも感じていた。
明日、真紀子にこの話をしたら彼女はどんな反応をするだろうかと考えながら、彼の残像と煙草の臭いを反芻していた。
【加藤渡さんの過去の作品】
もし裁判官がツイッターで死刑廃止を主張したら… [https://www.bengo4.com/c_18/n_9420/]