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同性愛行為が“違法”のケニアで描く、二人の少女の愛 『ラフィキ:ふたりの夢』がもたらした希望

2019年11月07日 12:41  リアルサウンド

リアルサウンド

『ラフィキ:ふたりの夢』(c)Big World Cinema.

 「わたしたちは本物になろう」――。そう誓い合うのは、ケニアに住む二人の少女ケナ(サマンサ・ムガシア)とジキ(シェイラ・ムニヴァ)だ。離れて暮らす政治家の父親を持つケナは、国会議員選挙に出馬した父親の対立候補の娘であるジキと出逢う。その出逢いはケナにとって革命を起こし、二人はたちまち距離を縮めていく。しかし、同性愛行為が“違法”とされるケニアにおいて、二人の愛は厳しい試練を迎えてしまう……。


【写真】映画『ラフィキ:ふたりの夢』予告編


 本作『ラフィキ:ふたりの夢』は、つい先日行われた第15回アフリカ映画アカデミー賞で10部門にノミネートされ、最終的に最優秀アフリカ言語映画と最優秀編集賞を見事受賞した。ケニア映画として初めてカンヌ国際映画祭のある視点部門に出品、そのほかにも100を超える映画祭で上映され数々の賞を受賞するなど、国際的に高い評価を受けている。


 しかしながら、同性愛に不寛容なケニア本国での風当たりは強い。今年の5月にも、高裁が同性愛行為を犯罪とした刑法が合憲であることを改めて判断したことは、記憶に新しい。ケニアの検閲機関は、『ラフィキ』があまりに希望に満ちているため、ケナが良心の呵責に苛まれているような描き方をするよう編集を求めたが、監督のワヌリ・カヒウはその要求を退けた(※1)。本作が上映禁止まで追い込まれたのは、単に同性愛が描かれているからではない。同性愛が“肯定的に”描かれているからなのだ(※2)。とはいえ、映画のストーリーラインをなぞっていくと、それほどポジティブであるとは言いがたい。本作でも見受けられるように、愛し合う二人が差別や偏見によって暴力に晒される、あるいは不本意に引き裂かれてしまうエピソードは、これまでのレズビアン映画史においても幾度となく描かれてきた。「結末に誰も死なない」レズビアン映画の特集記事(※3)などが出されるのも、そんなレズビアン映画における悲劇が定型化されてきたことに由来する。


 映画史初の女性同愛者のキャラクター(※4)とも言われる伯爵夫人が、ファム・ファタルな高級娼婦に恋する挿話が描かれた『パンドラの箱』(1929年)をその萌芽とするならば、レズビアン映画の歴史の幕開けは、今から90年ほどを遡らなければならない。『噂の二人』(1961年)や『カラーパープル』(1985年)といったハリウッドの大作は、それぞれリリアン・ヘルマンとアリス・ウォーカーの原作小説に顕著であった同性愛要素を矮小化し、『テルマ&ルイーズ』(1991年)では、愛し合う女同士をその結末において「処刑」した。ないことにされ、消されることもしばしばだったレズビアンたちは、そもそも十分に、そして正当に表現されてはこなかった。


 『ラフィキ』の舞台であるケニアをはじめ、多くの地域で同性愛が禁忌とされるアフリカで、印象的なレズビアン映画が他にもある。南アフリカ共和国は、アフリカ諸国のなかでも異質であり、2006年に同性婚を合法化するなど性に寛容な姿勢を見せているが、『あかね色のケープタウン』(2007年)は、そんな南アフリカ共和国を舞台に、1950年代の人種隔離政策下における女性同士の恋愛が描かれる。ケープタウンでカフェを営む活発な女性と、抑圧的な夫と暮らす女性の行く末は、過酷な状況下でも希望を感じさせるものだった。『ラフィキ』の彼女たちもまた、同じく未来へ向かうひたむきさを持ち、明るいその先を思わせる。


 そんな前向きなケナが口にする「本物になれる場所へ行きたい」という台詞。今自分が生きている場所では、ありのままの自分として生きていくことも、愛すべき者と生きていくことも、決して叶わない夢であることをわかっている。だからこそ、「ここではないどこかへ」と願う。この「ここではないどこかへ」という言葉が何度も聞こえてくる映画に、アフリカ大陸とほど近い国であるイランを舞台にしたレズビアン映画『Circumstance(原題)』(2011年)がある。同性愛によって極刑さえあり得るほど厳格なイランでは、二人の女性が恋愛することは命懸けと等しい。同作では、ゲイの政治家ハーヴェイ・ミルクを題材にした『ミルク』(2008年)が重要なモチーフとして扱われる。劇中の「セックスは人権」という台詞からも示されるように、「個人的なことは政治的なこと」なのだ。そう考えてみれば、『ラフィキ』の二人の恋愛と彼女たちの父親の政治活動とが協働して物語が進められていくのは、そこにセクシュアリティとポリティクスの結びつきの強さを浮かびあがらせるためであるようにも思える。


 映画は、「みえなかったこと」を立ちあがらせる。「みてこなかったこと」を目の前に差し出す。イギリスの映画批評メディア“Little White Lies”は、今年のカンヌ国際映画祭でLGBT+をテーマにした映画に贈られるクィア・パルム賞を受賞したレズビアン映画『Portrait of a Lady on Fire(原題)』(2019年)に対し、多くのメディアが“レズビアン映画”と表現していないことを指摘した(※5)。映画宣伝においては、“レズビアン”や“女性同性愛”という言葉が、時に隠蔽されてしまう。しかし、まだまだ過渡期の現在は、映像によって、言葉によって、その存在が表象されなければならないフェーズの只中にある。ジキ役のムニヴァは当初、同性愛者の役を引き受けることを躊躇っていたが、彼らの存在を可視化することの重要性を理解したという(※6)。ムニヴァが「みせること」を決心したように、私たちもまた「みること」について、考えなければいけないのだろう。


 『ラフィキ』は、「私たちのことがみえているか?」と問いかける。そんな映画の問いをうけ、私たちは自らに問いかけかえす。――「彼女たちのことをみようとしているか?」


■参考
※1…The Guardian, “Meet the director of the Kenyan lesbianromance who suedthe government who banned it”
※2…The Hollywood Reporter, “Kenyan Director Wanuri Kahiu Is Fun, Fierce, Frivolous and Timely”
※3…PRIDE, “18 Awesome Lesbian Movies Where No One Dies at the End”
※4…ボーゼ・ハドリー『ラヴェンダースクリーン―ゲイ&レズビアン・フィルム・ガイド』1993年, 白夜書房
※5…Little White Lies, “Why films about lesbian characters should be called lesbian films”
※6…『ラフィキ:ふたりの夢』プレス資料


(児玉美月)