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ジョーカー、サノス、ヴェノム……アメコミ映画の隆盛とともに勢いを増す“ヴィラン”という存在

2019年11月05日 10:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved” “TM & (c)DC Comics”

 映画『ジョーカー』が世界興収900億円を超えるヒットを飛ばしている。


 印象的なロケ地である米ニューヨーク・ブロンクスの階段は、今や観光名所として名を馳せているとか。日本では、公開からわずか19日間で興行収入30億円を突破。50億円の大台が期待されるまでになった。強烈な社会風刺が盛り込まれた本作は、ネット上でも様々な議論を巻き起こしている。ヴィラン(悪党・悪役)を主役とした単独映画がここまでの話題作となったことに、内心驚いた人も少なくないだろう。


●ヴィランを語る上で外せないサム・ライミ版『スパイダーマン』
 近年のアメコミ映画におけるヴィラン描写、その造形の元を辿っていくと、まずもって、サム・ライミ監督による『スパイダーマン』3部作(2002~2007年)を挙げねばならない。トビー・マグワイアがピーター・パーカーを演じた同シリーズは、グリーン・ゴブリンやドクター・オクトパスといった名悪役を、実写映画ならではの解釈で次々と登場させた。


 ヴィラン側のドラマを色濃く描きつつ、「親愛なる隣人」として活躍するスパイダーマンとの激闘を描く。彼らは「単なるやられ役」には収まらず、同時に、「次の敵はこいつだ!」といったマッチングの魅力を有していた。ヒーローには魅力的な悪役が必要という基本かつ正道を、しっかりと示した形である。


 また、2008年の『ダークナイト』における故ヒース・レジャーの鮮烈なジョーカーを経て、アメコミ映画というジャンルが持つヴィラン像は、次第にその厚みを増していくこととなる。


 時を同じくして、2008年の『アイアンマン』を皮切りに、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)がその長い歴史の一歩を踏み出した。複数の映画を同じ世界観で語るという未曾有のプロジェクトが、11年後の2019年、『アベンジャーズ/エンドゲーム』という形で世界的成功を収めたことは記憶に新しい。前述の『スパイダーマン』や『ダークナイト』、あるいは2000年からシリーズを重ねていた『X-MEN』の土壌の上で、MCUはアメコミ映画というエンターテインメントの形を見事に変革させたのである。


 追随するようにDCEU(DCエクステンデッド・ユニバース)も『マン・オブ・スティール』『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』などを展開し、今やアメコミ映画は最盛期を迎えている。公開予定の作品群は、まるで渋滞しているかのようだ。


●圧倒的恐怖の体現者であったサノス
 こうして、時代と共にヒーローがスクリーンで活躍するほど、必然的に、ヴィランもその姿を現わしていく。


 MCUで挙げるならば、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』にて本格登場を果たしたサノスが印象的であった。ユニバース約10年間の厚みと相対するサノスは、同作にて、まるで主人公のように物語を進行させていく。自己中心的な理論を振りかざし、ヒーローたちを次々となぎ払っていくその様子は、「話が通じない相手」というひりつく恐怖を体現していた。アイアンマンを始めとする多数のヒーロー、その豊かな彩りや多様性を否定し、消しにかかる存在。ソシオパスを思わせながら、どこかチャーミングな印象までを持ち合わせたサノスは、ユニバースの区切りに相応しい名ヴィランであった。


 また、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』におけるミステリオも、サノスと同じように、ユニバースに対する一種のカウンターとして設定されていた。映画という「作りもの」の産物に、『エンドゲーム』で全世界が熱中したその直後、「作りもの」という虚構を武器にスパイダーマンを追いつめる。その立ち回りや主張は、フィクションを愛する我々観客を思わず立ち止まらせるのであった。


 MCU以外に目を向けると、2018年に公開された『ヴェノム』が話題となった。先の『スパイダーマン3』にも登場したマーベル・コミックの人気キャラクター、その単独主演作である。妖艶なビジュアルに、巨大な獣のような豪快なアクション。「これぞヴィラン!」というべき艶のある魅力が特徴である。ヒーロー主役では描き辛いバイオレンスでダーティーな活躍は、多くの観客が求めていた要素であった。


 変化球で挙げるならば、今年は、Amazonプライムビデオのオリジナルドラマ『ザ・ボーイズ』が配信された。瞬く間に世界中で人気を博し、すでにシーズン2の制作も決定している同作は、私利私欲により腐敗したヒーローチームとそれに立ち向かう面々の戦いを描いている。「ヒーローが人間的に腐っていたら」「そこにあるべき善性が欠如していたら」という語り口のため、ヴィランそのものを描いている訳ではないが、エッセンスとしては非常に近いものがあるだろう。アベンジャーズやジャスティスリーグが世界中で話題をさらう「今」だからこその作品だ。


 このように、アメコミ映画におけるヴィランという存在は、近年様々なアプローチで賑わいを見せている。そしてそのどれもが、「アメコミ映画の隆盛」とは切っても切り離せない性格を有しているのだ。


●忘れてはならない『ミスター・ガラス』
 盛り上がりを見せるアメコミ映画は、「何を描くか」を次々と模索しながら、カウンターとしてのヴィランを設定していく。新しいエンターテインメントの形を印象付けたいのであれば、その可能性と彩りを奪う存在を。フィクションを応援する観客の心を今一度掴みたいのであれば、虚構を操り悪夢を見せる造形に。そうして、アメコミ映画がジャンルとして成長すればするほど、ヴィランもまた、呼応するようにその目を光らせていく。


 多くの作品が語るように、ヒーローはヴィランがいなくては成り立たず、その逆も然りである。光の活躍が重なれば、自ずと闇への需要も高まっていくのだ。ジャンルや観客が求めるからこそ、ヴェノムは豪快に暴れまわり、ジョーカーは社会の歪みを取り込みながら顔を白く塗る。様々なヴィラン像が求められ、絶え間なく供給、そしてヒットに繋がっていくこのストリームは、アメコミ映画というジャンルの肥大化、その偉大なる歴史の影に相当すると言えるだろう。我々観客は、無意識にバランスを取っているのかもしれない。


 また、2019年で忘れてはならないのが、M・ナイト・シャマラン監督による『ミスター・ガラス』だ。


 2000年の『アンブレイカブル』と2016年の『スプリット』、その双方の続編かつ完結編に位置する本作は、アメコミの世界観をもう一段階上のメタフィクションで解釈した。コミックの様式美やパターンを踏襲しながら、「コミックの世界」ではなく「コミックがもたらしてくれたもの」を描く。同作のヴィランの造形は、アメコミを愛好する者へのメッセージを軸としており、そのシンプルかつ力強い想いに胸を打たれた人は少なくないだろう。ヒーロー映画史に間違いなく刻まれるであろう、この2019年において、『ミスター・ガラス』を外すことはできないはずだ。


 週刊少年ジャンプで連載中の『僕のヒーローアカデミア』では、ヴィランという呼称が度々用いられる。アメコミ映画の拡大もあり、そのワードは、今や広く市民権を得るようになった。ネットでも、ヴィランという表現を目にすることが格段に増えた。近年のヴィランがその勢力を増したように感じるのであれば、それは、アメコミ映画の隆盛が先にあったからだろう。ヒーローの活躍の影にヴィランあり。コミックがもたらしてくれたこの「両輪」は、相互に影響を及ぼしながら回転を速めていく。


 とどまるところを知らないアメコミ映画のジャンル拡大は、間違いなく、ヴィランの拡大をも意味しているのである。作品のテーマを体現しているのは、むしろ、この愛すべき悪党たちなのだ。(結騎了)