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“今”ビートルズに何を求めていたのか? 映画『イエスタデイ』&最新リミックス版で感じた喜び

2019年10月26日 09:31  リアルサウンド

リアルサウンド

ヒメーシュ・パテル『イエスタデイ』(オリジナル・サウンドトラック)

 なぜ私たちは、繰り返しリイシューされるビートルズのカタログに毎回一喜一憂してしまうのだろう。


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 そう、またこの季節がやってきた。彼らにとって、実質上のラストアルバム『アビイ・ロード』がリリースされてから今年で50年。それを記念し9月27日に、『アビイ・ロード』50周年記念エディションがリリースされたのである。


 このアルバムは、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』から続く「50周年記念エディション」のシリーズの一環で、ビートルズの「第5のメンバー」とも言われたプロデューサー、今は亡きジョージ・マーティンの息子であるジャイルズ・マーティンが中心となってサウンドプロダクションを務めている。


 ジャイルズがビートルズのアーカイブシリーズに関わるようになったのは、シルク・ドゥ・ソレイユのサントラ盤として作られた2006年の『ラブ』から。この時は父ジョージとの共同プロデュース名義で、ビートルズの楽曲を素材から再構築していくという「荒技」を披露し物議を醸していた。あれから13年。ビートルズやその周辺作品のリミックス、リマスタリングなどを数多く手掛けてきた彼は、そのたびに目覚ましい成長を遂げ(2019年8月に公開された、エルトン・ジョンの伝記ミュージカル映画『ロケットマン』でもサウンド・プロデュースを担当)、今回の『アビイ・ロード』のおけるリミックスワークはその集大成ともいうべき内容となっている。


 時期的に『アビイ・ロード』は、ビートルズの作品の中で最も「現代」に近いものとなる。であれば、リミックスを施したとはいえ先の『サージェント・ペパーズ~』や『ザ・ビートルズ』(通称“ホワイト・アルバム”)と比べると、音像的な違いはそれほど感じられないのではないかと、筆者は思っていた。が、蓋を開けてみれば『アビイ・ロード』2019年版は、これまでのどのアルバムよりも「攻めた」ミックスだった。


 ジョン・レノン曰く、「好きな奴なんて一人もいない駄作」の「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」は、当時ジョージが持ち込んだモーグシンセサイザーの音色がこれまで以上に際立ち「変態ラウンジポップ」に生まれ変わり、ヘヴィなブルーズナンバー「アイ・ウォント・ユー」の後奏では、入り乱れるビリー・プレストンのハモンドオルガンと、ホワイトノイズがグッとフィーチャーされ、シューゲイザーも「かくや」と言わんばかりのサウンドスケープが聴き手の思考を停止させる。もう、かれこれ何百回、いや何千回と繰り返し聴いてきたはずの『アビイ・ロード』が今、全く新しい響きをたたえて目の前に蘇っているのだ。


 そこで冒頭の疑問である。そもそも私たちは、なぜ最新リミックスが施されたビートルズのアルバム、いわば「過去の遺産」を、これほどまでにありがたがって聴いているのだろうか。「ジョンの声がオリジナル盤より生々しく聴こえること」とか、「ジョージ・マーティンによるオーケストラアレンジがより美しく胸を打つ」こと、「ポールのベースがよりファンキーに響くこと」が、なぜそんなにも嬉しいのか。


 きっとそれは今言ったように、ビートルズの楽曲を「全く新しい響き」で聴いてみたい、もっとはっきり言えば、「生まれて初めてビートルズを耳にしたときの感動」を、再び手に入れたいからなのではないか。


 私たちは、どうあがいても「初めての感動」を再び味わうことは出来ない。ましてやビートルズだ。物心ついたときには街中で、テレビで、映画館で流れていた彼らの「イエスタデイ」「レット・イット・ビー」「ヘイ・ジュード」を、生まれて初めて耳にしたときのことなど覚えていない人の方が多いだろう。そう、だからこそ私たちは、その「あらかじめ失われてしまった初体験」を取り戻したくて、ビートルズの最新リイシューが届けられるたびに、その細かな「差異」をめぐって一喜一憂しているのかもしれない。


 前置きがすっかり長くなってしまった。現在公開中の映画『イエスタデイ』は、そんな「初めてビートルズを聴いたときの感動」を、映画という「魔法」を使って擬似体験させてくれる、そのことだけでも一見の価値ある作品だ。「もしもビートルズの存在を、自分以外誰も知らない世界になってしまったら……?」という、非常にユニークかつ荒唐無稽な設定のラブコメディ。監督は『トレインスポッティング』や『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイルが務め、脚本を『アバウト・タイム』や『ブリジット・ジョーンズの日記』を手掛けたリチャード・カーティスが担当している。


 舞台はイギリスの小さな港町サフォーク。売れないシンガーソングライターのジャック・マリック(ヒメーシュ・パテル)は、幼なじみで親友のエリー・アップルトン(リリー・ジェームズ)の献身的なサポートに支えられながら、ほそぼそと音楽活動を続けていた。そんな時、原因不明の大停電が世界規模で起こり、彼は交通事故にあってしまう。目覚めるとそこは、世界で最も有名なバンド、ビートルズが存在しない世界になっていた。


 ビートルズが存在しない世界には、彼らから多大なる影響を受けた同じくイギリスの某国民バンドも存在していない……という初っ端の小ネタに思わず笑ってしまった。が、もし本当にビートルズが存在していなかったら、余波(?)はそれだけでは済まなかっただろう。ジャックが着ていたTシャツのピクシーズも、セリフの中に登場するニュートラル・ミルク・ホテルだって、もし仮に存在していたとしても今とは全く違うサウンドを奏でていたに違いない。音楽性だけでなく、レコーディング技術やスタジオのあり方、アートやファッションなどあらゆる分野に影響を及ぼし、20世紀のカウンターカルチャーを象徴する存在だったビートルズの「消滅」は、オ○シスのみならず、映画の中で本人役として登場するエド・シーランの「消滅」にもなりかねない。


 その辺りの設定のユルさは、あれこれ考え始めるとキリがないのだが、本作『イエスタデイ』の本質はそこではない。上述したように、私たち観客を「ビートルズが存在しない世界」へと連れて行き、まるで生まれて初めてビートルズを聴いたような気持ちにさせてくれることにこそ意味があるのだ。


 そのことを如実に表すシーンが映画の前半に訪れる。交通事故より「生還」したジャックは、快気祝いでもらった新しいアコギを友人たちの前で何気なく爪弾いている。まずは「指ならし」のつもりでビートルズの「イエスタデイ」を鼻歌まじりに歌い始めるのだが、それを聴いていたエリーをはじめ友人たちが、明らかにいつもとは違うリアクションを取り始めるのだ。「おい、これはいったい誰の新曲だ?」「ビートルズ? なんだ、そのヘンテコな名前は」「ていうか、お前いつの間にこんなすごい曲が書けるようになったんだ?」。はじめはからかわれていると思ったジャックだが、どうやら「本当に」彼らはビートルズを知らないらしい。


 このシーンがとにかく鳥肌モノなのだ。「イエスタデイ」って、こんなにいい曲だったっけ。それこそ音楽の教科書にも掲載されるほどの「古典」であり、いやでも耳にしてきた曲を、これほどまで瑞々しい気持ちで耳にしたことは一度もなかった。それこそジャイルズ・マーティンが私たちに、「新しいビートルズ」を聴かせようと最新技術を駆使して長年試みてきたことを、ダニー・ボイルは「映画の魔法」を使って一瞬にしてやってのけてしまったのである。


 エド・シーランが「ヘイ・ジュード」という曲名が「古臭い」と難色を示し、主人公ジャックに「ヘイ・デュード」にしたらどうか? とサジェスチョンするシーンは傑作だったし、ロシア公演で「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」を披露し(言うまでもなくU.S.S.R.とは旧ソ連のこと)、ロシアの若いオーディエンスが「???」となっている様子も、アラフォー以上の観客には隔世の感があるだろう。『ホワイト・アルバム』がポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)的にアウトだとか、ただの道端で撮った『アビイ・ロード』のジャケ写は退屈だとか、世代ギャップを感じるネタは他にも色々あって、ビートルズを神聖化している世代には痛快な一撃だし、そんな世代に鬱陶しさを感じている世代は溜飲を下げること請け合いだ。


 ラブコメにありがちな展開や、クライマックスで「とある人物」に出会ったジャックが「自分らしく生きることの大切さ」に気づく経緯など、正直なところ「ご都合主義」に感じてしまう部分も少なからずあった。が、すでに若い世代には忘れ去られかけている「古き良きビートルズの楽曲たち」を、もう一度まっさらな気持ちで楽しむための「仕掛け」を随所にちりばめた映画『イエスタデイ』は、あの『ボヘミアン・ラプソディ』が(そのあやふやな時代考証はさておき)クイーン再評価の大きなきっかけとなったように、新規のビートルズファンを増やすことができれば、それだけで成功といえるだろう。(黒田隆憲)