ブラッド・ピットはハリウッドが誇る「理想の男」だ。エリート専門教育は受けていない1963年生まれオザーク育ち。セレブリティ文化に染まらないワイルドかつセクシーなイメージは、アメリカの魅力的な「男らしさ」像でもあった。そんなピットが「男らしさの再定義」に挑んだ映画こそ、2019年9月より公開された『アド・アストラ』である。このパーソナルなSF映画は、1999年のカルト作品『ファイト・クラブ』の延長線上にあるかもしれない。
■「すべてを持っている男」ブラッド・ピットが90年代に演じた、「パーフェクトな男」タイラー・ダーデン
1990年代当時、30代のブラッド・ピットは「自分はすべてを持っている男」だと皮肉まじりに認めていた。言い換えれば、その哲学的でもある存在は「パーフェクトな男」タイラー・ダーデンを演じるに最も適した存在だったと言えるだろう。ピットがワークアウトして挑んだこのカリスマ的キャラクターは、マッチョな「男らしさ」のアイコンになったと言っていい。劇中、消費文化を嫌悪するダーデンは「本当の男は自己破壊してこそ」と説き、男同士で殴り合う秘密組織ファイト・クラブを結成する。男たちの暴力衝動を目覚めさせていくファイト・クラブはどんどん過激化していき、ついにはテロ集団と化す……。
デヴィッド・フィンチャー監督をはじめとする作り手がコメディーであることを意識した『ファイト・クラブ』は、当時の「男らしさ」の危機を捉えた作品でもあった。ピット演じるタイラー・ダーデンによる有名な演説を見てみよう。
「素晴らしい体力と知力に恵まれた君たち 伸びるべき可能性が無駄遣いされている
職場といえばガソリンスタンドかレストラン しがないサラリーマン
宣伝文句にあおられて要りもしない車や服を買わされてる
歴史のはざまで生きる目標も居場所もない
世界大戦もなく大恐慌もない おれたちの戦争は魂の戦い 毎日の生活が大恐慌だ
テレビは言う “君も明日は億万長者かスーパースター”大嘘だ
その現実を知って おれたちはムカついてる」
■男性が抱く父親世代へのコンプレックスと虚無感。自己破壊的な暴力で「男らしさ」を取り戻す
書籍『Best. Movie. Year. Ever.: How 1999 Blew Up the Big Screen』によると、規制緩和によって負債水準が上昇した1990年代のアメリカでは、働き盛りだった(おそらくは白人層を中心とする)男性間で「父親世代のような、稼いで尊敬される男らしい人生」を歩めないストレスがたまっていたとされる。もともと原作小説は、著書チャック・パラニュークが働いていたトラック製造企業からインスピレーションを得ている。休憩室に集う男たちはみな疎外感を抱いており、十分に活躍できない理由を「自分たちを見捨てた父親のせい」だと愚痴っていたのだという。若者の鬱憤を刺激したキャラクターこそタイラー・ダーデンだろう。
父親世代へのコンプレックスとともに虚無感を抱く男たちが自己破壊的な暴力によってマッチョな「男らしさ」を取り戻す光景にはカタルシスがあった。エドワード・ノートン演じる主人公は、視聴者に向かってファイト・クラブの魅力を訴える。「闘ってもなにも解決しなかった でも問題ない みんな救済を感じてた」。そして、ピット演じるタイラー・ダーデンは父親世代への恨み節を叫ぶのだ。「子にとって父親は神 神である父親が子を捨てる? よく聞け! 君は神に好かれていないかもしれない 父親に憎まれている子供だ 神がなんだ? 天罰? 救い? おれたちは神の望まぬ子なのさ!」。
■『ファイト・クラブ』から20年。『アド・アストラ』が描く父権の揺らぎと、男性の脆さ
『ファイト・クラブ』から20年経った2019年、50代になったブラッド・ピットは、またしても「パーフェクトな男」としてキャスティングされていた。しかし、ジェームズ・グレイ監督の目線は少し変わっている。「すべてうまくいっているかのような外見を持ちながら内なる悪魔と格闘している男」として、ピットを『アド・アストラ』の主演に据えたのだ。
主人公ロイは「男らしさ」の鎧をまとう宇宙飛行士であり、タイラー・ダーデン風に言うならば「神の望まぬ子」だった。偉大な宇宙飛行士であった父に構われずに育った彼は、それをなぞるように人生を仕事に注ぎ込んで家族とのコミュニケーションを怠った結果なのか、結婚生活を破綻させている。そんな彼が、ある事件をきっかけに父親が存命である可能性を知らされて宇宙へと旅立つことで物語が始まる。そして、ピットいわく、伝統的な「男らしさ」では太刀打ちできぬ苦境へ直面していく。セラピーのようなこの映画で父権の揺らぎとともに花開くものは、男性の脆さだ。
■ブラッド・ピット自身の人生と重なる『アド・アストラ』の物語。「脆さをオープンにすること」
『アド・アストラ』の物語は、ブラッド・ピットの人生と重なる面がある。じつは、本作の主演と製作が決まる1年前、彼は離婚申し立てを受けているのだ。結婚生活の破綻の一因には、父親から受け継いだ「男らしさ」があったと回想している。泣くのは女の仕事であり、男は弱みを見せず強くあれ……そうした伝統的「男らしさ」思考は、ピットに一人で物事を成し遂げるスキルを授けたという。
その一方、自身の心傷や失敗と向き合って隣人と悩みを共有することに長けておらず、それが結婚生活の危機に繋がったことを過去のインタビューで間接的に認めている。アルコールに逃避して離婚を申し立てられたピットは、のちに参加したアルコール依存者の会で衝撃を受ける。そこは、男たちが傷つきやすさを認めながら支え合う安全な空間だったのだという。信用する相手に自身の醜さを曝け出す行為は、彼に解放と癒しを授けた。かつてはタイラー・ダーデンのように生きていた側面を認めるピットは、奇しくもファイト・クラブのような男だけの集団によってマッチョな「男らしさ」思考から解き放たれたのだ。アルコールを絶ったピットは、2019年現在、自身の体験談とともに弱さを認める重要性について語りつづけている。
「傷つきやすさには強さがある。それは、ポーズでも、強靭な筋肉でも、“なんでもできる”といった盲目的な自信でもない。自分自身、己の強さと弱さを知る本当の自信なんだ。実際には、愛する人々との交流で脆さをオープンにすること。自分の短所を笑えること」(『GQ』より https://www.gq.com/story/brad-pitt-cover-profile-october-2019)
■2作の共通点は「男らしさの危機」と「父親世代へのコンプレックス」
1999年の『ファイト・クラブ』と2019年『アド・アストラ』の共通点はなにか。それはブラット・ピットと近い世代の「男らしさの危機」、そして「父親世代へのコンプレックス」を映していることだ。
『ファイト・クラブ』における解放は、過激な「男らしさ」に溺れることで一時的な快感を授ける暴力だった。『アド・アストラ』の場合、男性の脆さを繊細に肯定し、彼ら自身を縛る「男らしさ」の鎧──または父の呪い──からの解放を描いている。対極に見えるこの2作は延長線上にあるとも言える。かつて『ファイト・クラブ』に熱狂した一部の男性たちは、20年の時を経て中年期に入り、その境遇を悪化させ、まるで『アド・アストラ』のような危機に陥っているかもしれないからだ。
現在、アメリカでは、中高年白人男性の自殺が激増している。大卒以下の同グループは「親世代よりも稼げない悲観」が強い。そこから「絶望死」に至ってしまう要因には、特に地方の精神医療機関の欠如や銃への容易なアクセス、そして「男は人に頼るべきではない」というような伝統的「男らしさ」思想があると指摘されている(https://www.rollingstone.com/culture/culture-features/suicide-rate-america-white-men-841576/)。自身の問題を他者に相談できず、家族や友人から孤立してしまう男性がアルコール依存症や自死に至りやすいのだという。
ピットの故郷オザークの自殺率も医療保険に加入していない貧困層や退役軍人を中心に深刻な値となっており、山岳地帯においては、ある種『アド・アストラ』劇中のような孤立状態を生む運送ドライバー職が精神状態を悪化させるリスクを孕むそうだ。
■ティモシー・シャラメやエズラ・ミラーら「男らしさ」の再定義に意識的な若年スターの台頭
#MeToo運動などを経た2010年代は、ティモシー・シャラメやエズラ・ミラーなど、「男らしさ」の再構築に意識的な若年男性スターが台頭した時勢でもある。そんな潮流のなか、かつて「男らしさ」の理想とされた50代のブラッド・ピットが脆さを認める重要性を発信していくことは、孤立の危機にある中高年層への影響も大きいのではないだろうか。
「事実として、人はみな、痛みや悲しみ、喪失感を抱えている。大概、僕たちはそれを隠してる。けれど、それが自分たちの内にあることは事実なんだ。それなら、閉じられた箱を開けるべきではないだろうか」 (『New York Times』より https://www.nytimes.com/2019/09/04/movies/brad-pitt-ad-astra.html)
『ファイト・クラブ』におけるタイラー・ダーデンの名台詞の一つに、こんなものがある。「自由を得るには、すべて捨てるしかないんだ」。この言葉は、「男らしさ」の鎧を脱ぎ捨て脆さを晒す『アド・アストラ』を観たあとでは、また違った印象を授けるかもしれない。
(文/辰巳JUNK)