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ダニエル・ジョンストンは素晴らしいポップヒーローだったーー岡村詩野による追悼文

2019年10月05日 11:01  リアルサウンド

リアルサウンド

ダニエル・ジョンストン『Fun』

「ねえ、君とはどこかで会ったことないかな? 絶対にあるよね?」
「いえ、オースティンとニューヨークであなたのライブは観たことがあるのですが、直接お話するのは今日が初めてです」
「おかしいな。絶対に会ってるって。ねえねえ、ほら、あの時……」
「いや、あの……」


(関連:ダニエル・ジョンストン『Fun』試聴はこちら


 と、こちらが会話を続けようとするや、その巨体の男はぷいと背中を向けて部屋の奥に進み、ソファにどっかりと座った。そしてテーブルの上のお菓子をパクつきながら、横にいる初老の男性となにやら勝手にモジョモジョと話をし始めた。何を話しているのかはわからないが、とにかくニコニコ顔で上機嫌なのはよくわかったし、その初老の男性と話をしている姿を観ていること自体がとにかく興味深かった。だが、その様子に業を煮やした編集者がたまりかねて言った。


「あのー、取材始めてもいいでしょうか?」
「え、もうやるの?」


 ダニエル・ジョンストンがこの世を去ってからまもなく1カ月が経とうとしている。9月10日、テキサス州ヒューストン郊外の自宅で死去。享年58。彼の兄であるディック・ジョンストンが本国での取材で明らかにしたところによると自然死だったという。


 統合失調症と双極性障害、さらに痛風をも患っていたが、近年は転倒をきっかけに歩行が困難になり、腎機能障害も併発して入退院が繰り返されていた。2年前、彼のことをおそらく誰より愛していた肉親の一人であろう父親で、マネージャーとしてもいつもダニエルに寄り添っていたビルが亡くなり、悲しみの淵に立たされていただろうことも想像に難くない。晩年はケアワーカーが彼を訪ねる日々でもあったそうで、肉体も精神ももうかなりギリギリのところにいたのだろう。毎日がきっと相当しんどかったと思う。


 だから、亡くなったことを知らされたときはもちろん寂しく感じたが、ぼんやりと、ああ、生きるエネルギーがとうとう切れちゃったんだな……と、なぜか妙に納得もしたし正直安堵したところもある。太く短く世界中から愛されて生きた、いい人生だったと信じたい。


 ダニエル・ジョンストンは1961年1月22日、カリフォルニア州サクラメントに生まれた。5人兄弟の末っ子。その後、家族でウエスト・バージニア州ニューカンバーランドに引越した頃、彼が生涯愛してやまなかったThe Beatlesに夢中になり、ケント州立大学分校アートスクールに通うようになった頃から自分でも曲を作り始めたという。2年半で100曲以上の曲を書いて、友人たちにカセットを配っていたというのは有名な話だ。それら初期の音源は現在でも手軽に聴くことができる。


 私は幸運にも2003年2月に実現した初来日時に取材をした。冒頭のエピソードはその時のものだ。与えられた時間は割と多くて撮影を含めて1時間くらいだったと思う。たぶん、一発目の取材だったということも奏功したのだろう、思いのほか機嫌が良かった彼との会話は想像以上に盛り上がった。日本語で「あなたはThe Beatlesに影響をされているそうですが……」と通訳の方に質問を伝えようとすると、彼は“The Beatles”という単語を素早く聞き取り、「The Beatles大好き! 僕の曲もThe Beatlesみたいだろう?」と話をどんどん進めていく。しかもその話がいちいち面白い。彼の話しぶり、会話そのものが彼の音楽のようだと感じた。「曲はどうやって作っているんですか?」と問えば「できちゃうんだ、曲書きたいなと思ったら」。「オルガンとギターとでは表現手段としてどう違いますか?」と問えば「オルガンはいいな。でもギターもいいな」。と、万事がこんな調子。だが、この一言がすべてだった。この一言をこんな臆面なく言えるこの人はやっぱり絶対に信頼できると思った。「僕はポップミュージックが大好きなんだ」


 そう、ダニエル・ジョンストンは何をおいても素晴らしいポップソングライター、ポップヒーローであることがまず語られるべきなのである。多くの人が感じるように、確かにダニエルの音楽はかなり“自由”なものだ。特に初期作品を集めた『Songs Of Pain』(1980年)などを聴けばわかるように、譜割や音階にとらわれない歌がふわふわと空中を舞っているように聞こえる。それをして、アウトサイダーアートとして評価されてきたのもわからないではないし、アメリカの人気カートゥーンアニメのキャラクター・キャスパー(Casper)やキャプテン・アメリカをモチーフにしたものや、目玉が飛び出た奇妙なカエル、ツノを生やした男、ピアノを弾くガイコツなどシュールでユーモラスなタッチの自筆のイラストもまた彼のそうした社会の規範からハミ出た感性を伝えるものだろう。


 だが、カート・コバーンが着用したことでも知られる彼のイラストをあしらったTシャツが、実際は彼の音楽をほとんど知らない人たちの間でいつのまにか人気になったように、実際にダニエルが描く音や絵画は大衆性あるポップアートとしての包容力を感じさせるものだ。2000年、私が彼の地元であるテキサス州(オースティンの町の建物の壁面にはダニエルの絵画が描かれていた!)でライブを見たときは、会場中がまさにおらが町のヒーローを応援するかのようにアットホームで賑やか。風変わりなアウトサイダーを見届けるような様子などはまったくなく、それどころか代表曲「Speeding Motorcycle」などほとんどの曲でみんなで唱和するような場面さえあった。もちろん、彼のボーカルはやはり調子っぱずれだった。でも、そんなダニエルを支えるようにシンガロングするオーディエンスたちはちゃんと理解していたのだ。ダニエルは彼自身が大好きなアメコミのヒーローさながらにポップスターなのだ、と。


 だから、その後の取材で「ポップミュージックが大好き」「アメリカンヒーローが大好き」「The Beatlesが大好き」と彼が語ったのは、詭弁やアイロニーはもちろん、不思議ちゃんなんかでもなく、ただただ、本当に彼は純粋にポップなものが好きということだったのだ。


 ちなみに、私が一番好きなダニエルのアルバムは、カート・コバーンが亡くなった1994年にリリースされた『Fun』。当時人気だったButthole Surfersのポール・リアリーがプロデュースし、メジャーのアトランティックからリリースされた(後にも先にもメジャーリリースの作品はこれ1枚)、いわゆるオルタナ時代を象徴する作品で、しっかりとしたバンドアレンジで仕上げられた曲もあり、ダニエル史上最もウェルメイドな録音で完成された作品なので、ダニエルの熱心なファンの多くはむしろ抵抗を感じるかもしれない。だが、このアルバムを聴けば、ダニエルのメロディがいかに耐久性のあるものかがわかる。タフなバンド演奏にも、音質の良さにもまったく負けない、それどころかポップなメロディが際立つアルバムなのがなんとも象徴的だ。


 だから、私はダニエル・ジョンストンというアーティストを、アウトサイダーミュージックの系譜上で語るより(それはそれでアリだし、実際そのアングルで語る面白さもある)、死んでしまった今こそThe Beatlesの遺伝子という系譜で語ってみてはどうかと思っている。いくつもの病気を抱えた彼のパーソナルなエピソードはもう永遠に封印された。けれど、彼の音楽の持つ生き生きと生命力をたたえた息吹こそ、ポップミュージックたる理由であり、そこは永遠に開門したままであるからだ。


 ところで、ダニエル・ジョンストンを今から改めて知りたいという人にまず何よりオススメしたいのが、2005年に公開されたドキュメント映画『悪魔とダニエル・ジョンストン』だ。そして、資料としては日本公開用に制作されたハードカバーの豪華パンフレットが決定版と言っていい。バイオグラフィー、ディスコグラフィー、年表などなど、その時点でのダニエル百科事典のような内容で、私もそこで湯浅学さん、中原昌也さんと対談しているので入手した方はぜひ読んでみてほしいと思う。でも、そういや最近見かけなくなった。ちょっと前までは古本屋や中古レコード店などで見かけたが……。あれを増補改訂してちゃんとした書籍として今一度発刊してほしいと願っている。(岡村詩野)