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『惡の華』原作ファンも納得の仕上がりに 脚本・岡田麿里×井口昇監督が生み出す、思春期の機微

2019年10月04日 18:51  リアルサウンド

リアルサウンド

『惡の華』(c)押見修造/講談社(c)2019映画『惡の華』製作委員会

 9月27日に封切られた井口昇監督の『惡の華』が議論を呼んでいると聞いてもさほど驚きはない。最近ではすっかり以前のような作風とは異なり、『覚悟はいいかそこの女子。』や『マジで航海してます。』といった正攻法のヒロインムービーに傾倒し始めた井口監督だけに、はたしてそれがこの思春期の鬱屈とした心理を具現化させた物語にハマるのかという気がかりがあったことは否定できないからだ。しかし実際に作品を観てみると、想像以上にヒロインムービーたる部分と、影を帯びた青春映画としての部分が絶妙なバランスを保ち合っているではないか。これはやはり、井口監督の演出と岡田麿里の書く脚本がそれぞれの持ち味を発揮したからではないだろうか。


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 優等生で美少女という絶対的なクラスのマドンナオーラを放つ女子生徒の体操着を盗んだ主人公が、その一部始終を目撃したクラスの問題児から“契約”と称したある種の隷属を余儀なくされるという本作のプロット。思春期男子特有の異性に対する興味が暴走し、それがフェチシズムへと落とし込まれる辺りは、20年前に塩田明彦監督によって映画化された喜国雅彦の名作『月光の囁き』を想起してしまわずにはいられない。ましてや、深夜の教室で伊藤健太郎演じる春日が黒板に書きなぐる「俺はクソムシだ!」のフレーズと、実写版『月光の囁き』において水橋研二が演じた主人公の拓也が言い放つ「俺は犬や!」の言葉は、どちらも自己を蔑むことによって自身の置かれている環境を否定し、それによって相対的に自己を肯定しようとする必死さが垣間見える点で強いシンパシーを感じる。


 いずれにしても“青春映画”というジャンルにおいて重要なのは、主人公を取り巻く環境が良くも悪くも閉塞感に囚われているかどうかということである。多くの青春映画が舞台として選ぶ学校という空間はまさにその代表格であり、無意識的に規則に縛られている心理的閉塞感に著しく苛まれた空間であり、限られた行動範囲と限られたコミュニティの中で出会いと別れを繰り返し、物語の顛末には大方の場合“卒業”という抑圧からの解放が待ち受けているものだ。無論それは本作とは対照的にキラキラを放つ作品でも言えることであり、時間の流れによって確実に解放されることがわかっていても、それをおとなしく待つことができない者の暴走や抵抗によって、そこにドラマが生じるのである。


 この『惡の華』という物語においては、北関東の四方を山に囲まれた地方都市という舞台設定の時点で、かなり広範囲な閉塞空間を作り出しており、春日と彼を弄ぶヒロインのひとり、仲村佐和は山の向こう側へ行くことを望む。興味深いことは、その“向こう側”に具体的に何があるかは明示されず、こちら側よりは良いのであろうという希望的憶測に過ぎない、見切り発車のような部分に青春時代というあまりにも長い刹那を作り出していることだ。そして結果として、その願いは叶えられることはない。しかし物語が高校編に差しかかると、極めて受動的に“向こう側”へと解き放たれる春日。それでも内側の呪縛から解放されきっていない彼の前に、もう1人のヒロイン佐伯奈々子が能動的に山を越えて現れるという何とも言えない皮肉さがぐさりと突き刺さる。


 こうした“やや広い範囲の閉塞感”がにじみ出る物語と、岡田脚本との相性が抜群なのは改めて言うまでもない。彼女の代表作である『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』然り、新作の『空の青さを知る人よ』も然り、山に囲まれた地方都市における青春群像というのは彼女の十八番中の十八番であり、山の向こう側への希望と過去への贖罪意識に駆られる主人公像というのもまた鉄板のシチュエーションである。しかもそこに複数ヒロインという設定と、エキセントリックに見えた正ヒロインの内に秘めた複雑な心理、純朴そうに見えた第2ヒロインの影の部分が強化されていくという点が加わったことで、まさに近年のアニメーション作品で繰り返し描かれてきた青春ストーリーの基本的な文脈を本作も踏襲していることが見て取れる。


 そうしたアニメーション寄りの脚本に、過去の青春映画を連想させる数々のファクターを組み合わせた井口監督の演出が加わることで、この『惡の華』の比類なき破壊力は完成するといえよう。しかも、井口監督の原作に対する多大なるリスペクトが貫かれていることも強みのひとつだ。漫画がアニメーション化されることよりも(この『惡の華』の場合はロトスコープのアニメーションがトリッキーすぎて大騒ぎになったと記憶しているが)実写化されることのほうが原作ファンから拒否反応を示されやすいなかで、本作はSNSなどでも原作ファンから「原作をここまでのレベルで実写化した井口監督に感動した」「押見修造作品が好きな自分にとっては最高の一言だった」といった肯定的な声が目立っている。


 しかもその“リスペクト”が、単に原作をなぞるだけではないという点も見逃せない。井口監督と原作者・押見修造の対談には「ブルマ姿の佐伯がハードルを飛ぶシーンを加えることで、ブルマの良さを伝えて春日がそれを盗む心理を明確化させた」という井口監督の言葉があり、思わずハッとさせられた。さらに仲村が佐伯とデート中の春日に水をかけるシーンを炭酸飲料に変えることでベトベトした気持ち悪さを演出するなど、原作のイメージをさらに高めるという、映像化することの意義がそこにきちんと存在しており、そこに映画的なフェティシズムにあふれた井口監督の演出が化学反応を起こす。監督と脚本家の采配によって、現在の日本映画界に必要不可欠な漫画とアニメ、実写の3者の関係性に新たな可能性を示す画期的な作品となったといえるだろう。 (文=久保田和馬)