映画『惡の華』のどんなところがリアルかと問われたら、私は、中学生特有の思春期心性がとりわけリアルだと答える。思春期は誰もが通り過ぎる多感な時期だから、誰であれ、この作品にシンパシーや身悶えを感じずにはいられないだろう。主人公の春日が佐伯さんの体操着からシャンプーの匂いを鼻腔いっぱいに吸い込んだように、この作品から思春期心性の痛々しさと力強さ、かけがえのなさを存分に吸い込んでいただきたい。
※この記事は映画『惡の華』のネタバレを含みます。
■映画『惡の華』が公開。アイデンティティの空白にもがき苦しむ中学生をリアルに、どこか尊いものとして描く
舞台は、閉塞感の漂う地方都市。主人公・春日(伊藤健太郎)はボードレールの『惡の華』を読むことで「自分は他の連中とは違う」と自分に言い聞かせるような、今でいう「中二病」男子の典型だ。その彼がクラスのマドンナ的存在である佐伯さん(秋田汐梨)の体操着を拾って持ち去るところから物語は始まる。その一部始終をクラスの問題児である女子生徒・仲村さん(玉城ティナ)に見られて秘密を握られ、「変態」的な行動を要求されるようになる。春日は「僕は変態じゃない」と自分自身に言い訳をしながらも、リビドーに流され、自分自身のアイデンティティの空白に直面し、懊悩していく。
■大人になった身体はあるが、人生に通用しそうな力は持ち合わせていない。「まだ何者でもない」中学生は無力な存在
中二病の中学生男子は無力な存在だ。身体は大人になりかけていても、心は大人になりきれない。中学生時代というのは、身体の急激な成長に精神的な成長も社会的な立場もついていかない、思春期のなかでもひときわ難しい時期だ。第二次性徴は、子ども時代の振る舞いやアイデンティティを時代遅れにしてしまい、「男として・女として」ふさわしい振る舞いやアイデンティティを獲得するよう迫ってくる。
ところが中学生にはそのための知識や経験が欠如し、そのくせリビドーが大人以上に溢れかえっているものだから、どうしたって不器用な振る舞いになってしまう。子どもでなくなった身体にふさわしいアイデンティティを獲得するのも難題で、この段階では自分にできることもできないこともわからないし、これからの人生で通用しそうなものもまだ持ち合わせていないのだから、「まだ何者でもない自分」や「まだ空っぽの自分」に悩むことになる。
春日がボードレールを読み、「自分はほかの連中とは違う」と思い込もうとするのは、そうしたアイデンティティの至らなさを埋め合わせるためのあがきと理解できるし、湧き上がるリビドーを何とか制御し、自分自身の成長のために振り向ける試みとみることもできる。
ところが笑っちゃうほどこれが上手くいかない。春日はこれが自分のアイデンティティだと言わんばかりに『惡の華』を読み、仲村さんや佐伯さんに名刺代わりに差し出してみせるのだが、いざ内面を問いただされるとそれが血肉になっていないことが暴露され、僕は空っぽなんだと白状してしまう。佐伯さんや仲村さんに対し、いっぱしの男として振る舞おうとしているが、肝心なところでは自己中心性が露わになって彼女たちを傷つけ、苛立たせてしまう。荒れ狂うリビドーは結局どこへも吐き出すことができず、そのさまを、井口昇監督は胸をのぞき込むカットや透けてみえるブラジャーのカットをとおして容赦無く描ききる。一挙一動がいちいちみっともないのがとてもいい。
「やけにモテる文学少年」という春日のシチュエーションはちょっと非現実的だが、その非現実的なシチュエーションをとおして描かれる春日のみっともなさは恐ろしくリアルだ。中学生男子に普遍的なものが、ここには描かれている。
■育ちの良い優等生、世界を「クソムシ」と罵る問題児。それぞれに真剣な思春期の懊悩
春日に比べれば大人びてみえる二人の中学生女子はどうか。彼女たちも、器用というにはほど遠い。
育ちの良い佐伯さんは優等生的な学生生活を過ごしていたが、春日や仲村さんと関わるなかで自分自身のアイデンティティの空白やリビドーに気が付き、今まで清楚に振る舞っていた反動に駆り立てられていった。詳細は伏せるとしても、令和時代の基準でいえば、彼女の行動は許されない「過ち」だろう。高校時代に登場する佐伯さんはおおむね健全そうだったが、中学の頃の傷痕をいまだ引きずっていた。
仲村さんはというと、アイデンティティの空白やリビドーに対してもっと自覚的、積極的だった。常に不満な表情で、自分の住む街、相容れない周りの人たちのことを「クソムシ」と罵り、心を開くことができない仲村さんには春日という触媒が必要で、仲村さんは春日の「変態」を開発すると同時に、自分自身の「変態」をも具現化していく。春日を開発していく時の仲村さんは、生き生きとしていて本当に楽しそうで、かわいらしく、小悪魔的だ。なんにせよ、仲村さんには佐伯さんよりも高く遠く思春期を駆ける脚力があった。
それゆえ、仲村さんは範疇的な中学生からも、社会の決まりからも大きくはみ出さずにはいられない。はみ出しによって自由になると同時に袋小路へと追い詰められていった仲村さんと春日は、夏祭りの舞台をジャックし、これがひとつの破局となる。最も思春期を高く遠くまで駆けられる仲村さんには、自分自身の凡庸さも、駆けて行く先の昏さもよくわかっていたのだろう。
春日も佐伯さんも仲村さんもみんな未熟で、不器用で、失敗だらけだった。それでも本作品は、そんな彼らの傷だらけの中学生時代を真剣なものとして、どこか尊いものとして描く。猥談にふけるクラスメートや春日の両親といった脇役たち、くすんだ地方都市の風景までもが思い出深いもののように思えてくる。千葉の海でのラストシーンは、そうした過去を海水で禊いで彼らを祝福すると同時に、思春期のはみ出しが普遍的なものであることを仄めかしてもいた。春日たちの思春期が過ぎ去っても、また新しい思春期が生まれ、新しい懊悩と思い出が生み出されるだろう。
■思春期の「はみ出し」により厳しくなった現代社会。今もどこかで咲き誇る「中二病」
最近は中二病という言葉もすっかり有名になり、思春期を通り過ぎた大人だけでなく、まだ経験していない小学生までもが中二病を苦笑いの対象とみなしている。『惡の華』は中二病があまり知られていなかった頃、ガラケーからスマホへと移行する時期に描かれているから、20世紀生まれの思春期とはコンパチブルでも21世紀生まれの思春期とは一致しない部分もあるかもしれない。というのも、私たちは思春期のはみ出しに対してますます厳しくなり、作中の河川敷の小屋に象徴されるような、思春期のはみ出しを可能にしてくれる社会の隙間はますます少なくなっているからだ。
SNSが世界を繋ぎ、中二病を誰もが知る現代では、中学生のアイデンティティの空白やリビドーは変形せざるを得なくなっていよう。それでも、子どもから大人へと変わっていく季節の根幹は変わらないし、今もどこかで正真正銘の中二病が咲き誇っているはずだ。思春期のはみ出しに対して厳しい視線が向けられる時代だからこそ、そうした中二病のかけがえのなさは思い出されるべきだし、『惡の華』はそのためにも最適な作品だと思う。未熟でも真剣な思春期に、どうか祝福を。
(文/熊代亨)