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のん、女優としてのリスタートへ 舞台『私の恋人』出演、『この世界の片隅に』放送で高まる期待

2019年09月25日 06:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『のんたれ(I AM NON)』

 8月末の暑い日、下北沢の劇場のチケットは完売し、当日券の抽選のために列が作られていた。渡辺えり主宰の劇団、オフィス300の最新公演『私の恋人』。毎回楽しみに見にきている劇団のファンも多くいるだろう。でも客席の何割かは、普段は下北沢に足を運ばない、演劇を観る習慣のない観客たちも混じっていたのではないかと思う。劇場のロビーには共演者の渡辺えりや小日向文世あての花束が並んでいた。その中に、多くの観客が待ち望んでいる「彼女」への花束も多くあった。花束の中のひとつに、観客たちが声を上げて驚き、写真を撮影する花束があった。名札にはこう書かれていた。「御祝 渡辺えり様 のん様 小泉今日子」


参考:のん近影はこちらから


 日本中にその名を知られることになった朝の連続テレビ小説『あまちゃん』(NHK総合)で小泉今日子と共演した時、彼女は今とは違う本名を名乗っていた。所属事務所との契約問題が報じられてしばらく後の2016年、フランス革命記念日の前後に彼女は「のん」という新しい名前への改名を発表した。フランス語であればそれは拒否や否認を意味する。


 舞台の幕が上がる前から、観客たちが待つ彼女の声が場内に流れた。渡辺えりや小日向文世との軽妙な掛け合いの中で上演前の注意を読み上げる彼女の声に、観客たちから歓声が上がった。彼女は待たれているのだ。もう何年も前からずっと。


 舞台はいくつもの時代と場所を行き来し、歴史と政治が交差する、哲学的で複雑な構成だった。共演の渡辺えりや小日向文世と共に、彼女はいくつもの役を演じ分け、音楽に合わせて歌い、ダンスをした。それは女優としての空白期間に並行して開始した音楽活動の成果を見せるように見事なものだった。演技の面でも大きな成長が見えた。ある時は男性を演じ、ある時は別の時代に生きる別の民族を演じながら、その演技の中核には人々に愛された彼女らしさ、不器用なイノセンスが変わることなく輝いていた。


 上田岳弘の小説を原作にした舞台の奥深さ、そして出演者たちの素晴らしい演技に心を揺らされながら、僕は観劇の帰り道で、舞台とはまったく別のアメリカの野球小説のことを思い出していた。『シューレス・ジョー』という題名のその小説は、後にケビン・コスナーの主演によって『フィールド・オブ・ドリームス』と改題して映画化されることになる。MLBチームの存在しないアイオワ州で農業を営む主人公は、ある日突然畑の中で聞いた幻聴に突き動かされて、トウモロコシ畑を切り拓いて野球のグラウンドを作る。そしてそこには、かつてMLBを追放された名選手、シューレス・ジョー・ジャクソンたちの幽霊がやってくる。それはアメリカが失ったものの象徴と、その回復をめぐる小説だ。


 もちろん、「彼女」はシューレス・ジョーのように追放されたわけではないし、第一まだ26歳の若手女優としてさっきまで舞台に立っていたばかりなのだが、彼女の女優復帰を見届けるために各地から下北沢の劇場にやってくる観客の光景は、幻の野球選手を見るためにアイオワ州の農場に車のヘッドライトが連なって流れてくる映画のラストシーンを思わせたし、シューレス・ジョー・ジャクソンがアメリカが失ったものの象徴であるように、彼女はやはりどこかで僕たちの社会が消してしまったものの、見えなくさせたものの象徴として心に刻まれているように思えた。


 『あまちゃん』から『私の恋人』に至るまでの長く曲がりくねった空白期間の中で、多くのファンやクリエイターたちが彼女に表現の場を作るために奔走した。まるでそれは「If you build it,he will come(君がそれを作れば、彼はやってくる)」という風のささやきを信じて、自分の畑をさしだすあの小説の主人公のようだった。ファンたちは彼女の情報がまったく途絶えた間もイラストを描いたり、ドラマを見返したりして彼女への思いをつないできたし、音楽活動にも多くのミュージシャンが関わった。そして言うまでもなく、片渕須直監督による『この世界の片隅に』は、その中で彼女が見せた素晴らしい演技も相まって第40回日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞、第90回キネマ旬報の日本映画第1位に輝いた。その成功はやがてテレビを動かし、今年の8月にはNHKで映画の放送、そしてそれに伴う特別番組では何年ぶりかに彼女の映像コメントが放送された。


 多くの人が、舞台の次に彼女が帰ってくる場所を予感している。歴代ヒロインの登場する『なつぞら』や、宮藤官九郎が脚本を書く大河ドラマ『いだてん』(NHK総合)にそれが間に合うかどうかはわからない。でも例えそこで間に合わなかったとしても、近い将来に彼女は帰ってくる。


 それはたぶんハッピーエンドではなく、僕たちの社会のリスタートになるはずだ。ようやく彼女は奪われたイノセンスの象徴であることをやめ、26歳の若い女優として(その能力は『あまちゃん』のころよりもはるかに増していると舞台を見て感じた)歩き始めることができる。


 そして、「のん」という含蓄のある名前もすっかりお馴染みになりこれはこれでなかなかの二つ名ではあると思うけど、いつか彼女があの稀少な美しい本名を名乗れる日が来るのではないかと思うのだ。僕たちがフェアで、自由な社会を作ることができた時、たぶんきっと彼女はそこにやってくる。 ※記事初出時、一部に記述の誤りがありました。訂正してお詫びいたします。(9月25日)


(文=CDB)