エイス・グレード。アメリカの小中学校における最終学年=8年生で、年齢にすると大体13歳。『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』はタイトルの通り、中学校卒業を間近に控えた主人公ケイラの物語だ。13歳、少なくない人にとって、それはあまり振り返りたくないような思い出の詰まった年頃かもしれない。あるいは、今の自分にはもはや関係のないことだと思う人もいるだろう。しかし、そんな13歳の成長物語は、昨年アメリカで公開されると同時に、圧倒的な共感の声と批評家たちの絶賛に包まれる。
監督のボー・バーナムは公開当時弱冠27歳。もともとYouTubeにアップしたビデオが話題を呼び、スタンダップコメディアンから俳優としての顔まで持つ若き才人だ。彼にはそれまで映画製作の経験はなかった。そんな彼を名作『レディ・バード』の制作陣と映画スタジオA24がバックアップ。公開4館から規模を拡大、数々の映画祭で受賞を積み重ねながら社会現象と呼べるほどの大ヒットを記録し、オバマ前米大統領が2018年の年間ベスト映画に選出。アルフォンソ・キュアロン監督も「ここ最近で一番、泣いた映画」と大絶賛、『Rolling Stone』誌のレビューに至っては、「忘れることは不可能な、映画の神様からの贈り物」という表現を使い、満点の5つ星をつけている。いったいこの映画のなにが人々の心をそこまで惹きつけるのか? これまでの青春映画とは何が違うのか。
■フレームの中と外。理想の自分と、実際の自分
映画はYouTubeの配信動画から始まる。主人公ケイラがPCに向かってひとしきり語った後、映画のカメラは、彼女の配信風景──部屋の片隅にかけた布の背景の前で、PCを操作するケイラの姿が暗闇に浮かび上がる──を映す。この最初の2カットだけで、本作のテーマがこれ以上ないほど明確に示される。
フレームの中と外。理想の自分と、実際の自分。「Be Yourself、自分らしくあることが大事」とフレームの中から語りかける彼女の現実は、まったくもってなりたい自分ではない。気になる子と話すときには自分でも思ってないことを言ってしまうし、人気者グループのホームパーティーに呼ばれても、プールの端っこに「壁の花」としているしかない。ソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』で一番最初に自殺を図ったセシリアは、「人生を悲観するには若すぎる」と諭す医者に対してこう言った。「先生はどうみたって、13歳の女の子だったことはないでしょう?」
13歳。自意識が肥大化し、「どう見られるか」を気にして不安で仕方なかったあの頃。『エイス・グレード』は映画というフォーマットが持つ「フレームの中と外」の命題を、13歳の主人公の抱える繊細で切実な自意識の問題に接続し、それを今を生きるわたしたちの生活の中で無数に増殖したフレーム──パソコンやスマホ、ウェブカメラ、配信画面、インスタの正方形、プロフィール画像のトリミング──に呼応させて描ききる。その手腕はあまりに鮮やかで、「映画の神様からの贈り物」という言葉も誇張ではないことがわかる。
■人生は映画みたいにいかない。「今を生きる13歳」の現実が、かつて13歳だったすべての人の前に立ち上る
『エイス・グレード』の描写が映画的なモチーフを目一杯体現することに成功している一方で、ケイラの物語には映画のような出来事が起こるわけではない。かわりに描かれるのは徹底したリアルだ。監督はウェブマガジン「ROOKIE」のインタビューで「画面の差し替えは使わず、すべて実際のインターネットの画面を撮影しました」と語る。眠れなくてずっと流し見てしまうインスタとBuzzFeed、ミーム画像、メイク動画。ブックマークにはTeen Vogueと「ポケモンをiPhoneでプレイする方法」。
リアルなのはインターネットだけではない。ケイラの部屋の壁に貼られているのは、いつか行ったニューヨークの思い出のメトロカードと、ジャスティン・ビーバーのポスター。タイムカプセルに入れていたのは、『レゴムービー』と『シュガー・ラッシュ』の半券。ケイラが背負うのはL.L.Beanのネーム入りブックパック、イケてるあの子はJanSport。この映画のカメラは過去のどんなフィクションも敵わないほどに、みずみずしく「今を生きる13歳」の現実を映し出す。そしてそれは、かつて13歳だったすべての人の前に立ち現れる。徹底したリアルの描写こそが、本作がここまでの共感を得た理由だろう。ケイラの一挙手一投足にわたしたちの心はざわつき、彼女の人生が人ごとではなくなる。
「私の人生はジョン・ヒューズの映画じゃない」。これは『小悪魔はなぜモテる?!』という映画で、エマ・ストーン演じる主人公がネット配信中に語る言葉だ。自分の人生が映画みたいにはいかないということがわかってしまったのはいつだろう。ケイラはとても賢い。彼女は自分がどう見られるかに苦しむが、自分のことは誰よりもわかっている。自分がどうするべきかを自分に語りかけ、自ら行動を起こしていく。しかしそれはすべてうまくいかない。彼女の人生もまた、ジョン・ヒューズの映画ではないからだ。そんな中で、なにが彼女の心を救ったのか?
■『君の名前で僕を呼んで』や『ストレンジャー・シングス』に見る、青春映画における「父親」像の変化
ジョン・ヒューズ作品、古くはフランソワ・トリュフォーの「アントワーヌ・ドワネル」シリーズをはじめとした多くのティーン映画では、親の存在はしばしば厄介な者、権力を行使する側として描かれる。だからこそ、パーティーは親のいない時にしか起きない。特に父親という存在は、Toxic Masculinity=「有害な男性らしさ」のモチーフとして描かれることが多い。過剰に男らしく強くあろうとし、支配的で、ともすれば暴力的。『エイス・グレード』と同じくA24製作で、先月の『テルライド映画祭』でお披露目され、一気に来年の『アカデミー賞』レースの注目株に躍り出た『Waves(原題)』でも、Toxic Masculinityは大きなテーマとして描かれているという。
一方で、ここ数年の青春物語ではそうした父親のロールモデルが塗り替えられている。『君の名前で僕を呼んで』のエリオの父親、あるいは実父ではないものの、『ストレンジャー・シングス 未知の世界』で主人公エルの保護者となるホッパー署長などがいい例だ。どちらも子のことを精一杯理解しようとし、「痛みを忘れるな」という年長者としてのアドバイスで優しく包み込む。誰もが「こんな親でありたい」と思ったことだろう。
■父親が発する「Be Yourself」のメッセージ。少女の救いは、過去の青春映画とは一味違う感動をもたらす父子の対話にあった
『エイス・グレード』でのケイラの父親マークも、そうした父親たちに連なると言える。どこか頼りなく、ケイラとのコミュニケーションもうまくいかない優しい彼の姿は、Toxic Masculinityを抱えた父親像からは程遠い。しかし、奇しくもどちらも「理想化された80年代」というある種の箱庭を舞台とした『君の名前で僕を呼んで』や『ストレンジャー・シングス』における父親像とは異なる部分がある。それは、マークもまたケイラと同じく成長過程にあるということだ。
前述の2作品と同じく『エイス・グレード』もまた、「父親と子の対話」でクライマックスを迎える。しかしマークは、ケイラに対し決定的なアドバイスを語るわけではない。彼が語るのは「アドバイスなんて必要ないくらい、ケイラはもともと思いやりを持っている子である」ということ、「自分はケイラの姿を見ていただけである」こと、そして「ひとりでケイラを育てることになり、悩んでいた自分自身がケイラの姿に救われた」ということだ。マークは自分でもなにを言っているかよくわからなくなりながら、ケイラにそのことを懸命に語りかける。
ケイラがYouTube配信を通して自分に語りかけていた「Be Yourself」の言葉が反転し、父親からの目線で、マークとケイラの共通の問題としてケイラに語られるこの場面は、これまでの青春映画とは一味違う感動をもたらす。無理に理想の父親になろうとするのではなく、ただただ真摯にケイラと向き合おうとするマークの姿は、大人としてこの映画を観る者の心にも救いとなって映るはずだ。結局、大人になったわたしたちも13歳の時と変わらず悩み続けているのだから。
終盤、ケイラがインスタのDMに返信する場面がある。「フォロバありがとう!」のメッセージに対して、彼女は「no prob!=どういたしまして!」と返す。この時、「monprob」のミスタイプがno probに自動修正される。フランス語でmon(私の)prob(問題)が、no prob(大丈夫)に書き換えられる瞬間、それを啓示として捉えるのはきっと絶対に思い込みだろうけど、それでも「映画の神様からの贈り物」だなんて言葉とともに信じてしまいたくなるくらい、『エイス・グレード』は特別な映画である。
(文/Casper)