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『ルパンの娘』ラブとコメディが奇跡的に調和 “現代のロミオ”を大真面目にやる瀬戸康史

2019年09月12日 06:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『ルパンの娘』(c)フジテレビ

■「恋愛ドラマがつくりにくくなった」現代に生まれた『ルパンの娘』


 『ルパンの娘』(フジテレビ系)が面白い。残念ながら視聴率こそ伸び悩んではいるものの、そんなことを一顧だにせず、自分たちのやりたいことを貫き通す制作陣のブレない信念が、独自のワールドを築き上げている。


 その強烈な世界観からコメディの印象の強い本作だが、実はラブストーリーとして見ても高い完成度を誇っている。そもそも本作は当初から現代版『ロミオとジュリエット』を標榜していた。『ロミオとジュリエット』といえば、言わずと知れたラブストーリーの金字塔。「泥棒一家の娘と、警察一家の息子による、許されぬ恋の物語」という設定は非常にわかりやすい枷ではあるし、家同士の確執に翻弄されたロミオとジュリエットの恋に通じるところもあるのかもしれない。


 が、放送開始前までは、あくまでこの現代版『ロミオとジュリエット』というふれこみは、物語をわかりやすく訴求するための宣伝文句のようなもので、実際のところ2019年の東京で本気でそれをやるつもりなんてないだろうと、勝手に決め込んでいた。


 そんな甘い見立てを、『ルパンの娘』は易々と覆してくる。このドラマは、恋愛ドラマがつくりにくくなったと言われる現代で、本気で『ロミジュリ』をやろうとしていたのだ。


 その意志を所信表明のごとくぶち上げたのが、第1話の出会いのシーンだ。初めて会ったにもかかわらず、運命的に恋におち、キスをする華(深田恭子)と和馬(瀬戸康史)。舞台は、華の勤める図書館の一室。人目を忍び“Lの一族”という自らの出自に涙を流す華。そこに、和馬がやってくる。たなびく白のカーテン。暗い室内に差し込む自然光。そして、なぜか置いてあるやたらでっかい竪琴。え? ここ図書館だよね? ヴェローナの教会とかじゃないよね? と、脳内ツッコミを入れる間もなく、ほのかな光に照らされた和馬が、華の顎に優しく手を伸ばす。その画の美しさが完璧すぎて、笑っていいのかキュンとしていのかわからなくなった。この無駄にドラマティックな演出こそが、『ルパンの娘』の真骨頂なのだ。


 第3話で華が和馬に別れを切り出すシーンも、イタリア街のような華やかな街並みに、光のネックレスを幾重も垂らしたような金色のイルミネーションが、ふたりの恋の舞台美術。さらにはエルベ広場のマドンナの噴水を思わせる豪奢な噴水まで映り込んでいて、これまた『ロミジュリ』の世界を完全再現していた。


 だが、このあたりはまだ序の口。物語もコメディの色合いが濃く、『ロミジュリ』に関してもあくまでパロディであり、ロマンティシズムに徹した画づくりは、笑いのための起動装置と見ることができた。


 風向きが一変したのが、第5話。華の正体を、和馬に突き止められるシーンだ。愛した女性が泥棒だったという現実に直面した和馬の涙と苦悩で歪んだ表情。そして、マスクを暴かれたときの華の呆けたような儚い眼差し。その真に迫る演技が、すべてを変えた。もう視聴者は完全に笑いを忘れて、皮肉な運命に引き裂かれたふたりの恋に言葉を失うばかり。「くっだらね~」と笑い飛ばすためにあるようなB級コメディが、感涙の純愛ドラマへと変身した瞬間だった。


■瀬戸康史の大真面目なロミオが、バランスを支える屋台骨に


 そこからはもう華と和馬の波乱の恋にただ釘付け。第6話で、国際窃盗団に捕えられた華のもとへ和馬が悪漢たちをなぎ倒し駆けつけるシーンは、「ふたりの名場面のフラッシュバック×和馬の生死を懸けたアクション×悲しげなメロディ」という最強の掛け算で、恋のせつなさが最高潮。その正体を知りながら、華を逃がすという和馬の選択に驚きつつも胸が締めつけられた。


 さらに第7話では、警察から逃れる華と和馬がフェンス越しに再会。義賊とはいえ、法に反する華と、正義の徒である和馬。たった一枚の金網に隔てられたふたりの断絶がわかりやすくビジュアライズされていて、フェンス越しに華の名を呼ぶ和馬の叫びと、消えゆく華の背中というラストシーンに、まるで半身を失ったような心地にさせられた。


 開始当初、こんなドラマになるなんてまったく想像もしていなかった。おバカなコメディという基本コンセプトは守りつつ、常に斜め上の展開で視聴者を裏切り、ドキドキさせる。この振り幅が、『ルパンの娘』を極上のラブストーリーにしている。


 ちょっとでも誤ると、途端にバランスが崩れるラブとコメディの奇跡的な調和を成功させているのは、遊びを知り尽くした制作陣。いいドラマは、大きな嘘はつくけれど、小さな嘘は絶対につかない。「ありえね~」とツッコミたくなる荒唐無稽なネタの数々と、過剰なぐらいゴージャスな画づくりで、虚構の限界地点を突破しつつ、好きな人に秘密を抱えた後ろめたさや、愛する人のありのままを受け入れたものの、決してもう何も知らなかった頃には戻れない難しさを、繊細に描写。どんなに設定が突飛でも、枷を背負った恋に関しては普遍的なものとして丁寧に描いているから、視聴者の共感を呼ぶのだ。


 そして、それを演じる深田恭子と瀬戸康史の好演が、この特殊すぎる恋を応援したいものにしている。深田恭子の裏表のないピュアさはもちろんのこと、健闘光るのが瀬戸康史。瀬戸康史は、ともするとバカバカしくなってしまう恋物語を一貫して大真面目に演じ切っている。どれだけ周りがおふざけを入れようと、瀬戸自身が安易に笑いに走った場面はない。あくまで真剣に現代のロミオを演じ抜いている。その青臭いまでの一途さが、コメディとラブストーリーの間にそびえたつ塀を飛び越える“恋の翼”となっている。


 第8話は、和馬によって華に手錠がかけられるという衝撃のラストで幕を閉じた。さらに第9話では和馬がエミリ(岸井ゆきの)と婚約するという、またもや予想を裏切る展開が待っている。現時点で華と和馬の恋がどう着地するかは予測不可能。生真面目な和馬がLの一族に加わることは考えにくいし、犯罪者の烙印が押された華を警察一家の桜庭家が受け入れる姿も想像しづらい。


 もそも『ロミオとジュリエット』は悲恋。これだけ真っ向から『ロミジュリ』をやっている以上、もしかしたらこちらが想像しているよりずっと悲しいラストシーンが待っている可能性も否定はできない。ふたりの許されぬ恋ははたして成就するのか。その結末にこれだけハラハラできることこそが、『ルパンの娘』が王道ラブストーリーである証拠と言えそうだ。(文=横川良明)