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宮藤官九郎ドラマにおける阿部サダヲは“本音”を体現? 『いだてん』と過去作から探る

2019年09月01日 16:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』(写真提供=NHK)

 最初に俳優・阿部サダヲを知ったのは1997年の刑事ドラマ『踊る大捜査線』(フジテレビ系)だったと思う。


 阿部はある殺人事件の関係者に恨みを持つ男の役を演じており、終始無言だが、眼が印象的な少年の面影がある青年という印象だった。そのため、繊細な内面を持った犯罪者の役を得意とするような影のある俳優なのかと思っていた。


【写真】阿部サダヲ演じる河童のまーちゃん


 その後、磯山晶プロデュース、宮藤官九郎(クドカン)脚本の『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』といったTBS系のクドカンドラマの脇役でよく見るようになり、次第に彼が宮藤と同じ劇団大人計画に所属する俳優なのだと認知していった。


 『池袋』では風俗が大好きなお巡りさん・浜口。『木更津』ではヤクザとつながりのある草野球チームのコーチ・猫田というかなり胡散臭い役を演じていた阿部だが、奇妙な動きをしながら機関銃のようにまくし立てるその芝居には、独自のグルーヴ感と愛嬌があるのだが、同時にちょっと不愉快な圧みたいなものがあった。


 おそらくそれが一番出ているのが『木更津』の猫田である。主人公のぶっさん(岡田准一)たちの先輩で野球部のコーチである猫田は、上下関係を重んじ、上には媚びへつらい、下には高圧的な態度を取ろうとする。


 宮藤は『木更津』で描かれた「男子校のノリ」や地元の上下関係ですべてが決まってしまう世界観について「僕にとっては、本当につらい関係性」だと語り、『木更津』は悪意からスタートしていると『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』のシナリオ本(角川書店)巻末に掲載された磯山晶との対談で語っているのだが、その悪意がもっとも強く現れているのが猫田だろう。


 磯山は「大の大人が朝5時におきて草野球をするなんて信じられない。なぜ阿部さんは毎週やってるのだろう?」と宮藤がよく言っていた、と対談の中で語っている。阿部は小中高と野球部だったそうで、おそらく宮藤にとって阿部はそういった体育会系のノリを体現する存在なのだろう。


 出世作となった『マルモのおきて』(フジテレビ系)を筆頭に、阿部が演じる役は必ずしも嫌な奴ばかりではない。むしろ繊細で優しい青年の方が多いのではないかと思う。そんな中で、同じ劇団の宮藤が書く阿部のキャラクターに猫田的な存在が多くなるのは、宮藤が阿部をそう見ているからだ。


 一方、大人計画・主宰の松尾スズキは阿部について、こう語っている。


 「いずれにしても『何にもない』んですよ、あいつには。奥底には何かはあるんだろうけど、それを出すような人じゃないから。言ってみれば、ザ・俳優ですよ。藤山寛美さんとか、ああいう昔の喜劇人ですよ」(著・松尾スズキ、聞き書き・北井亮「大人計画ができるまで」太田出版) 


 確かに阿部サダヲには昭和の喜劇人の匂いがする。個人的には全盛期の植木等と渥美清とトニー谷を足して3で割ったような怪優だと思っているのだが、何より、勘と身体性だけであらゆる演技をこなしてしまう暴力的なまでの虚無感にいつも圧倒される。


 そんな阿部のヤバさが、もっとも出ているのは宮藤の脚本を日本テレビの水田伸生が監督した映画『舞妓Haaaan!!!』『なくもんか』『謝罪の王様』の三作だろう。


 三作とも阿部が主演を務めており、さながら阿部サダヲ三部作とでも言うべきコメディ映画なのだが、『木更津キャッツアイ』等の磯山晶プロデュースによるクドカンドラマがしっかりとテーマのあるドラマに仕上がっているのに対して、もっとノリと勢いで突破していこうという暴力的な迫力が、この三本にはある。


 その勢いを作り出しているのは、言うまでもなく阿部の身体性だが、物語よりも笑いに特化している分だけ、どこか空虚で、楽しいクドカンドラマの裏側にある「この人、何も信じてないんだろうなぁ」というダークサイドが露呈している。


 思うに、宮藤が阿部を使う場合、普段は抑制している本音と悪意がかなり乗っかってしまうのではないかと思う。


 現在放送中の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(はなし)~』(NHK総合)で阿部が演じている政治記者で水泳指導者の田畑政治にもそれは当てはまる。


 『いだてん』は第1部で「日本のマラソンの父」と言われた金栗四三(中村勘九郎)たちが日本人としてはじめてオリンピックに挑む姿を描き、現在放送されている第2部では田畑が主人公となっている。その際に面白いのは、第1部で描かれた日本人のオリンピックへ向かう苦難の歩みを、合理主義者の田畑が猛スピードで乗り越えていくところだ。田畑は金栗たちが築き上げてきたスポーツに対する思いを「とにかく勝たなきゃ意味がない」とばかりに踏み散らかしていく。もちろん彼にもスポーツを愛する気持ちや、選手に対する深い愛情はあるのだが、見ていてどうにも不穏で居心地の悪い気持ちになっていくのは、戦時下へと向かっている日本と田畑の姿が重なるからだろう。


 つまり、クドカンドラマにおける阿部サダヲとは“日本”そのものなのだ。


(成馬零一)