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『火口のふたり』と『天気の子』に共通点!? 人新世を生きる我々に突き付けられたリアル

2019年08月28日 12:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『火口のふたり』(c)2019「火口のふたり」製作委員会

 この映画を観終えたあと、正直なところ、少し困惑したことを覚えている。や、映画としては、とても素晴らしかった。とりわけ、ほぼ“出ずっぱり”と言ってもいい主演の2人の演技には、非常に心打たれるものがあった。その“あらすじ”はこうだ。兄妹同然に育った幼なじみの女・直子の結婚式に出席するため、久しぶりに故郷へ帰ってきた男・賢治。彼女と彼のあいだには、他の誰も知らない、ある“過去”があった。結婚式を間近に控えた女は男に言う。「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」。どうもこのご時世、この手の話に少々過敏になっているところがあるのかもしれない。ともすれば、“男の幻想”とも取られかねないそのような物語を、若い役者の身体を使ってこのような形で表現していいものなのか。それが自分の“困惑”の正体だった。しかし、結論から先に言うならば、別に良いのだ。「映画は学校の教科書ではない」のだから。


参考:『火口のふたり』柄本佑×瀧内公美が語る、荒井晴彦への挑戦 「“身体の言い分”に正直に生きること」


 58年生まれの直木賞作家・白石一文の小説を、47年生まれの脚本家・荒井晴彦が脚本化し、自ら監督を務めた映画『火口のふたり』。登場人物は、先ほど書いたように、ほぼ2人だけ。しかも、その大半のシーンが、いわゆる“濡れ場”と“食事”のシーン”のみという徹底したスタイルで描き出された本作は、作り手たちの言葉を借りるならば、“身体の言い分”というものが、ひとつ大きなテーマとなっている。実際、映画の公式サイトに掲載されている著者・白石との対談のなかで、監督・荒井は、この小説に惹かれた理由を、次のように語っている。「日本が終ってしまいそうな時に、『身体の言い分』に身をゆだねる二人がアナーキーでいいなと思いました。世間的な価値観や倫理じゃなくて、身体がしたい事をさせてあげようという。“自然災害=超自然”に対して、“人間の自然”で対峙しようという事ですよね」。


 かくして、大まかなプロットは原作そのままに──しかし、その舞台となる土地を九州から東北は秋田に変更し、それによって原作でも言及される“東日本大震災”との“心理的な距離感”に、新たな意味と解釈を加えながら描き出される本作。否、もうひとつ、重要な変更点があった。原作では、賢治41歳、直子36歳と設定されていたものを、柄本佑と瀧内公美という、それよりもひとまわり若い男女が演じることによって、その物語の雰囲気が、大きく変化しているのだ。端的に言って、原作にはなかった“明るさ”と、まるで青春映画のような“瑞々しさ”が、その2人によってもたらされているのだ。映画作品はもとより、朝ドラ『なつぞら』から大河ドラマ『いだてん』の出演に至るまで、近年活躍目覚ましい32歳の俳優・柄本佑と、主演映画『彼女の人生は間違いじゃない』(2017年)で鮮烈な印象を残して以降、最近ではテレビドラマでもよく目にするようになった29歳の女優・瀧内公美。いずれも近年、これまで以上に多くの人々から注目を受けるようになった、まさしく“勢いのある”役者である。この2人の文字通り“身体を張った”芝居が、本当に素晴らしい。


 結婚生活が破綻し、現在は失業中である男と、結婚を間近に控えた女が、自らの“身体の言い分”に身を委ねながら過ごす愛欲の日々。ともすれば、“破滅的”であるようにも思える彼/彼女の日々は、大方の予想とは異なり、いっさい他者が介在することのないまま、思いもよらない結末を迎えるのだった。直接的ではないにせよ、2人の行動に少なからず影響を及ぼしているであろう東日本大震災の記憶に加え、さらなる“自然災害”の到来が、映画の終盤で暗示されるのだ。ただでさえ不確かな未来が、よりいっそう見えないものとなったとき、賢治と直子が選び取った行動とは……。その結末については、敢えてここでは触れないけれど、この映画を観終えたあと、しばらく経ってから、唐突に思い起こしたのは、自分でもかなり意外ではあったけれど、この夏大ヒットを記録しているあのアニメーション映画だった。そう、新海誠監督の『天気の子』だ。


 周知の通り、その結末部分が物議を醸している映画『天気の子』。祈るだけで空を晴れるにする能力を持った“晴れ女”である少女は、映画の終盤、人々に壊滅的な被害を与えつつある異常気象に立ち向かい、その身を捧げることによって、“世界/セカイ”を救おうとする。しかし、本作の主人公である少年は、その結末を良しとしない。「天気なんて狂ったままでいいんだ!」。新海誠監督は、自身が書き下ろした小説『天気の子』の「あとがき」で、「映画は学校の教科書ではない」としながら、次のように書いている。「映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを──例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを──語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。(中略)僕は僕の生の実感を物語にしていくしかないのだ。いささか遅すぎる決心だったかもしれないけれど、『天気の子』はそういう気分のもとで書いた物語だった。」


 「僕は僕の生の実感を物語にしていくしかない」──その文章は、ほぼそのままの形で、映画『火口のふたり』の作り手たちと共通するところがあるように思えた。無論、作り手たちの世代の違い(新海監督は73年生まれだ)をはじめ、物語の中心となる男女の年齢や属性、あるいは“鯛のアクアパッツァ”と“豆苗ポテチャーハン”という登場人物たちが作る料理の“格差”、そもそも“性愛”表現の有無など、両者の外枠は、ほとんど対照的と言えるほど、大きく異なっている。しかし、ある種の“正しさ”では決して測ることのできない人間の心理や行動を、一点の迷いもなく描き切っているという点で、両者の共通項は多いように思う。その行動原理が、“世間的な価値観や倫理”に縛られていないこと。彼らが最終的に対峙するものが、人知を超えた“自然災害”であること。さらに言うならば、両者の共通点として、雄弁に物語る“歌”の存在を挙げることもできるだろう。台詞では描き切れないものを表現する手段として、荒井が自身の監督作において全幅の信頼を寄せている下田逸郎の音楽(映画『火口のふたり』では、「早く抱いて」、「この世の夢」、「紅い花咲いた」の3曲が使用されている)。それに対して、『君の名は。』に引き続き、というか『天気の子』では、それ以上に物語の根幹を担う役割を果たしているRADWIMPSの音楽。


 それにしても、荒井晴彦と新海誠である。まさか、この2人の新作に、共通するものを感じるとは、夢にも思わなかった。荒井晴彦と言えば、中上健次の小説を原作としたロマンポルノの傑作『赫い髪の女』(監督:神代辰巳、脚本:荒井晴彦/1979年)の時代から、初監督作となった『身も心も』(1997年)に至るまで、一貫して、社会的な規範に縛られない男女の“情愛”を描き続けてきた脚本家/映画監督である。そんな彼のテーマ性の“強度”のようなものが、アニメ界のニュースターとも言える新海誠の新作によって改めて浮き彫りになるとは、一体どういうことなのか。それが2019年のリアル、「人新世(アントロポセン)」を生きる我々に突き付けられたリアルということなのだろうか。


 いずれにせよ、映画作りのプロセスにおいてはともかく、映画そのものについて、ある種の“正しさ”を議論することは、あまり有意義なことであるとは思えない。むしろ、これらの男女の物語から、あなたは何を感じ取ったのか。“身体の言い分”という言い方は、どこか無責任な響きを伴うのであまり好きではないけれど、ある種の“正しさ”を振りかざす前に、自らの内なる“心の声”に耳を傾けてみることは、今という時代を生きる我々にとって、何よりも必要とされていることなのではないか。自分ではない誰かが標榜する“正しさ”に、条件反射的な追随をみせる前に、自らの内なる欲望の在処を、きっちりと見据えること。“意見”を表明するのは、それからでも遅くない。否、この2つの映画が奇しくも共通して問い掛けるのは、観る人の“意見”ではなく、何よりもその人自身の“感性”に他ならないのだから。(麦倉正樹)