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『劇場版おっさんずラブ』は実写BL映画の代表格に ド派手な設定の根底にある普遍的なテーマ

2019年08月28日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『劇場版おっさんずラブ ~LOVE or DEAD~』(c)2019「劇場版おっさんずラブ」製作委員会

 日本の実写BL映画のジャンルにおける至福の大傑作が“爆誕”した。おっさん同士が熱いラブバトルを繰り広げるというトンデモ設定ではじまった連続ドラマ『おっさんずラブ』(テレビ朝日系)の映画化『劇場版おっさんずラブ~LOVE or DEAD~』がついにこの夏、公開を迎えた。ドラマシリーズは、ポンコツサラリーマンの春田創一(田中圭)を巡って、同じ会社の部長である上司の黒澤武蔵(吉田鋼太郎)と、エリート若手社員の牧凌太(林遣都)による波乱の三角関係が描かれた。最終回では、そんな黒澤と結婚式まで挙げかけた春田だったが、土壇場で自分の本当の気持ちに気づき、牧にプロポーズして二人が結ばれる感動のハッピーエンドを迎えた。


参考:田中圭のブレイク後押しした『おっさんずラブ』 放送後も衰えぬ人気の理由は“優しい世界”にあり


 映画の物語は、春田が海外転勤を終えて東京へ戻ってくるところから幕を開ける。しかし、1年余りの遠距離を経た春田と牧の間には、ハプニングやすれ違いなどが重なり、微妙な距離が生じてしまっていた。もはやドラマシリーズで、春田と黒澤の突然の同棲という最終回目前の急展開を、涙を呑んで乗り越えた経験のある牧春民/春牧民(民=ファン)にとっては、牧春/春牧は確固たるものであるはずなのに、それでも二人の行く末を案じて1秒ごとに一喜一憂させられる。山田正義(志尊淳)や狸穴迅(沢村一樹)など、個性の強いメンバーも新たに加わり、さらにパワーアップしたラブバトルが白熱するが、映画のスケール感ならではのド派手な設定の根底にあるのは、“家族になること”や、“大人になったあとの夢”など、誰もが共感できる普遍的なテーマだ。恋愛要素もコメディ要素も、とにかく誰もが本気だからこそ、老若男女が楽しめ、思いっきり笑って泣くことができる。


 本作は、2016年に放送された同名による単発ドラマからスタートした。この単発ドラマでは、春田のホモフォビア(同性愛嫌悪)がいくらか誇張されて描かれているように思われる。シリーズの牧にあたる後輩の長谷川幸也(落合トモキ)に対し、春田が最後の最後まで「女が好きなんだ」と言い張るように、あくまで“男同士の恋愛”であることが強調されていた。一方、新たにスタートした『おっさんずラブ』シリーズでは、第1話が合コンや夫婦の食事シーンからはじまり異性愛規範的な雰囲気が示されていたものの、黒澤の春田に対する熱烈な想いや、春田と牧の公な付き合いに、周囲の人間の誰もが拒否反応を見せることなく受け止め、応援するような優しい世界が形成されている。そのため、いわゆる“社会派ドラマ”としてセクシャルマイノリティにまつわる諸問題や苦悩を提起していくようなタイプの作品ではない。むしろとことん観客のポジティブな感情を喚起し、大切なことを訴えかけてくるタイプの作品だといえるだろう。


 『おっさんずラブ』は、流されやすい受け身のダメ男だった春田が、牧との恋愛を通して少しずつ成長していく一面を持つ物語だが、ストーリーラインだけをなぞると、来年公開を控えるBL実写化映画『窮鼠はチーズの夢を見る』(2020年)に思いあたる。原作漫画では、流されやすい受け身のダメ男の大倉忠義演じる大伴恭一と、そんな大伴に一途に片思いするゲイの成田凌演じる今ヶ瀬渉の恋愛が描かれる。物語は今ヶ瀬が大伴の家に押しかけ、一緒に生活していくなかで迫り続けていくうちに、気づけば異性愛者であるはずの大伴が今ヶ瀬と恋仲へと発展していく……というもの。大伴は同性愛者のアイデンティティや、男が男を愛することがどういうことなのかで葛藤しているような印象を受けるが、春田は相手を好きかどうか、男女関係なく本当は誰のことが好きなのか、に重きをおいて揺れ続けていたように見える。


 BLジャンルもかなり多様化され、西島秀俊と内野聖陽が演じるゲイカップルの日常を描いたドラマ『きのう何食べた?』(テレビ東京系)が今年の頭に放送されるなど、次々とメインストリームに人気を博す質の高いBL実写化作品が生まれていく昨今の潮流にあって、それでも間違いなく『おっさんずラブ』は、今後もその代表格として語り継がれていくだろう。


 この優しいだけじゃない、辛いことだらけの世界で、それでも優しさと愛、ただそれだけをすくい取って、目一杯の笑いと共に、私たちに差し出してくれる。『おっさんずラブ』の世界を心に宿すだけで、明日から人生を生き抜いていけるような力さえ与えてくれる。どうして『おっさんずラブ』は、ここまで多くの観客の感情を強く動かすことができるのか。それはやはり、一つにはこの上ないないほど素晴らしい役者陣の魅力によるものが大きいだろう。林遣都の憂いを湛えたつぶらな瞳は、言葉の代わりにその切なさを物語るし、消え入りそうな佇まいや繊細な仕草には、つい背中を押したくなってしまう。


 そしてなにより、モテまくることに説得力を持たせなければいけない、“はるたん”こと春田を演じた田中圭の、天才的なまでのまったく邪気を感じさせない真っ直ぐすぎる天真爛漫さ。田中圭と林遣都という役者が、春田創一と牧凌太という架空であるはずの人物を全身全霊で生きるからこそ、この世界のどこかに二人が本当に存在していると信じることさえできる。自己犠牲に走ってしまいがちでどうしても逃げ腰になってしまう牧と、お人好しでとっさに目の前の人の想いを受け止めてしまいがちな春田の、あまりにも対照的で危うい関係が、それぞれの人間としての成長と同時に、また少し強くなる。映画ではそんな絆や成長も、確かに描かれている。ラストシーンで二人の上に映し出された青空は、私たちが彼らの幸せなその後を想像するためのキャンバスのごとく、どこまでも大きく広がっていた。(児玉美月)